良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『紅の豚』(1992)宮崎駿監督作品中、もっとも男の魅力が表現されている一本。

 さて、宮崎駿監督作品(長編)は全部で何本あるのでしょう。答えは『カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『天空の城 ラピュタ』『魔女の宅急便』『となりのトトロ』『紅の豚』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』そして『ハウルの動く城』の全九本です。

 スタジオ・ジブリ制作のアニメとなれば、つまり高畑勲監督作品である『火垂るの墓』『ホーホケキョ となりの山田君』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦 ぽんぽこ』、実子である宮崎吾朗監督作品の『ゲド戦記』などを含めれば、作品数はもっと増えていきます。

 しかし厳密に監督作品という括りで見ていくと実は案外少なく、上記の9本のみ(TV映画用に制作された『名探偵ホームズ』は除外しています)なのです。これが多いか少ないかは意見が分かれるところではありますが、個人的にも思い出に残る作品群はといえばすべて上記の作品群である。

 高畑監督作品にも優れたものが多いのは承知していますが、記憶に残る、またはあとあとまで余韻が残り続ける作品といえば、宮崎監督作品を挙げざるを得ない。では何故彼の作品は心に残るのだろう。

 物語の面白さ、キャラクターの親しみやすさ、声優の話題性、監督の思想、ジブリという名の持つブランド力、大量宣伝とタイアップ戦略の利用などさまざまな要因が積み重なって、これほど大きなアニメ帝国を築き上げたのは間違いありません。

 しかし、なんといっても成功の主要因は出来上がってくるセル・アニメ一枚一枚の優しく丁寧な作り込みの素晴らしさ、個性的なデザインの小道具や衣装を含めたキャラクター設定、そして映画としての表現の巧みさではないだろうか。

 アニメだから解り易い画面になるとは限らない。音響へのこだわり、光と陰の使い分け、オフ・スクリーンを感じさせる目の動き、イマジナリー方向を理解して決められていると思われる人物や乗り物の動き、高低差をダイナミックに用いる映像感覚、縦構図を強く意識した画面の作り方から解るのは実写映画を撮る監督ですらしっかりと身につけていない感覚を彼が有しているということである。

 これは二次元ではない、三次元の奥行きを表現しなければならないという映画の虚構と横に比べてどうしても小さくなってしまう縦の画面の現実、つまりスクリーンの特性を理解する感覚、豊かな映画表現を宮崎監督が持っていることを意味するのである。

 アニメだからと馬鹿に出来ない彼の映像感覚を堪能すべきであろう。実写ならば、すぐに出来てしまう何気ないワン・シーンを撮るのにアニメでは一秒間に24コマを描かなければならないのだ。その労力を考えずして、単純に面白いとか、つまらないとか言ってはならないのがアニメという分野であろう。

 また責任が重く、難しい問題がある。それはアニメではすべての画面の出来上がりに対して、実写映画以上に監督が責任を持たねばならないということです。描いていく前に全ての映像イメージとキャラクター設定、絵コンテなどを正確に、そして完璧に全アニメーターたちに伝えなければならないのです。労力を考えると、書き直しというのが極めて困難な分野がアニメなのです。

 実写映画でも監督が映像全般に責任を持つのは当然なのですが、ひとつひとつの色、10分の1秒とかの短い時間でのアクション・シーンで要求される前画面と次画面との整合性を要求される細かさは実写映画の比ではない。

 もちろん、アニメだからこそ出来る映像表現も多々あります。重力を無視した非現実的な動き、危険な場所のシーンや戦闘シーンでもスタントを使わずに映像で表現できますし、死亡事故などは起こりません。高所、海中、閉所、外国、過去や未来のSF的世界などを舞台にした映像を作る時にはアニメは強大な表現力を持っています。セット代も掛かりません。

 長々と書いてしまいましたが、この『紅の豚』も舞台は第一次大戦と第二次大戦のちょうど境目の1930年代のイタリア、主人公はポルコ・ロッソという名パイロットの豚、空中戦の多い物語構成と操縦席から見たシーンの多さなどは、まさにアニメを作るに持って来いの内容ではなかろうか。

 台詞も洒落ていて、作品の完成度としては抜群であり、個人的にはもっとも大好きな宮崎駿監督作品です。中年男(宮崎監督自身)から見たセンチメンタルなドラマであり、こういった過去へのノスタルジーを描くにはイタリアという土地柄とそうは遠くない過去という時代設定が必要だったのでしょう。

 社会主義への憧憬とファシズムへの嫌悪という単純なものではなく、社会主義自体も崩壊の一途を突き進み、イタリアのすぐ隣のユーゴはクロアチアセルビアマケドニアなどに分裂していった時代に制作された関係上、社会主義礼賛を唱える訳にもいかず、宮崎監督は戸惑っていたのではないだろうか。

 そのためかは分かりませんが、ポルコの言動は国家主義でも社会主義でもない無政府主義者的な言動が目につきます。妥協ではないでしょうか。しかしながら自身の過去への断ち切れぬ思いから挿入曲に『さくらんぼの実る頃』『時には昔の話を』を選んだのであろう。両方とも社会主義学生運動に関係してくる歌です。

 ストーリーを見ていくと、第一次大戦の英雄が戦後、時代の徒花ともいえる飛行艇乗りの賞金稼ぎとなり、大空で活躍する様子を描いてはいるが、その背後にはすでにファシズムの軍靴が間近に迫ってきている緊迫感や閉塞感を映像で描写しているのは見事である。

 醜いものを醜く描くのは簡単だが、消えゆく運命にある古いタイプの英雄、カッコ良いはずの飛行艇乗りを敢えて「豚」として主人公に据えたのは風刺であり、皮肉である。時代の先端であったファシスト党工作員達が小さく、薄汚れた顔のない存在として描かれているのも興味深い。ファシズムに個性の別など必要ないということだろう。

 興味深いのは当時の最先端の思想であったファシズムコミュニズムを扱い、ファシズムを悪、コミュニズムを善と捉えている点である。これは宮崎自身の思想の現れであろう。「紅」というタイトル自体がコミュニズムを想起させるし、ポルコの言動もアナーキー的なものが多い。

 フィオとイタリア人の名に懸けて、飛行艇の操行テクニックと技術革新を駆使して、日の出の勢いであったアメリカ人パイロットと戦うポルコが、最後は機械ではないお互いの一対一での殴り合いになだれ込んでゆくというのは明らかに騎士道精神的なエピソードの挿入であるが、日本人やヨーロッパ人の精神風土には合っている。

 自分で魔法をかけて豚になったというのを比喩的表現だとすると、これは本心を隠してファシストの目を誤魔化し、自由を満喫しようとしているように見せかけて、非合法な運動へ資金提供しているとも取れる。

 マルコがポルコ(豚)になり、それを解くには愛する者のキスが必要というのも民話的であり、使い古された『美女と野獣』のモチーフの再現でもある。前時代的ではあるが、この映画にはなんともいえない古き良き時代へのノスタルジー男のロマンがたしかに存在するので許せる範囲であり、理想世界が崩れていくのを見るというか、民族主義という現実の厳しさを知らされるのは辛かったのかもしれません。

 政治的な話はさておき、周りの人たちに聞いても、これを支持するのは皆男たちばかりで、女性たちにはあまり評判が芳しくないのが、この『紅の豚』である。つい最近も知人の女性から、このDVDを借りる話になり「これが一番いいよね!」と言ったら、「これ?どこが?」と言われてしまいました。一瞬たじろぎましたが「分からなくて結構さ!」と言いたいですね。

 古いイタリア映画を思わせる歴史と人間の生活感を見せつける建築物とレストランは格別で、装飾は言うに及ばず、品の良さと重厚感など雰囲気作りを重視する姿勢が見えるのが嬉しい。当時のジブリ作品で好きなのは細かい部分での街並み、衣装、小道具のセンスの良さである。スタッフたちの作品への熱意とレベルの高さには惚れ惚れします。

 高低差をもっとも意識的に使った作品でもあります。陸と海、陸地とドブ川、空と海、絶壁と海岸線、太陽と海面など画面の上と下を意識的に使うのは映画への自信の表れに他ならない。物理的にスクリーンは横が広く、縦が狭い。そこで映画作家たちは奥行きと高さを表現するためにさまざまな工夫をします。

 いわゆる縦構図の画面作り、影と光の利用、ロー・アングル、遠近感によるトリックを利用などにより奥行きと高さを表現していく。アニメでは難しい作業がこの部分でもある。宮崎監督はそこを「大空と海面」「陸地と大空」など明らかに違う高さを観客に提示していくことで、観客に高さを植え付けることに成功しました。薄汚れた陸地と抜けるように美しい海と大空とのギャップも絶妙です。

 特に印象に残るシーンを幾つか。まずはサボイア(飛行艇)をミラノのドブ川からタブやテクニックを駆使して空へ飛ばすシーンの疾走感の素晴らしさを挙げます。大幅に強調された飛行艇の波飛沫の激しさと船に当たりそうになったり、速さと不安定な状態のためにひっくり返りそうになる状況を操行テクニックと新技術であるタブで切り抜ける一連のシーンのマニアックなまでの操縦描写の細かさには執念を感じます。

 その後に訪れるホテル・アドリアーノに、ミラノでサボイアを修理してから復活したポルコが顔を見せるシーンも素晴らしい。このときの凄みは何といってもカメラワークでしょう。ジーナの視点によるスローモーションを交えた360度パンから、ポルコの空中から島をなめ回すように回り込むそれに切り替わっていき、最後にはジーナの視点ショットに戻っていくシーンは圧巻の一言です。

 今回の作品での飛行機の操縦描写への異常なまでのこだわりは宮崎監督の趣味なのだろうか。『未来少年コナン』でのギガント、『死の翼 アルバトロス』での飛行艇、『カリオストロの城』でのオート・ジャイロなど彼の趣味を思わせる作品は多々あるが、ここまで徹底した作品はこれだけであろう。飛行機を愛しているからこそ描き切れたのではないだろうか。

 演技面では何といってもポルコ役の森山周一郎の声が作品に貢献している。彼の声の持つ渋さ、優しさ、哀しさをミックスした独特の個性ある声質は全ジブリ作品中でも他にはいない。最も強い印象を残してくれた声でした。

 彼の声で語られる数々の洒落ていて、カッコよい台詞は今でも耳に焼きついている。実写でもしこれを制作するとすれば、ポルコ役にはハンフリー・ボガートをおいて他にはいない。

 加藤登紀子の素晴らしい歌声と不幸を背負った女の情念溢れる声も忘れがたい。主人公と彼を支える女が二人。一人は加藤が演じるジーナ。もう一人がフィオ役を演じた岡村明美。彼女のキャラクター設定はいかにも宮崎作品に出てきそうな容姿である。

 若くて、清楚で、よく働く女性像は何度も描かれ、その後も描かれていく。クラリス、キキ、ナウシカ千尋、サツキ、そしてソフィー。チャップリンロリコン傾向と同じ臭いを感じてしまう。とうかこういった女性像こそが宮崎作品でのヒロインを演じる資格があるということなのでしょう。

 建築物のデザインが優れている作品でもある。なかでもホテル・アドリアーノの立地とデザインは素晴らしい。沖合いの岩場に立てられたと思われる秘密の邸宅兼夜の社交場であるこのリゾート・ホテルは個性的で美しい。波止場があり、バーがあり、草花が咲き乱れる奥屋敷を有する。「サツキとメイの家」は好評だったようだが、今度は是非こちらも作って欲しい。

 マルコとジーナが乗った思い出の飛行艇の名はアドリアーノでしたが、このホテルの名前はここから取ったのか、それともアドリア海から取ったのか。どっちでしょうか。

 音楽もいい仕事をしています。久石譲の付けた音楽はどれもピタリと映像にはまり、相乗効果を上げている。ミラノへ向かう大空で、晴れている時とカーチスに追いつかれようとした時に掛かる音楽の対比は素晴らしく、引き込まれてしまう。マーチ音楽も決まっていて、楽しい雰囲気の音がずっと続いていました。

 つぎに特筆すべきは台詞のセンスの良さです。全宮崎作品及びジブリ作品の中でもこの作品での台詞ほど洒落ている会話が展開されるものはただのひとつもない。以下は台詞の抜粋です。

 「徹夜はするな。睡眠不足は良い仕事の敵だ。美容にも良くない。」

 「結婚は惚れるより、慣れだってよ。」

 「国家とか民族とか下らないスポンサーのもとで飛ばなきゃ、しょうがないんだよ!」

 「女はいいぞお。よく働くし、粘り強い!」

 「ここではあなたの国より、人生がもうちょっと複雑にできているの。」

 「世界の半分は女だ!」

 「戦争で稼ぐヤツは悪党だ。賞金稼ぎで稼げないのは能無しだ!」

 「いいヤツはみんな死んだ。友よ。」

 「飛行艇乗りほど素晴らしい奴らは他にいない。雲と海が奴らの心を洗うからだ。」

 「奴らは船乗りよりも勇敢で、飛行機乗りより誇り高い。」

 「みんな誘拐するのか?仲間外れを作っちゃ、かわいそうだろ?」

 台詞を聞いているだけでもワクワクする作品はそうはありません。これは数少ない一本なのです。女性に関する台詞が多いのはイタリアが舞台ということも関係しているかもしれません。

個人的には最も多く、繰り返して何度も見た作品です。

 不満と取られる点についてもいくつか述べておきます。何故豚が主役なんだ!というのが当時もっとも聞かれましたが、もしあれを二枚目の中年が演じていれば、これ程人気は出なかったでしょう。あのギャップがあるからこそ気障な台詞が上滑りしなかったのです。

 キャラクター達の将来がフィオによって行われる語りだけで知らされ、しかもそれが曖昧なハッピーエンドに終わるのもファンの不満を買っているようです。しかし最後まで見せられては想像する楽しみが一切無くなってしまうではないですか。想像できるから楽しいのです。何でも見せられても困ってしまう。観客の全ての問いに答える必要など作家にはありません。

 曖昧な結末など名作といわれる映画には沢山あります。曖昧だからといって批判するのは筋違いにも程があります。これでいいのだ!

総合評価 97点

紅の豚

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