『蜘蛛巣城』(1957)水墨画のような映像美。黒澤映画史上もっともドロドロとした作品でもある。
半世紀以上も前になる1957年に製作された『蜘蛛巣城』は黒澤明監督の撮ったモノクロ映画の傑作のひとつである。1950年に国内では永田雅一社長に解りづらいと不評だった『羅生門』がヴェネチア映画祭に出品されていて、黒澤監督は結果として誰も予想していなかったグランプリの栄誉を得た。 このときの喜びは自身の自伝的作品である『蝦蟇の油』に詳しく著述されています。誰にも解ってもらえなかった自信作である『羅生門』を認めてくれたのがヨーロッパだったという事実は後の彼の映画製作姿勢にも大きな影響を与えたのは間違いない。もともとロシア文学をはじめとする古典文学を深く愛している黒澤監督がシェイクスピア(『乱』『蜘蛛巣城』)、ゴーリキー(『どん底』)、ドストエフスキー(『白痴』)などを映画化していったのはなんら不思議ではない。 ヨーロッパというマーケットを意識したときに向こうの観客にも親しみやすかったのではないだろうか。しかも物語の大筋は欧州古典なのに、登場人物は髷を結い、刀を身につけ、演出方法も日本的とくれば、観客は飛びついて劇場に観に行ったのでしょう。 この作品でも黒澤監督はふたたびノミネートの栄誉を受けたものの、インドの名監督であるサタジット・レイの『大地のうた』に敗れて、残念ながら二度目の受賞は逃してしまいました。そのためだけではないのでしょうが、『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『椿三十郎』『用心棒』『羅生門』『乱』など数多い黒澤明監督の時代劇作品中でも、今一つ影の薄い印象があります。
しかし黒澤監督にはまだまだ素晴らしい作品が数多くあることをこの『蜘蛛巣城』は教えてくれる。主演俳優には黒澤映画ではお馴染みの三船敏郎を起用し、主演女優には山田五十鈴を迎えて、この重厚な作品を纏め上げました。特に山田五十鈴を得たことによって俳優たちの芝居は締まり、作品の質はさらに上がっていきました。 彼ら主演の俳優たちの脇を固める俳優陣も志村喬、千秋実、稲葉義男、土屋嘉男、木村功、宮口精二ら『七人の侍』でもお馴染みの面々が存在感と安定感を示している。この作品でも黒澤明監督はその絶頂期の才能をいかんなく発揮しています。
60年代に入り、テレビの影響で徐々に映画の全盛期も終焉を迎え、スタッフも東宝が丸抱えすることが不可能になり、バラバラになっていくなど映画の製作環境も激変していきますので、レベルの高かった頃のまとまりのある映画製作現場の輝きを見て欲しい。 脚本はいつも通りの集団執筆体制をとり、黒澤明、小国英雄、橋本忍、君島隆三の四人が知恵を出し合って、シェークスピア四大悲劇のひとつ『マクベス』の換骨奪胎に成功しました。独りで書き続けることも素晴らしい才能ではありますが、いずれ劣らぬ四人が集まり、アイデアを出し合っていれば、よりレベルの高いものが出来上がる。
60年代以降は『暴走機関車』『トラトラトラ!』の度重なる失敗からの自殺未遂事件に始まり、ロシアに渡って数人の日本人スタッフを軸に撮らざるを得なかった『デルスウザーラ』や初のカラー作品となる『どですかでん』の興行不振など製作現場や映画を取り巻く状況の急速な変化などもあり、後期になるに従い、この強力な集団執筆制は崩壊してしまい、90年代に入ると黒澤監督の独善的な面が強く出てきてしまいますが、この作品の時期には十分に機能していました。 黒澤明作品は後に『乱』を『リア王』から、ゴーリキーの『どん底』を時代劇に翻案し、見事な出来映えに仕立てあげましたが、この『蜘蛛巣城』はそういう動きの第一弾でした。物語自体は難しいものではありませんが、登場人物の心理状態を映像で語っていく凄みを味わえるのが黒澤明作品での脚本集団執筆体制の最大の特徴ではないだろうか。 その後も続々と名作文学を翻案していく黒澤監督ですが、ただ安易に名作をリメイクするだけではなく、国と時代を変えても普遍的な人間の愚かさと哀しみを描いているからこそ、後世の視聴にも十分に耐えられる作品となったのでしょう。日本人的な感覚と西洋人でも共感できる感覚を熟知していたからこそ撮るべき作品を上手く選択できたのでしょうか。
映画そのものを見ていきますと、まず凄みを感じるのがその完成された映像美です。町人文化として繁栄してきた歌舞伎の軽さと華やかさとは違い、観阿弥世阿弥以来の武家の伝統として発展してきた能舞台の演出方法を駆使した室内シーンは芸術性が全面に出ているだけではなく、合理的で重々しい武家の所作動作も理にかなっているのでしょうか、無駄なく動いているように見える。 カメラの撮り方も強く能舞台を意識しているために、基本的に多くのシーンで引き画が使われていて、クロースアップは極限まで削ぎ落とされている。観客は突き放された状態となり、冷静な目でこの妄執の物語を見ることになる。それでも映像そのものに強い力があるので、気がつくとこの世界に引き込まれてしまう。 またこの映画でのモノクロ画面の美しさは水墨画にも通じるところがあり、まるで水墨画を描くような活動写真は稀有な映像芸術のひとつであるといえる。現代の技術と芸術、そして能や水墨画などの古典芸能との融合を見せてくれる。第七芸術に相応しい逸品です。 かといって、そうした伝統芸能の演出だけに頼るわけではなく、俳優たちの芝居もそれに負けることなく、互いに引き立て合っている。どちらか一方に傾くのではなく、両者が緊張感を持ち、ギリギリの線で戦をしているように感じました。画面構成も三角形構図が随所で見事に決まり、奥行きと広さ、そしてバランスの良さが心地よい。
見よ妄執の城の址 魂未だ住むごとし それ執心の修羅の道 昔も今もかわりなし 寄せ手と見えしは風の葦 鬨の声と聞きしは松の風 それ執心の修羅の道 昔も今も変わりなし 印象的なシーンをいくつか挙げていきます。まずは冒頭。霧に隠れて一寸先でも何も見えないところから不意に現れる蜘蛛巣城跡、そしてまた霧に包まれいき、また姿を現した時にはじつはフラッシュバックされていて、人間の妄執の物語が始まる。説明など何もなく、一気にスタートする冒頭ですが、このオープニングがあるからこそ、物語の儚さが際立ってくる。 劇中では元の殿様(佐々木孝丸が演じ、彼も前主を暗殺している。)を三船が暗殺し、城主に昇りつめるが、彼の座は千秋の子供に奪われることを物の怪(浪花千栄子)に予言されていた。前主の息子(太刀川洋一)が健在で、未来を予言された千秋の息子(久保明)も生き残り、三船に攻め込んで行きましたので、このあとに再び騒乱が起こることは目に見えている。 物の怪が望むように、人間は懲りずに殺し合いを続けていく。冒頭の霧のフラッシュバックのあとに登場する三船と千秋は合戦の覚めやらぬ中、本城での領主との謁見に向かう途中で、蜘蛛巣の森を通り抜けようとする。しかし勝手知った森であるにもかかわらず、遂に迷ってしまう。 その様子は画面を左から右へ、そして右から左へと行き来するカメラで示される。通常、映画では動きをスムーズに見せるためにイマジナリー・ラインが文法として存在します。それをあえて無視することで道に迷ってしまった混乱を表現していました。 霧は二回出てきます。霧のために道に迷うシーンが最初に出てくるが、物の怪との遭遇後に本城へ向かうときに二回目に右往左往する時に立ち込める霧のシーンとでは意味がまるで違う。これは今後の対応をどうしようかという妄執と欲望からくる迷いであろう。
画面の作り方で興味深かったのは物の怪との遭遇シーン。物の怪が不吉な予言のあとに跡形もなく消え去ったのち、屋根を残して、小屋が消えて無くなったことに驚いた三船と千秋が物の怪の座していた場所に踏み入ろうとしていくときにカメラは彼の後ろを一緒についていく。 小屋に踏み入ってのちに背後に振り返ると、完全に屋根もなくなり、小屋が跡形もなく消えていて、両者が驚くシーンがある。一見するとカットを割っているように見えるが、実は二人が小屋の跡に踏み入る刹那、つまりカメラから屋根が見切れる瞬間にセットの屋根を上に跳ね上げているのだ。このため、このシーンも黒澤明監督の代名詞とも言えるワンシーン・ワンカットの手法で撮られています。 このときに二人はじつは首塚に迷い込んでいたことを思い知らされるのですが、そのことには何も触れません。つまり平静な気持ちであれば、首塚に押し込められている亡霊どもに誑かされているのだとすぐに気づきそうなものですが、すでに欲望と妄執に取り込まれた二人はその悪意に満ちた謀りごとに引っかかってしまう。 黒澤組得意の焼き板も堂に入り、今回は偶然付いた黴をも利用して質感を増し、なんとも不気味な血濡れの壁を作り上げました。セットの迫力は今の目で見ても十分に素晴らしく、群を抜く存在感を誇っていて、新たにこの映画を見る者を圧倒する。
デフォルメされて造られた巨大な門構えの本城、黒壁の静かな威容は岡山の烏城を思い出させる。空中舞台のような城壁でのラストシーンも記憶に残る。カメラを通して見たときにもっともリアルに写るようにセットや衣装を制作しなければいけなかった黒澤組のスタッフたちはさぞ苦しい仕事をやり抜いたものだと感心します。 黒澤映画の美術を支えた村木与四郎は彼の著書『村木与四郎の映画美術』でも黒澤映画でのさまざまな苦労や思い出を語っていますので、興味のある方はお求めください。焼き板のこと、そしてこの作品での黴の利用などについての経緯も詳しく著述されています。
妻の浅茅役を務めた山田五十鈴の好演も見逃せない。妄執と欲望によって、徐々に精神に異常をきたしていく過程が象徴的に描かれていく。それはつまりメイクの仕方が変わっていくという部分である。メイクの原型になっているのが能面の曲見(くしゃみ)であり、これをもとにさらにメイクを重ねていくことで狂気の精神状態を表現している。 中でも恐ろしいのは自身の安泰だけを望み、本来大切な味方である筈の千秋実を始めとする家人を暗殺していった結果、周りに人がいなくなっていく様子は痛烈である。本人の精神状態も錯乱し、手が擦り切れるまで水で手についた鮮血を洗い流そうとするシーンは見せ場のひとつであり、クライマックスへの不吉な呼び水となっている。能舞台での狂女は山田五十鈴自身の代表作のひとつとなるのではないだろうか。
この映画ではなんといってもラスト・シークエンスでの矢の嵐の中で果てて行く三船の熱演に尽きる。矢を大量に射掛けられる大迫力のシーンには遠近感を生かした撮影がされていて、矢を射掛ける場所と矢が刺さっていく場所は三船からはかなり離れているのですが、大学の弓道部が参加しているので、初心者が構えているわけではありませんが、本物の矢であることは間違いないので、流石の三船も冷や冷やしながらの撮影だったようです。 もし突風が吹いたりしたら、矢というものは狙いとはかなり違うところへ飛んで行く場合もありますので、三船を臆病とは責められません。カメラの特性を熟知し、見え方を知っているプロフェッショナルたちが黒澤監督を中心にしていたモノクロ映画時代の最後の輝きを堪能できる。
ただし良いことばかりではない。この映画の最大の難点は音声の聞き取り難さである。とりわけ前半の浪花千栄子の台詞などはほとんど聞き取れないという人もいるようです。DVD化に伴い、デジタル・リマスター化されたときにだいぶ聞きやすくなったとは思えますが、それでも元の音自体に問題があるように見え、大幅に改善されたとは言いがたい。
音響には問題があるように思えますが、音楽は佐藤勝が受け持ち、師匠の早坂文雄の跡を継ぐにふさわしい才能を発揮しています。台詞で語らない感情部分を音楽のモチーフで雄弁に語る。能の見せ方、音楽の使い方、俳優の動きなど制限の多い演出の中で最良の選択をしているのではないでしょうか。 総合評価 95点
東宝
2007-11-09
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東宝
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