良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

黒澤明版シナリオ『暴走機関車』(1966)挫折した、男だけが登場する武骨な作品。

 とうとう映画化されることなく挫折してしまい、黒澤明監督のスランプ時代の幕開けとなってしまった忌まわしい企画、それがこの『暴走機関車』です。1985年になって、突然コンチャロフスキー監督によって、映画化され、ようやく日の目を見ました。

 しかし出来上がった作品からは黒澤版のシナリオが本来持っていた、シンプルな暴走機関車の迫力と疾走感、テンポと演技の武骨さ、そしてアメリカを意識したために、脚本チームが要所要所に息抜きとして入れていったジョークを中心にしたユーモアがほとんど消えてしまっている。

 その代わりに盛り込まれたのは、訳のわからない刑務所長との確執と妥協なき追跡、何故か乗っている女性社員と若い犯人とのラブロマンス、黒澤監督ならば絶対に挿入しなかったであろうロング・ショットでの機関車の姿など、才能のない監督が撮ると、ここまでシナリオが駄目になってしまうのかという悪い見本が次から次に示される。

 黒澤監督がそのまま撮っていれば、全く違う作品になっていただけに本当に残念です。素晴らしい作品として仕上がるはずでしたが、結局は企画倒れに終わり、その次に手がけた『トラ!トラ!トラ!』でもさまざまな不幸が重なりました。

 不慣れな東映での撮影、青柳プロデューサーの裏切り、黒澤組スタッフをほとんど使えなかった事もあり、監督降板という不名誉な事件ばかりが立て続けに起こりました。更に拍車をかけたのが『どですかでん』後の自殺未遂事件でしたが、これら悪い流れを作るきっかけとなったのが、この『暴走機関車』の企画でした。

 まずは、簡単に物語の筋書きを書いていきます。何故ならば、今現在では、このシナリオを読む事が非常に困難になっているからです。岩波書店から刊行された、全集・黒澤明の第5巻の巻末に、全文が掲載されているシナリオ『暴走機関車』なのですが、現在は生産中止となり絶版になっていて、ヤフオクか何かの中古での出品を待つしかない状況です。

 ちなみに『トラ!トラ!トラ!』のシナリオもキネ旬黒澤明 天才の苦悩と想像』に全文が掲載されているが、これも現在では入手できません。こちらについてものちのちに書いていこうと思います。ではまずは筋書きを書いていきます。あくまでも読まれる方の参考として要約を書いているだけなので、著作権の侵害などの意図は全くございません。

 <筋書き>

 オープニングの説明ショットは唯一の俯瞰的な映像であり、貨物ターミナル駅の夜更け前の全景が観客に提示されます。そしてカメラが寄ってくると、まずは脱獄した二人組が貨物列車のターミナル駅で、逃げるための機関車を選び、結果として暴走する機関車に乗りこんでしまうところから始まります。

 西から東へ、東から西へとどんどん列車は出て行きますが、観客が見やすいようにという演出上の理由から、彼らが乗車する列車は、その後、画面での進行方向が定められ、二人組の方向も固定されていきます。

 ブレーキ系統に問題を起こして、操縦士を振り落とし、ブレーキを焼き切ってしまって、「突然」暴走を始めた機関車は100キロ以上のスピードで突っ走っていきます。中に残されたのは二人組と整備係のみで、彼らは機関車の構造に関してほとんど無知であり、中から止めるのはほぼ不可能な状態に陥ります。

 「突然」というのがポイントであり、映画が始まってから5分くらいですぐに暴走を始めるのです。アメリカの関係者はここら辺の機微が理解できずに、かなり揉めたようですが、主役は機関車なので、彼が走り出す理由は貨物を廃車になるまで引きずらなければならない運命への反抗です。止めようとする人間対暴走する機関車という対立構図です。

 コンチャロフスキー版では走り出すまで30分近くかかり、それまでは原作には全く無かった刑務所内での犯人と所長の確執が描かれますが、これが全く馬鹿げていて、作品の質を下げる効果しかない。

 平行して描かれるのが、列車会社のコントロール・ルームであり、ここの指示により、暴走機関車が他の機関車に衝突しないように、ただ一本の線路をこの機関車のために確保していくというまさに綱渡りが始まります。転がる石のようにただ猛スピードで走って来る機関車は全くコントロールできないので、線路の状況をまずは整えます。そしてその後、いろいろな作戦を考え、何とか止められるように奔走します。

 イメージとしては『新幹線大爆破』での宇津井健の役回りです。『スピード』は『新幹線大爆破』に酷似していますが、『新幹線大爆破』はこの『暴走機関車』から明らかにアイデアを得ています。佐藤純弥(本来は旧字体)監督は東映でしたので、監督からいろいろと見せてもらっていたのかもしれません。

 機関車を外側から撮る事によって、爆発的な疾走感が失われてしまうことに気付いていた黒澤監督はスピード感を外からでも理解できるようにある方法を採ろうとしたようです。それはコントロール・ルームに電光掲示板(実際のものより大きく、速度が解りやすいように工夫したものを用いる。)を設置して、線路の状況を解りやすく図式化した画面を使う事で切り抜けようとしました。これは『新幹線~』でも使われています。

 この二つの地点(機関車内とコントロール・ルーム)での、機関車を止めるためと他の列車との追突を避けるための必死の闘いを描いたのが、この『暴走機関車』なのです。犯人達は脱獄犯なので、捕まったらまた、刑務所に逆戻りですが、乗ったままではいずれどこかに追突して事故死する運命にあります。刑務所でも閉じ込められ、機関車でも閉じ込められる。皮肉な運命をドライに描いています。

 また機関車についての感情移入が多く見られるのも特徴です。そもそも機関車はレールの上に繋がれたままで、何kmもの長さの貨物を、年がら年中、廃車になるまで引きずらなければなりません。このような過酷な運命を背負わされている機関車そのものが脱走犯なのです。機関車についての切ない歌も、物語の前半とラストシーンで繰り返し使われ、映画の頭と尻尾が繋がるように工夫されています。

 機関車内での犯人達の視線も常に中から外を見ることによって、スピード感が増していき、前を見るときもどんどん後ろ側に景色が遠ざかっていくような演出をしようとしていたことが窺えます。『天国と地獄』で絶大な効果を得た「第二こだま」シーンでの撮影方法を更に進化させ、スケールの大きいものを作ろうとしていた事が、これまでの文章で理解できると思います。

 切迫した状況にあっても、ジョークを忘れないアメリカ人の姿勢も表現されていて、非常に緩急に優れた作品として映画化されるはずだったのです。機関車の突進が緊張感を高めていく中で差し込まれるジョークはとても素晴らしい効果を挙げます。

 あと5分で、古い橋を全速力に近いスピードで駆け抜けるシーンの緊張も、シナリオでは同一時間の進行で映画化されるはずだったのが、コンチャロフスキー版ではこの時間すら端折られてしまい、気が付いたら5分もかからず到達して、何事もなく渡り切ってしまうという白け方であり、サスペンスを楽しむ観客への最低限度の配慮すらされていません。前半のクライマックス・シーンですらこの有様でした。

 そうこうするうちにコントロール・ルーム・サイドも、機関車にいる3人の男たちもなんとかしてこの暴走車を止めようとして、列車で追いかけたり、近くの山に機関車を止める方法を書いた大看板を作って見せたり、いろいろな作戦を立てていきます。

 機関車の下部に潜り込み、電気系統を停止させる事によりこの機関車は、はじめて捕まります(このシーンも『新幹線~』では爆弾が列車の下部に仕掛けられている、というふうに作りかえられている。)。脱走「車」はようやく逮捕され、また線路につながれます。<以上>

                               <参考文献 全集 黒澤明 第5巻>

 時間に対する概念も全く違っていて、黒澤版では走り出してから止まるまでの暴走機関車の軌跡を作品の同一時間内で示し、その時間内で奔走する人間達のおろかさと使命感を強く描き出します。

 とてもシンプルで解りやすく、動的で男性的なフィルムになるべき作品なのです。1985年度版がなぜあのように全く黒澤監督の意図とはかけ離れた作品になってしまったのかが理解できません。

 『暴走機関車』というタイトルを用いながら、出来上がった作品はまるで違うものでした。だいいちコンチャロフスキー版では完全に復讐劇のようになってしまい、しかも曖昧なラストシーンも重なり、首を傾げてしまうほど無残になっていました。あれを見て、黒澤監督版も同じものであると思わないで欲しいと切に願っています。

シナリオ完成度 95点(普段の尺度ならば、ストーリーの部分に当たりますので、20点満点で言うと、19点です。)