良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ライムライト』(1952)これは自身のセルフ・ポートレイトである。そして最高の映画である。

 チャーリー・チャップリン監督には喜劇王としてのイメージが強い。しかし注意深く見ていくと、彼が監督したほとんどの作品において、ていねいに描かれているのは悲惨な環境にいる人々の悲劇的なエピソードである。  ある時は彼の孤独であり、絶望であり、愛への渇望である。深い悲しみに満ちた物語に、ささやかな喜びやナンセンスな笑いの場面を配置していくと、それらの笑いは作品において、より際立った存在感を持つ。  笑いの中に悲しみがあるのではなく、悲しみの中に笑いがあるのです。悲しみが深ければ深いほどに、笑いの頂点はより高く聳える。だからこそ、彼の作品群は笑いの強烈なインパクトを、われわれ観客に残したのではないでしょうか。  客観的に引きで撮られる喜劇、感情を激しく揺さぶるクロース・アップで撮られる悲劇はとても効果的でした。映画言語を創生期から理解していたチャップリン監督はまさに不世出の映画人と言えます。  一本の映画を観たとして、その全てのショットが笑いで満たされていたならば、それは映画ではなく、ただのナンセンスなショーに過ぎない。観客が観ているのは映画であって、コント・ショーではない。笑いっぱなしのストーリー展開を映画とは呼べないのです。感情の起伏が描かれてこそ、はじめて映画なのです。  オープニング・シークエンスでのカメラの使い方にまずは興味が湧きました。第三者の視点で、アパートの外からクレア・ブルームの部屋内まで入り込み、自殺を図った彼女の様子を捉えるカメラがどこかフラフラと揺れるような動きをしている。不安定な彼女自身を表すような動き方でした。  つぎにチャーリーが帰宅し、アパートの異変に気付き、ガスの臭いのする部屋の扉を蹴り破ると、クレアが自殺を図った現場に立ち会ってしまう。チャーリーを捉えるカメラはしっかりと安定した移動を行い、客観性を保っている。  この二つの動きは不安定なヒロインと安定している主人公を対照的に描くことを物語っているようだが、後半になると安定してくるのはヒロインの方で、主人公は徐々に不安定になっていく。この作品はヒロインのサクセスストーリーを描くという単純な映画ではありません。  ある一人の芸人の末期の様子を切り取った没落の映画でもある。愛情という絆で結ばれた二人ではありますが、最後に用意される結末は悲劇的なものでした。カメラがわれわれに向けて、出演者たちについて映像で語ってくれている。  出演者は曲者ぞろいで、今回ヒロイン役を務めたのはいかにもチャップリン好みの色白で少女の面影を残し、どこか不良の臭いのするクレア・ブルームでした。ポーレット・ゴダートにしろ、彼女にしろ同じタイプの成熟しきっていない女性(人はそれをロリコンという)をヒロインに置くのもチャーリー・チャップリン監督作品の特徴かもしれません。  そして今回の最大の目玉は喜劇王バスター・キートンとの夢の共演です。火花の散るような緊張感の中で行われる、サイレント映画の手法を存分に活かした音楽ショーは映画の宝である。両者の緊張感と喜びがこちらにも十分に伝わってきます。  このクライマックスシーンはまさに二人の緊張が頂点に達し、一触即発の爆発しそうな迫力がフィルムに焼き付けられている。キートン、チャーリーともに最後の力を振り絞ったからこその圧巻のセッションでした。  つぎに、作品全体を支配する色調としては、白と黒がはっきりと分かれるハイ・コントラストで画面を描くシーンと、中間色である灰色を基調とするシーンを上手く配置して構成されている。前者は回想シーン及びチャーリーのパントマイム芸やクレアのバレエ・ダンスなどに使われ、後者はその他の現在のドラマ・シーンで用いられる。  栄光の日々と現在の境遇の落差を劇的に盛り上げたのはフラッシュ・バックでした。第三者ではなく、自分自身によるこの回想はより残酷で救いがない。栄光の日々が素晴らしければ素晴らしいほど、現在とのギャップに苦しむ。  回想シーンのほうが色合いがはっきりしているのは、過去の出来事の方がより鮮明に記憶にあるという意味であろうか。はたまた細部ははっきりしないが重要なものだけは覚えているという意味であろうか。先の見えない現在の様子をカメラが捉える時、どこか曖昧な印象のある灰色の画面が多かったような印象がありました。  チャーリー自身の投影でもあるカルヴェロを通して語られるこの作品は彼の自伝と呼べるのかもしれません。芸についての考え方、観客への視線、サイレントへの愛情、ハリウッドへの皮肉、そして自身の哲学をフィルムの中で語っています。  喜劇だけに収まらない、巨大な人間チャーリーの考え方の全てが出てきているのがこの作品なのです。『ライムライト』と『ニューヨークの王様』を観れば、晩年の彼の心情を理解できるでしょう。ただこれら二つの作品をチャーリー初体験映画として観るのは薦められない。  できれば『キッド』、『黄金狂時代』、『街の灯』、『モダンタイムス』、『独裁者』、そして『ライムライト』の順番で観て欲しい。サブテキストとして見るのは『移民』などの短編、晩年の『ニューヨークの王様』、純粋な監督作品である『巴里の女性』で良い。  最初の三作品はサイレント時代の彼の凄み、『モダンタイムス』はパート・トーキーでの迷い、『独裁者』と『ライムライト』では彼の哲学を味わえる。映画の歴史だけではなく、二度の世界大戦を含む、激動の現代史の中での芸術家としての一生を体現したのがチャーリー・チャップリンなのです。  それはさておき、チャーリーの演技の細かさにも注目していきたい。老眼である事を示す手紙の読み方、時々ふらつく足腰の衰え、鏡に映った自分を見て、老いを自覚する場面など哀しくなるショットが続きます。若い時はもちろん、老いを迎えたこの時も、身体全体が自己を表現するための道具として機能していたのがチャップリン、そのひとでした。  チャーリーの視線はふらつきだし、常に不安げな印象をわれわれに与える。クレアがバレリーナとして成功し始めると、さらに両者の差が際立ってくる。自殺未遂を図った時には弱々しく、立つことも出来なかったクレアがいざチャンスを掴むと、プリマらしく、ピンと背筋を伸ばし、視線を高く保ち、堂々としてくるのに対し、芸人として落ちぶれて、背を丸めるチャーリーの姿は哀れとしか言いようがない。  音楽も残酷である。『エターナリー』とは永遠に、という意味です。栄光の日々を迎える者と没落していく者との栄光のバトン交換が永久に繰り返されるという意味なのだろうか。チャーリーの彼女への愛情、彼女のチャーリーへの愛情が永遠に続くという意味なのだろうか。  音楽で言えば、この作品のクライマックス・シーンではチャーリーだけでなく、もうひとりの、かつての大スターとの共演を楽しめます。彼の名はバスター・キートン。サイレント時代には、チャップリンとともに絶大な人気を誇っていた彼はトーキーの流れに順応できずに落ちぶれ、酒に溺れていました。しかしそうだからといって、彼の価値が失われたわけではありません。  ここでのチャップリンキートンの両者はともに真骨頂である切れ味鋭いパントマイム手法を生かして、お互いの個性を思う存分に発揮している。この音楽ショーは絶品です。一言もしゃべらないのに、両者は完全なコミュニケーションをとっている。  それは「間」であったり、視線である。二人の登場シーンまで、ざわざわしていた観客の声が、このシーンでは全く聞こえなくなっているのも象徴的である。サイレントで地位を掴んだ者たちのトーキーへの最後の抵抗を描いたのが、この音楽ショー・シークエンスである。  動きとアイコンタクトですべてを作り上げていく凄みを味わって欲しい。二人が持つ、サイレントへのノスタルジーとトーキーへの反骨精神が力強く描かれている。二度と戻ってこないサイレント時代へのレクイエムと呼べるのが、この音楽ショーなのです。  記憶に残るさまざまな場面、心に突き刺さる厳しい言葉、耳に残る美しい音楽など素晴らしさで満たされたこの作品がチャップリンの代表作のひとつであるのは間違いない。誰が見てもどの時代で見ても、その素晴らしさが観る者にしっかりと伝わってくるのが古典であるならば、この『ライムライト』はまさに古典である。 総合評価 95点 ライムライト
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