良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『墨攻』(2006)アンディ・ラウの抑制の効いた演技と戦闘シーンの迫力は観る価値あり。

 月曜日の第一回目の上映を観てきました。200人で満席になる館内には50人程度の人たちが席を埋めていました。パンプレットを読んでいる人が多かったのは時代背景を捉えておかないと作品を十分に楽しめないかもしれないという判断があったのでしょう。

 「墨攻」という言葉を聞いて、まず思ったのは「墨守」の間違いではないかということでした。あとで分かりましたが「墨攻」というのは原作者の造語でした。墨子の思想といえば「兼愛」「非攻」「節用」「尚賢」などが有名ではある。

 「兼愛」とは身分にとらわれない博愛主義であり、孔子が唱えた縦社会を是とする支配者層にとって都合の良い儒家思想とは相容れないものである。

 また「尚賢」つまり身分にこだわらずに人物を登用するという考え方とともにアナーキズムもしくは民主主義の先駆けと言えるほど革命的な思想であった。身分そのものを否定しているので権力者にとっては危険思想以外の何物でもない。

 「節用」とは質素な暮らしを基本として贅沢や名声を望まない考え方である。類稀なる防衛力を持ちながら、あえて権力に擦り寄らない姿勢は儒家と一線を画す。儀式を飾り立て示威行動を是とする儒家との違いは痛快で、まさに水と油である。

 「非攻」とは「不戦」ではなく、侵略はしないが侵略者に対しては徹底抗戦も辞さないという頑強な防衛戦術と最新武装を基礎とする専守防衛思想である。戦わないことと攻めないことは全く意味が違う。

 力無き正義も正義無き力も価値はない。乞われれば劣勢の陣営のために力を貸し、死を賭して戦い抜く。その苛烈な信条と実践を見た人々が彼らを讃えた言葉こそが「墨守」である。それを紀元前の戦国時代の中原で各国に説いて回り、墨守を実践したのが墨子の門人である墨家の人々であった。

 舞台設定は孔子墨子もすでに没し、諸子百家がお互いにしのぎを削っていたのが思想界の現状、そして戦国の七雄と呼ばれた秦・趙・燕・魏・斉・楚・韓が権謀術数の限りを尽くしていたのが軍事及び政治の状況であった。思想も軍事も混沌としていたのがこの物語の頃の中原でした。

 そして墨家墨子の門人)のひとりとして弱小国・梁(架空の国)の窮状をたったひとりで救いに来るのがこの映画の主人公・革離(アンディ・ラウ)である。質素、無欲で行動力と軍事戦術を知り尽くす冷静な墨家を彼は抑制を効かせて演じ切った。

 演技面では人間味溢れる趙の巷淹中将軍を演じた韓国の俳優アン・ソンギ、常にしたたかで複雑な梁王を演じたワン・チーウェン、ウー・チーロンが演じた弓矢隊長、梁王の後継者を演じたチェ・シウォンが印象に残る。

 とりわけ悪役ともいえるワン・チーウェンはある意味、戦国時代の申し子のような現実主義的な人物であり、子供が殺されて悲しみに沈んでも、常に来るべき未来を志向するクールな政治家像を示した。

 ついつい目が行くのはアンディ・ラウであるのは止むを得ないことではあるが、脇役であるワン・チーウェンと彼の側近を演じたウー・マを見逃してしまうのは避けるべきである。ヒロイン役を担ったファン・ビンビンにはおそらく賛否があると思う。疾走する墨家をヒーローとして捉えるのであれば、彼女がこの作品に出てくる必要性はない。

 しかしただ戦争のみを描いても何が残るのであろう。監督が問いたかったのは「非攻」つまり専守防衛の痛快さだけではなく、その陰で死んでゆく多くの人々の姿を見て、観客一人一人がどう思うかということであろう。

 いったんは趙軍を防ぐために集結した梁王と政治家もいざ戦いに勝利すると、自己保身に走り、簡単に大恩を忘れ、讒言に惑い、アンディを追放し、軍功のあった者は全て処刑してしまう。時代に関係なく、どこの社会でもまま行われていることである。

 戦争続きで常に危険と背中合わせに暮らしている農民は戦争さえなくなれば、どこが勝とうが負けようがまったく構わないというのが本音であろう。争いとはすべてこのようなものであり、組織の上層部の人々にとっては勝つか負けるかは存亡に関わる一大事であっても下々の者には関係ないことが多い。上層の人間のエゴや保身のために行われるのが戦争であるという現実は現在とどこが違うのであろうか。

 反戦を唱えるのは勝手だが、実力の伴わないそれは単なる戯言に過ぎない。権力にダメージを与える手段と目的があってこそはじめて認められるのではなかろうか。古代中国の墨家はそれを持っていた。

 ただこれは立場を変えるとテロリスト集団として見なされるのも事実であろう。攻撃的で実践第一、権力者に媚を売らない墨家秦帝国が中国全土を統一したのと時を同じくするように滅亡する。戦乱のない世には不必要な、そして危険だったからであろう。根絶やしになった墨子の思想は以後まったく歴史に登場することはない。

 また法家思想(韓非子)を国是としていた秦帝国は支配するために法治主義を強行し、わずか13年で滅びたが、人治主義が当たり前のあの国において、法による支配というのは空前絶後の帝国だったのではないだろうか。革新的だった法家思想を国是とする秦が滅び、劉邦を中心にした人治主義の漢が天下を再び統一するのも皮肉な話である。

 まあ歴史の話はともかく、この映画のスケールは大きく、ハリウッド映画に引けをとらない。もちろんCGもふんだんに使用されてはいるが、可能なものはセットを組み、野外撮影が行われている。1500人もの人民解放軍兵士をエキストラとして戦闘シーンで使えるのは中国くらいであろう。この迫力は偽物ではなかなか出せない。

 ただ残念な箇所もありました。どことなく映像がぶれる部分があるのです。映画館の映写設備に問題があるのかフィルム本来のものなのかは判然としませんが、日中での合戦シーンを引きの画で捉えたときにその傾向が多かったような気がしました。

 あの城自体はもともと『始皇帝暗殺』で使用するはずだったものが間に合わず放置されていたものを今回使用したものだそうで場所は易県だそうです。易水のほとりにある街です。易水というと始皇帝を暗殺するためにテロリスト荊軻が渡ったあの河です。いやあ中国は広い。

 重量感と真実味は巨大なセットをしっかり組んだからこそ出せる迫力である。使用される武器や鎧のデザインがまた素晴らしく機能的でした。趙軍兵士が梁城を取り囲もうとする時に行進してくる兵士の姿はまるで始皇帝兵馬俑坑から出土した石像が歩いてくるような異様な光景でした。中学生の時に美術館の展覧会に実物を観に行きましたが、迫力がありました。

 あれは一見すると青銅か鉄製に見えますが、実は革製だったそうで動きやすそうでした。石像でしか見たことが無かったので、可動性に富む劇中での鎧を見たときには驚きました。

 音もまた重要な要素のひとつだと思わせる作品でもあります。若い後継者と弓矢部隊長が矢を射る競射シーンがあり、屋根に突き刺さり、そのあとでも振動で矢が震えるという演出には唸らせられました。振動するときの音がきちんと聴こえてくるのも心憎い。

 銅鑼の音も状況により、乾いた音、低く湿ったような音などさまざまな音を聴くことができる。矢もしかりで先発隊を驚かす時に用いる鏑矢の「ひゅるひゅる」という不思議な音も印象的でした。このように音にも細心のこだわりを持っている作品ですから、当然のことながら映像にも気を配っている。大きなスケールを捉えるためにシネスコサイズのカメラを使用しています。

 撮影と音楽は日本人が当たっています。原作も日本人ながら誰一人出演していないのは情けない限りでした。

 ストーリーの中でのスペクタクルな見せ場は二つあり、前半にはTVCMでも出てくる甕城での油を使った火計のシーン、後半には坑道から噴出してきて趙軍を混乱に陥れる水計シーンを用意していました。

 そのほかにも断崖からの飛び込みや熱気球での空襲シーンなどがありました。硫黄を用いたガス攻撃は化学兵器の走りであり、火計はナパーム弾、熱気球は空軍である。戦争は技術力が大いに戦況を左右する要因であることも示す。

 これらのシーンは明らかに講談調というかフィクションと思えるシーンが多い。こういった事実とは違う演出に目くじらを立てる人もいるかとは思いますが、娯楽映画としてはこの演出のほうが観客を楽しませることが出来る。もともと存在しない梁を舞台とするストーリーなので多少の創作はあっても良い。

 

 全体の流れとしてはアンディが風のように現れて趙軍に圧勝する前半の一時間、束の間の平和と旧臣たちの嫉妬により失脚するまでの中盤、そして愛する者を救うために再び立ち上がる後半部分で構成されている。ハリウッドとの明らかな違いは作品中で誰にもハッピーエンドが用意されていないことです。主役であるアンディにも安息は訪れない。

 中盤から後半にかけて出てくる「愛」についてのシークエンスは現在の観客たちの心情に訴えかけるために導入されたものであるのは明らかだ。これが疾走するようなリズム感があった前半のスピードを一気にスローにしてしまう。それをもって不必要だと思う人もいるでしょう。

 しかし武骨な男たちの野望だけを描いたとしてそれで十分であろうか?一個の人間の「迷い」という感情を自問自答する姿を挿入するだけで表現することも出来たであろう。しかし人間臭さを感じさせない主人公に観客が納得するとは思えない。

 そのために当時ではありえないようなメロドラマを挟んだのであろう。それとは引き換えに映画からリズムが消えてしまったのは残念ではあったが、水計を持ってくることで復調を図っている。繰り返しが再びリズムを作り出したのではないだろうか。

 「墨子に暖席なし」の言葉通りに一瞬も留まることなく、素早いリズムでフィルムを走らせ続けていれば、より墨子の本質には近づいた可能性もあるが、観客が付いていけなかったかもしれない。難しいところです。

 皆が犠牲者であり、善悪の基準だけで判断できない戦争の真実の姿が露わになる。束の間に勝利してもそれは永遠の繁栄ではない。ただのスペクタクル映画ではない、そして単なる反戦映画でもない。観客ひとりひとりを考えさせてくれる深みを持っています。「兼愛」とは「非攻」とは正しいのか?

総合評価 81点

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