良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『不良少女モニカ』(1952)ヌーヴェル・ヴァーグに大きな影響を与えた一本のフィルム。

 最後の映画作家であったイングマール・ベルイマン監督の全作品のなかでも、もしかすると『第七の封印』と並んで、最も有名なフィルムのひとつと言っても過言ではないのが『不良少女モニカ』であろう。北欧スウェーデンでの短すぎる一瞬の夏の思い出と厳しい現実に引き戻されていく冬を切り取ったこのフィルムの歴史的な意義とは何であったのであろうか。

 1952年の公開当時、とりわけキリスト教が生活の規律として沁みこんでいた欧米圏を中心に、センセーショナルなストーリー展開とオール・ヌードを含む性描写に深刻なショックを受けた観客も多かったことでしょう。そのインパクトは凄まじく、一般の観客のみならず、フランスの来るべき映画人たちにも大きな影響を与えている。

 しかしながら、過激な作品群に慣れきってしまった2007年現在の観客にとっては、残念ながら、この作品は普通の恋愛映画とあまり大差がなくなってしまった。よって、このフィルムを正当に評価するにはアタマを風俗とかについては当時のしきたりを考えたのちに見ていかねばならない。

 ストーリーとしては今ではありふれたものにしか感じないかもしれません。しかしこのフィルムが与えた衝撃はヌーヴェル・ヴァーグの誕生に大きく寄与しているのは明らかである。映画史上に、大きな波(まさにヌーヴェル・ヴァーグ)を起こしたのはフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』やジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』に代表されるヌーヴェル・ヴァーグの若者たちであるのは事実であろう。

 第二次大戦が終結し、すでに十年弱が過ぎ去り、ネオレアリズモも沈滞していて、映画運動の新たなうねりを期待していた映画界の大海原に、最初の大石を投げたのはイングマール・ベルイマン監督であり、石原裕次郎の主演した『狂った果実』(1956)であった。

 この作品において、挑発的なモニカを演じたハリエット・アンデルセンと彼女に翻弄される若者ハリーを演じたラーシュ・エクボルイの功績は絶大である。しかし彼らの若さ故のエネルギーの暴走とその後に訪れる苦い現実を淡々と、しかも生命力を満ち溢れさせてフィルムに定着させたのは誰あろう、イングマール・ベルイマン監督、その人である。

 主人公モニカの魅力がすべてといっても良いのがこの作品であるのは明らかである。彼女の存在感をフィルムに定着することが出来れば、この作品の成功は決まっていたのかもしれません。ベルイマン監督も女優の魅力を完璧に引き出せたならば、一本の映画が成り立つことを知っていたのでしょう。

 そのためか、彼はこの映画ではあまり構図やカメラの動きで自分の意志を伝えようとはせずに、冷徹な視点で突き放し、傍から見れば同じだが、じつは全く違う若者であるモニカとハリーという対照的な二人を配置することで、彼等の危うい魅力を残らず搾り取り、映画史上に大きな影響を与える作品を成立させました。

 沈滞していた映画界(海?)に最初に石を投げる人としての大きな役割を受け持ったのが彼でした。生前はあまりゴダール監督やトリュフォー監督のように派手に喧伝されなかったのは難解とも評された作風が災いしたからでしょうが、亡くなった今こそ彼の真の功績を語っていかねばなりません。

 現在の目で見る『不良少女モニカ』はたしかに古臭いでしょうが、ベルイマン監督作品の特徴である深遠な部分は所々に顔を出している。後年の作品に見られるような構図にこだわり抜いた撮影についても、この作品のみを見た人からすると、あまり切れ味を感じないかももしれません。しかしながらこのフィルムでの彼は目で理解させる映画作家として、カメラを動かしたい衝動によく耐え切ったと思います。

 その代わり、彼は一瞬の夏という刹那的な季節における暴走と衝動、そしてそれがもたらす苦い現実を来るべき時代の覚醒のために世に送り出しました。もちろん美しいショットも数多く、海や河原、そして港など水絡みの映像には目を洗われることでしょう。

 またおそらく虹と思われる映像には感心しました。モノクロで虹を表現するのはとても難しかったであろうとは思いますが、綺麗な虹を見せてくれました。喰うに困ったモニカが農家に忍び込み、捕まってから逃げてくる途中での河原の草叢は目に焼き付いています。

 前半と後半の回想シーンで出てくるモニカのフル・ヌードは強烈でした。彼ら二人以外は誰もいない静かな夏の海で、言い換えると自分たちだけで成立している世界での出来事を映したこのシーンは見る者に強い印象を残す。

 また後半には重要な二つのクロース・アップがあります。まず最初は、都会に舞い戻ったモニカが観客に向けるクロース・アップでの挑発的な視線であり、これにはショックを受けた者が多かったのではないでしようか。

 個人的にはモニカのクロース・アップよりも、子供を抱えて途方に暮れているハリーがふと眺める鏡に映った消耗しきった自身の姿を力なく見つめるシーンのインパクトの方がより強烈でした。たった一年弱の間に10年分は老け込み、憔悴しきった彼にはモニカが捨てた子供と自分だけが残されている。

 子供と家庭という当時では当たり前であったであろう束縛を嫌った17歳のモニカはフィジカル的には大人だが、精神的には幼稚である。家庭を持ち、責任が芽生えて、現実世界に向き合ったハリー。同じ時間を過ごした二人ではありましたが、人間として成長したのはハリーだけで、モニカは取り残されてしまった。置いてけぼりを食ったモニカは彼女の精神年齢に相応しい暮らしを渇望し、もとの自堕落な世界に戻っていく。

 もしベルイマン監督のカメラが活発に動けば、作品の芸術的な価値は圧倒的に増したことでしよう。しかしそれは動物のような刹那的なモニカたちを美化しかねない危険性がありました。淡々と、そして冷たく突き放したカメラが彼ら二人を凝視したからこそ、 よりフィルターにかけられない若さの原石を描けたのではないだろうか。

総合評価 78点

不良少女モニカ