良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『荒野の用心棒』(1964)内緒でパクッたが予想外の大ヒットのため、結局バレてしまい....。

 1961年に黒澤明監督が『用心棒』を発表してから三年後の1964年に公開されたのが、この『荒野の用心棒』です。仮にヒットもせずに、二週間くらいで興行を終えて、ただ消えていけば全く問題にはならなかったのでしょうが、意に反して?マカロニ・ウェスタンを代表する作品になってしまったために盗作が表沙汰になってしまいました。  結局黒澤サイドに訴えられてしまい、レオーネ側は敗訴しました。監督名義もボブ・ロバートソンという偽名を使い、自分の名前を明らかにしなかったのは盗作であることを認めているのと同じであり、セルジオ・レオーネ監督のキャリアの汚点でもある。  のちに『ワンス・ア・ポン・ア・タイム・イン・アメリカ』などの素晴らしい作品を残したほど才能のある彼が何故わざわざこれ程の完コピをしたのかは大いに謎ですが、彼の作品中でも代表作のひとつになってしまったのは皮肉でもある。  誰もが知っている物語の要素を換骨して新しい血肉に入れ替えるという、いわゆる翻案物は黒澤監督自身も『乱』、『悪い奴ほど良く眠る』、『蜘蛛巣城』のプロットに、シェイクスピア劇を取り入れるなどしてやってきた事なのでどうこうは言えませんが、構図を含めた演出までパクってしまったのはレオーネの一世一代の失態でしょう。  見た目でいちいち何処がパクリだと指摘するのも面倒なくらいパクリだらけであり、三船敏郎からクリント・イーストウッドに主演俳優が変わったこと、日本刀が拳銃に変わったことくらいでした。  見た目以外で最大の変更点といえば、原作には大いにあったブラック・ユーモアのセンスが全く生かされていなかったことです。血生臭く、ずる賢い物語の要素とキャラクターが多数描かれる『用心棒』ではブラックな笑いが剥き出しの欲望を包み込む役割を持っていて、殺伐な作品中で救いになっていたのですが、この『荒野の用心棒』ではバッサリと笑いの要素がカットされていました。  どうせパクるならば、笑いの部分もパクッて欲しかったのですが、当時のクリント・イーストウッドに笑いを求めるのは難しかったのでしょうか。笑いをきちんと盛り込めていたならば、さらに演技の幅を広げられたのではないかと思います。  またアメリカの西部劇とは明らかに違うのが血生臭さとドライな感覚が同居している点でした。ドライと言っても、もともと荒野を描く事の多い西部劇というジャンルではありますが、そういったカラッとした乾燥ではない。    ここでいうドライとは人間が感情を失くし、情緒が全く見えてこないという意味においてです。人間性自体が荒涼かつ殺伐としているのは『ワイルド・バンチ』に代表される後期西部劇などの例外はあるにしても、正義を描く事の多いアメリカ製の西部劇ではあまり見られない。  黒澤明監督作品で、西部劇に生まれ変わったものには『荒野の七人』と『荒野の用心棒』がありますが、作品の質という点では後者の方が優れている。オール・スター・キャストによる前者は制作費は掛かっているのでしょうが、漫然とした仕上がりになっており、原作の良さがあまり活かされてはいない。印象に残っているのもテーマ曲くらいでした。  後者は完コピということもあるのですが、質としても前者よりは優れています。野望に燃えるギラギラしたクリント・イーストウッドと、すでに地位を築いた大物俳優達の満ち足りている意識との差かもしれません。  映像的にはクロース・アップの多用が気に掛かります。ただテンポは悪くないので、初見であれば、気付かないかもしれません。二つの悪党勢力の登場の仕方に映画上の工夫がされていて、片方の勢力は常に画面右から左に動き、もう片方は画面左から右に動きます。  彼らを衝突させる意図を持つクリント・イーストウッドが彼らの間を上手く立ち回っているのを表現するのに、どちら側からでも登場してきたり、画面の真ん中を使い、奥から出てきたり、手前から出てきたりします。どちらの味方でもないと言うことも映像で表現しています。  エンニオ・モリコーネの哀愁漂うテーマ曲も良く、印象に残ります。どうしても『用心棒』と比較しながら見てしまうのですが、上手く纏まっているのでどちらも未見の方には、ぜひ両方を見て欲しい作品です。  若き日のクリント・イーストウッドの、野望を持ちながら抑制を効かせている名演技を味わえます。監督名は公開時はボブ・ロバートソン名義だったのですが、DVDではセルジオ・レオーネでクレジットされていました。 総合評価 70点 荒野の用心棒
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