良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『九十九本目の生娘』(1959)放送コードに引っかかり、ただいま封印中!大昔にビデオが出ていました。

 オドロオドロしいタイトルのためだけではなく、ただいまDVD化はもちろん、TV放送も難しくなっている新東宝らしいB級映画の代表作の一本がこの『九十九本目の生娘』です。「きゅうじゅうきゅう」なのか「くじゅうく」なのかも分かりにくいのですが、台詞中に刀鍛冶一族の長が「くじゅうはち」という部分があるので、たぶん「くじゅうく」なのだろうか。ただ若き日の颯爽とした菅原文太はたしか「きゅうじゅうきゅう」と言っていたようだし、なんだか判然としません。  この映画で放送や販売に引っかかるのは部落描写(岩手県北上川上流と実在の地名を言ってしまっている。まあ『大怪獣バラン』でも同じ問題があって、それでもクリアされていましたが…)、キ○ガイなどの台詞くらいでしょうから、そのへんをカットするだけで十分に商品化出来るのではないでしょうか。もっとも菅原文太など今ではビッグ・ネームになってしまった人たちが販売にNGを出してしまう可能性もあるので、どちらが理由なのかは分かりません。  内容を見ていくと、けっして、ただのいい加減な映画ではなく、奥深い山岳部落内での悲しみの歴史やふもとの村の住民との融和を目指して奔走するよそ者の神社の神主(沼田曜一)と部落の娘あざみ(松浦浪路)との愛情に近い信頼関係、そしてこの部落の娘と十年ごとに祭りのために誘拐をせねばならなかった老婆(五月藤江。この人のインパクトが凄い。まるで妖怪みたいな風貌でした。)の悲劇的な係わり合いなど、ただの新東宝らしい見せ物映画ではない、奥深い部分が多い。しかし、字幕テロップを見ていて、製作に大藏貢の名前が出てくるのもなんだかニヤニヤしました。
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 もちろん「なんじゃこりゃ!」という部分も数多い。地元警察署長の娘を誘拐していった老婆たちを追っていった文太率いる警官隊が部落民の弓矢や投石による反抗を受けると、威嚇射撃といいながら、いきなり水平角度での発砲をして、十人以上の部落民を射殺していく。まさかわが国の警察が、この時代(1950年代)に民間人を大量射殺するなどというのはなかなか見られるシーンではありません。  またこの老婆の運動能力が凄まじく、たった一人で若い女二人をわずかな時間で拉致して、神社の隠し部屋に連れて行ってしまう。その後に捕まえられても、縄を離したちょっとの隙に逃げ出して、青年二人をまいてしまう。警察に捕まっても、仲間とともに警官を殺害した上で脱獄し、ついでに警察署長の娘を誘拐して、九十九本目の刀を鍛える時の犠牲者にしようとする。  なぜ生娘を誘拐するかという理由が凄まじく、一本の太刀を鍛えて、最後に余熱を取るときの仕上げに処女の生き血を使って、独特のくもりを太刀に持たせるというものでした。彼らが九十九本目を急いだ理由は彼ら一族が存続するための神との契約として、九十九本を捧げると、彼ら一族の名が永遠となるとの言い伝えからでした。  最後の一本だったため、是が非でも一本の太刀を鍛える必要があったのです。それが完結せずに、ついに破綻したのは避けられない近代化のためでしょう。近代化の波に呑まれていく第一歩はお話しのきっかけとなった都会の若者たちがドライブでこの部落の近くまでやってきたことでしょう。  大昔であれば、このような山奥によそ者は入ってこなかったであろうに、車という文明の利器が発明され、量産化されてしまったために、何も知らない若者がずかずかと侵入し、老婆に捕まる。その土地土地に掟があり、それが機能しているうちには何の問題はなくとも、いったん近代化が始まると、否応なく、それが崩れ去る。  三原葉子ら二人の都会の女が誘拐されるわけですが、生娘が必要なのにセクシー女優だった彼女を連れて行ってしまうのは大笑いしてしまいますが、案の定、火入れの儀式のときに「この女の血は穢れている!」と部落の長(芝田新)が言い出したので、仕方なく、老婆が署長の娘の矢代京子を代わりの犠牲にしようとして、警察署長の家に強奪に行く。
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 どうやって血を見ただけで、穢れていると分かるのかは不明ですが、このへんはおバカポイントとして、カルト映画ファンには認識されているようです。ホラーっぽいノリなのに、この台詞によって、笑いになってしまう。公開当時はお笑いポイントになっていたのが疑問ですが、今の目で見ると、そうなってしまうのも仕方ないのかもしれません。    物語の鍵となる部落の娘の避けられぬ運命もこの部落を崩壊させる要因となった。自分の娘が幼くして死んだため、よそから浚ってきた娘を自分の娘として育ててきた老婆の悲しみも深い。しかしもともと部落の娘ではない彼女にはもともと無意識での部落民との違いがあったようでした。このへんも差別描写と取られてしまった部分かもしれません。また、この娘の部落に対する無意識に起こされる裏切りもありました。  この娘を許嫁にしていた五郎丸(国方伝)もまた、この部落の民ではありましたが、タガが緩んできていた部落の現状を反映し、掟よりも欲望を優先していく。よそから来た神主も、頑なに守ってきた伝統を壊してしまう。
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 祭りの日に神社に近づくなと言われていたにもかかわらず、酒に酔った勢いで、生き血を抜き取る儀式を覗いてしまったため、無残に殺された、ふもとの村の木こり(彼らと最初の犠牲者である都会の娘たちの捜索で、警察が動き出す)も終戦後の神への畏れの希薄化からこういった行動をとってしまったのだろう。  すべての現象はごく小さなことでも、いったん崩れだすと、その速度は一気に加速し、あっという間にこの部落は崩壊してしまう。警官隊との銃撃戦により、高い刀鍛冶の技術を持っていた部落の男たちはすべて死に絶え、女たちだけが残される。彼女たちには警官隊から食料と医薬品が配られる。  最初から生贄をあざみ(松浦浪路)にしていれば、他地域の住民を誰も巻き込むことなく済んだはずですが、小さいときから育ててきた老婆への手前、そう無碍なことも出来なかったのでしょう。  部落が守り続けたものは一体なんだったのだろう。またその伝統を簡単に叩き壊してしまう官憲の恐ろしさはどうなのだろう。何が正義なのかは言えない。常識というのも疑わしい。  おバカ映画として見る人も多いようですが、底辺に流れているのは哀しみではないだろうか。老婆(五月藤江)の超人的能力ばかりに気が行くと、本質を見損なう作品かもしれません。もっとも彼女のインパクトはかなり大きく、主役の文太も異様な彼女の風貌の前には影が薄かったのも事実です。 総合評価 65点