良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『夢』(1990) 夢というモチーフを借りた、黒澤明監督の私小説的作品。ネタバレあり。

 オムニバス形式というよりも、自らの見た「夢」をモチーフにして短編八作品を自身の歴史として紡いでいった作品集であり、後期の黒澤監督らしい審美的な映像美で満たされた作品に仕上がっています。ただ単に八本の短編を羅列しただけではなく、自身の幼少期の思い出から青壮年期の葛藤、そして老境での達観までを描いています。

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 同じような「夢」や「妄想」を描いた映画としては、フェリーニ監督の『8 1/2』があり、あの作品では追い詰められていくフェリーニ監督の自伝のような作品となっていますが、この作品では「夢」が黒澤監督の老境での落着いた回顧録として我々に提示されています。

 掛かりすぎる経費のために、惜しくも撮影されなかった幻の残り三作品である『飛ぶ』、『阿修羅』、そして最終話となるはずだった世界平和の話である『素晴らしい夢』が映像化されていれば完全な「夢」が完成していたはずなのでそれがとても残念です。

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 物語のあらすじを聞くだけでも、ビルの間で綱渡りをした後に、天使とともに夜空を駆ける『飛ぶ』、京都の阿修羅像や仏像たちが動き回るという『阿修羅』、そしていろいろな人種の人たちを世界各国の街で、何千人も集めて撮影しようとしていたという『素晴らしい夢』をぜひ劇場で観たかった思いが今でも強くあります。

 しかし、どれも聞くだけで、確かにお金がかかりそうな作品ですので、プロデューサーの一人でもあった黒澤久雄氏が監督に撮影を断念するように伝えたことも納得は出来ます。

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 各作品については、それぞれをプロットとして捉え、八作品全部をまとめて監督の「夢」の回想として捉えていきます。それは幼少期の記憶から始まり、青年期の苦労と苦悩、壮年期の現代文明と未来に対しての懸念であり、そして老成期の達観までの監督自身の「夢」という正直な精神世界の歴史でもあります。

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 『日照り雨』・『桃畑』 この二本は幼少期の記憶であり、物語自体は民話のような単純な話なのですが、その単純さが作品に力強さを持たせています。両作品ともに精霊が出てくる作品です。

 個人的には『桃畑』の中での雛壇をモチーフにした様式美的映像と雅な音楽が、突然「桃」の「死体」に転換するシーンと、オルガンの緊迫感にとても驚かされ、また監督の環境破壊へのすさまじい怒りを感じました。『日照り雨』での狐の嫁入りシーンの緊張感も圧巻です。

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 『雪女』・『トンネル』・『鴉』 青年期の苦労と苦悩を感じさせる三本です。当時の監督の孤高ぶりと罪悪感が浮かび上がります。『雪女』も前二作品と同じく「精霊」の話ではありますが、ここではより恐ろしいものとして「女」が描かれています。

 『日照り~』での「母」のような強さではなく、『桃畑』での純粋な「美」の対象としての「少女」でもなく、成熟した「女」が、「私」を破滅に向けて誘惑します。妥協するか、自身の信じる道を貫くかを、とても強い決意の伺える物語として展開し、身体的のみならず精神的な苦境からどう乗り切るかを短い時間で纏め上げています。

 画面の全てが猛吹雪で覆いつくされてしまう様子からは、当時の出口の見えない監督の苦悩を感じます。ここでも他のクルーに一方的に指示を出しているのは「私」のみであり、他人の言うことには一切耳を貸しません。「天皇」・「神様」と言われたことへの自虐的なパロディでしょうか。

  『トンネル』では、実際に徴兵をされることなく戦争を終えた黒澤監督の後ろめたさと懺悔が描かれています。この『トンネル』はとても暗い作品ですが、その中でなぜか「私」に対して尻尾を振りながら威嚇する犬と、未練があって出てきたはずなのに、かつての上官であった「私」に命令されると、もとの玉砕地に戻ってしまう小隊の霊たちの哀れさが、言い方は不謹慎かもしれませんが逆に何ともいえない哀しい面白みを出していました。

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 『鴉』では、ヴァン・ゴッホとの対話から芸術性とは何かを、同時代の人間ではなく過去の革新者から探ろうとする監督の思いと悩みが伝わってきます。耳を切り落とし、弟を殺害し最後には自殺してしまったゴッホ

 自らも自殺未遂をしてその後の作品を創りにくくなってしまった黒澤監督。自身に照らし合わせて見て共感できる部分があったに違いありません。出てくるゴッホゴッホ本人ではなく、黒澤監督の芸術家としての分身です。黒澤監督の実兄も自殺しています。

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 ただし『トンネル』から次に来るのが『鴉』という展開にはとても違和感を持ちました。『雪女』までは自然の美しさと「精霊」を扱っていた話であったのが、「霊」が出るにせよ突然に『トンネル』という人工物に変わり、色調もとても暗いものに変化していった後に、再度唐突に明るい映像である『鴉』に転換するのが何か目に引っ掛かりを持ちました。

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 『赤富士』・『鬼哭』 壮年期の自分自身および戦後世代の生き方についての猛烈な反省と、科学が支配する現実への恐怖を取り扱っています。核物質に色をつけるという斬新な発想と、その後に現れる奇形の存在を通して、核問題を身近なものとして捉える感覚にはブラックユーモアが沢山詰まっています。

 爆発後の海岸の汚さと、そのあとに登場する鬼が『どですかでん』の風景と浮浪者の父親(三谷昇)を思い出させました。個人的には、この2エピソードが必要だったかどうか疑わしく思っています。後のエピソードへの布石としての効果だというかもしれませんが、美しくないのです。

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   『水車のある村』 禅問答のような「老人」と「私」の会話。これは二人の会話ではなく監督の心の中での問答を映像化したものです。この『夢』という作品の中で、最も長い上映時間を取ったこのエピソードは、黒澤監督が世界中の黒澤ファンに向けて発信してくれた彼の遺言状です。

 「生きていくのはつらいとか何とか言うが、あれは人間の気取りでねえ。生きているのはいいもんだよ、面白い。」(名優・笠智衆のせりふより)素晴らしい遺言です。人間としてポジティブに生きてこその発言です。以上が全篇です。

 脚本的に思うのは、本来充実しているはずの壮年期の映像が、どうも全編の中で弱さを感じてしまうことです。実際の監督の壮年期も嫌なことや思いどおりに行かないことだらけだったためにあまりこの頃については思い出したくないのかもしれません。そのため中盤から後半にかけてだれる部分があります。

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 また思春期を含む青少年時代の映像が見当たりませんが、これこそがカットされてしまった『飛ぶ』と『阿修羅』なのでしょうか。一本を通して見ていくと「嫁入り」で始まり、「葬式」で終わるという構成であります。本来おめでたいはずの結婚が、異形のものである狐のそれであるために薄気味悪さを感じ、反対に本来悲しいはずの葬式が、あのように明るいものに変わって見えるのがとても面白く感じました。

 俳優・寺尾聰が後期の黒澤作品の中で果たした役割はあまりにも大きなものがあります。三船敏郎仲代達矢という巨大な黒澤作品の主役に対して、彼はとても繊細に見えます。スペクタクルを描くのであれば寺尾の主役はありえません。しかし監督の内面を描くのであれば、三船にはできません。仲代では意図と違うものがにじみ出てきます。過去を振り返り、未来に遺言を残すというこの作品での主役は彼以外には考えられません。

 まだ監督に対して遠慮があるように見受けられるのが残念で、繊細さは伝わるのですが緊迫感はあまり伝わってきません。マイナス面もありますが彼の残した印象はとても強く、後々になってから彼の出演した黒澤作品が三本に過ぎず、しかも主演はこれだけだったことがとても意外に思えました。私の中ではいつも主演していたようなイメージがあったからです。それ程この作品を含む後期作品群での彼の存在が大きかったのです。

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 また各作品に出てくる俳優陣のほとんどが原田美枝子頭師佳孝をはじめとして過去の作品で重要な役を演じた人ばかりなので、後期黒澤オールスターズによる定期公演の様相を呈していました。難点を挙げるとすると、スコセッシ監督が演じたオランダ人であるはずのゴッホが英語をしゃべる部分でした。せめて最初に「私」がしゃべっていたようにフランス語でやり取りをするべきでした。あそこで興ざめになります。

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 映像美というものがどういうものであるのかを人に説明するには、この作品とフェリーニ監督の『8 1/2』を見せれば十分でしょう。それ程の、際立ってレベルの高い映像が作品中のどこからでも見ることができます。

 『狐の嫁入り』の踊りのシーンの美しさ。『桃畑』の舞踊とひな壇になる様式美。おそらくあの並び方を理解できるのは日本人のみです。外国の人が見ればただ単にその映像の美しさは理解できても「雛飾り」の並びまでは知らないはずです。あのシーンがわかる日本人でよかったと心からそう思いました。実際に劇場であのシーンを観た時には涙が止まりませんでした。

 ワン・シーン・ワン・カットどころではない一作品・ワン・カットという長回しで撮られた『トンネル』にはワン・カットという時間の連続性から来る緊張感と不安感が最高潮にまで達していて、恐ろしいほどの完成度を持っています。

 そこいらのホラー映画ではこの恐怖には太刀打ちできません。「女性」を描けないという悪評のある黒澤監督ですが『雪女』では原田美枝子を使い「女」の美しさと恐さをしっかりと見せてくれます。

 『鴉』と『赤富士』で用いられたILMのグラフィック技術については賛否両論あり意見が分かれてしまうところでしょうが七十代で、あれを作品に使おうとして実現させた監督の冒険心に拍手を送りたい。「富士山」はどことなく平面的で立体感が乏しく書割のようでした。「絵」に入っていく一連のシーンと実写で撮られたゴッホの「絵」はとても美しく印象的でした。

 実際に私(このわたしは私個人です)自身が、1991年の春にニューヨークの近代美術館に行って、ゴッホの圧倒的な作品群を見たときにも「私」と同じように想像で「絵」の中に入り込んでいきました。監督はゴッホを選び作品に使いました。

 現物のゴッホ作品の絵画は他のどの画家のものよりも力強く「絵」から生命を感じます。あの力強いタッチはぜひ間近に行って見て頂きたいものです。グラフィック以外にも『どですかでん』で使用したように、道や背景にペイントをしてイメージを作り出す方法をここでも用いています。

 ゴッホの絵に近づける努力が惜しみなくなされていて、しかも大いなる遊び心を同時に見せつけてくれます。

 そして、この作品の最後を飾る『水車のある村』での「水」の描写の透明感と美しさ。タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』へのオマージュが出てきたので、劇場で見ていてうれしくなった記憶があります。どちらの映像にもいえますが「水」がこんなに美しいとは驚きでした。

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 ラストシーンで「私」は画面下のほうから上へ向けて歩き出します。そのとき下のほうの川、つまり「村」のあるほうの「川」はゆったりと流れ、「私」が向かっていく上のほうの川の流れはとても速い。「村」の時間は静かに流れ、再び喧騒の世界へ戻っていく「私」の時間は早く流れようとしています。

 「和」の音楽と「洋」の音楽が交互に効果的に用いられ、「絵」をさらに引き立てる相乗効果を上げています。映像と音楽の見事なコラボレーションです。『桃畑』では和の音楽は肯定的かつ幻想的に用いられ、洋の音楽は対照的に物悲しく否定的に使われています。

 反対に『雪女』では甘い女の和の声が地獄へ誘う甘い音楽であり、ファンファーレとともに出てくる洋楽は希望と活力の象徴です。対比させて和洋両方の音楽を効果的に使用しています。

 作品を通して、特に素晴らしいのは『桃畑』、『鴉』、『水車のある村』そして『トンネル』での迫り来る「軍靴」の足音です。あの軍靴の音はとても恐ろしい音でした。劇場で観ていて特にそう感じました。

 エンディングでの「水草」に絡み付いてくるようなエンドテーマも個人的にとても気に入っています。『黒澤明映画音楽大全』に、これが収録されていないのがとても残念です。

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 なかなか作品を撮ることのできなかった黒澤監督がスピルバーグ監督という大きなアシストを得て、思う存分にとりたいものを撮りきった作品であり、『トンネル』その他の各々のロケーション及び水車や、一話と二話に出てくる黒澤邸のつくりにこだわりを感じます。

 良いものにはどっしりとした質感が備わっています。後期作品に共通しているのは徹底した映像美へのこだわりです。この作品ではその集大成を見ることができます。『乱』のような激しい美しさはありませんが深い森で見ているような幻想的で幽玄の映像世界です。

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 一つ一つの作品が短いために、ワン・シーンとて見逃すまいとして、より緊張して観た作品でした。そのために時間の経過があっという間に過ぎていって、気がついたらもうエンドロールが出ていました。強いが押し付けがましくはないメッセージと、引き込まれてしまう映像美の数々。これは後期の代表作のひとつです。

 

総合評価 88点 夢 Akira Kurosawa's DREAMS

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