良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『椿三十郎』(2007)黒澤映画最大のキャラクター、椿三十郎を復活させたのは吉か凶か?

総合評価 74点  観に行ったのは12月6日、木曜日の初回上映時でした。いつもならば平日のこの時間だと僕の町の劇場では、客入りは半分以下が当たり前になっていて、座席指定はあるものの実際は「自由席」というのがいつもの風景なのですが、今日はなにやら違っています。  なんとチケットを買うのに列が出来ていて、30人以上並んでいるではありませんか。もちろん客層は異常に高く、50歳以上ばかりではありましたが、まさかこんなにリメイクに並んでいるとは思わなかったので嬉しい誤算ではありました。  結局300人埋まるシネコン四階のスクリーンには、隣で『続ALWAYS 三丁目の夕日』を同時間に上映しているにもかかわらず、6割以上は埋まっていました。しかも今日の観客は行儀がよく、誰も非劇場型な行動を取りませんでした。みな心から楽しんでいるようで、時折笑いがあちこちから聞こえました。
画像
 では作品の出来はどうだったのか。まず気になったのはストーリーで、もしかすると現代風アレンジが加えられてしまって、全く別物になっているのかが不安でしたが、脚本とストーリー構成は完全にオリジナルを遵守していました。黒澤明菊島隆三小国英雄の3人が膝を突き合わせて作ったものを壊す暴挙を犯さなかったのは賢明でした。
画像
画像
 演出面では、この映画で最大の見せ場となる決闘シーンでの緊張感と血しぶきをどう表現しているかに集中して観ていました。昔のモノクロならともかく、吹き上がる鮮血はカラーではどぎつい印象があるので、血しぶきを音響だけで処理するのは正解だと思いました。
画像
 また椿の鮮烈な白と赤を際立たせるためか、着物その他の色合いというか全体のトーンを暗めに設定していました。三十郎と半兵衛の着物もくすんだ緑と小豆色で分けられています。  ただ最後の斬り合いを二度も見せ、しかも二回目がスローでモノクロというのは無意味です。今のシーンをもう一度!というのは下世話すぎて、せっかくそれまでイメージをキープしていたのが崩れてしまいました。ただこの一点のみで作品を否定するのは間違っています。黒澤への尊敬は十分に感じます。マズいのは腰元のガッツポーズかなあ…。  ただ難点もあります。カットを割りすぎているのです。黒澤映画の手法が確立されて以降は基本的に彼が多用したのはマルチ・カメラ方式による長回しでした。ミザンセヌを見ているとかなり黒澤的な画を採用していたので、カメラ・ワークも遵守するのかと思いきや、カットを割っていくことが多かったのは少々残念でした。  三船敏郎ほどの野獣のような獰猛な動きを織田裕二に期待するのは無理でしたので、このカット割りの選択は妥協の産物だったのでしょう。だがそれだけで価値がなくなるほど薄っぺらい作品ではないのも事実です。  なによりも演技で注目していたのは織田の立ち回りでの素早さはどうか、セリフ回しはどうなのかが中心になっていました。それを解決するために採られたのがテンポ良いカット割りでした。織田裕二自体に問題があるのではなく、三船敏郎が速過ぎるのです。  織田は集中して最良の動きと彼自身の三十郎の演技をしようとしています。リメイク版では殺陣シーンでの息使いの荒々しさが強調されていて、黒澤オリジナルのスーパー・マンとしての椿三十郎ではなく、普通より強靭に鍛えた人間三十郎を主人公に持ってきていました。
画像
 この辺が現代風とも言えます。その他の俳優陣では平田昭彦がしていた伊織役を松山ケンイチが演じています。彼の演技は素直で中庸の侍を上手く演じていました。昔は東宝所属の俳優だけで一本作れましたが、いまではそれも夢のまた夢になっているのは時代の流れなのでしょう。  一方もう一人の主役、室戸半兵衛を演じた豊川悦二には複雑な思いがあります。前半の台詞回しがどことなく上滑りしているように思えるのです。まさか仲代達矢への遠慮からではないのでしょうが、どこか不自然でした。  それも時間を経るにつれ、そういう上滑りはなくなり、最後にはしっかりと室戸半兵衛になっていました。彼には期待が強すぎたためについついそういう感覚で見てしまったのかもしれません。実績のある人だからこそ、要求も高くなってしまいます。人選は間違ってはいません。  他に作品のリズムを換える重要な息抜きとなる中村玉緒鈴木杏のノンビリ親子コンビ(オリジナルでは入江たか子と団令子)とその夫の藤田まこと、そして押入れ侍を演じた佐々木蔵之助(オリジナルは小林桂樹)、グラビア・アイドル森下千里すほうれいこのセクシー腰元チームが印象に残ってます。  ではなぜ最初に持ってきたのが『椿三十郎』だったのでしょう。そもそも『椿三十郎』と『用心棒』のユーモアの違いはブラック・ユーモアのどぎつさにあります。製作権を獲得した角川春樹がリメイクの最初の作品として、このカラッとした笑いが取れる『椿三十郎』を持ってきたのは正解だったのかどうかは定かではありませんが、お正月映画に持ってくるには『用心棒』は凄惨すぎるので、この判断を支持します。  音響では最大と最小のバランスを考え、クライマックスでの無音決闘シーンに向けて、音作りをしている。2パターンあるテレビ・スポットでの心臓バクバクを聞いたときには幻滅しましたが、本編ではオリジナルと同じサイレントでの音作りをしていました。  音楽的には佐藤勝の快活な曲調はそこにはなく、新たなモチーフがつけられています。平成版のみしか知らなければ、特に問題はないでしょう。佐藤勝のモチーフを知る者からすると、寂しい限りですが、いつまでも半世紀前の映画にただノスタルジーを持ち続けるのも無意味なことなので、新たな試みを受け入れるべきなのでしょう。  むしろ森田芳光監督や大島ミチル(音楽)による新たな解釈を黒澤ファンも喜ぶべきなのかも知れません。他人の意見を全否定しがちな孤高のファンが多い黒澤映画ではありますが、自分も含めて、全ての黒澤映画ファンはこの椿を否定してはならないのです。
画像
 演劇を例に取ると一番分かりやすいと思うのですが、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』が最初に上演されたのは日本でいうと戦国時代に当たります。その後も時代を超えて、何度も上演されていますが、俳優も演出家も当然ながら違います。  『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』もしかりです。それでも需要があるからこそ、何度もリバイバルされるわけです。演出家のアイデアの良し悪しによって、舞台の出来もかわりますが、それをも楽しむ余裕を持っているのが演劇ファンなのではないでしょうか。  黒澤明監督も『蜘蛛巣城』は『マクベス』、『悪い奴ほどよく眠る』は『ハムレット』、『乱』は『リア王』からインスパイアされて、それを翻案してシェイクスピアという最高の脚本家の作品をベースに用いて、傑作映画を何本もモノにしています。
画像
 一方、コアな映画ファンは基本的にリメイクを嫌います。思い入れが強ければ強いほど、全否定します。演劇では許されるライブの失敗は上演を重ねる毎に修正出来るが、フィルムに焼き付けられる映画では失敗は許されない。  失敗作品が何十年もの間、世界のどこかに保存されていて、成功した監督の失敗作品、売れる前のスターが出演していたクズ映画ほどカルト映画として持て囃されたりするのが現状です。そのため製作者、監督、俳優は冒険よりも安定を選ぶので、どの作品を観ても公式化されたストーリーと映像を観ることになります。それは安心感を与えるので、そのやり方を変えるのは容易ではない。  いろいろと言いたい事があるのは分かります。しかし、せっかくの黒澤映画の復興チャンスをマニアが邪魔してはならない。新作に不満でも、いつものように喚いてはならない。新しいファン層を増やせる良いチャンスなのです。心して語らなければならないのが、今回の『椿三十郎』のリメイクなのではないでしょうか。  上手く作っています。ラストの決闘シーンを除いて…。