良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969)今後も放送不能作品でしょう。カルトファンは必見!

 しかし、なんともまあ…。おどろおどろしいタイトルを付けたものです。その名もずばり『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』とは。漢字ばっかりです。作品タイトルのインパクトだけで、気の弱い人は遠慮してしまうかもしれません。「江戸川乱歩」「恐怖」「奇形」と三つの単語を並べるだけでも「なんだか怖そうな映画なんだろうなあ…。」と認識できます。  悪の権化のような呼ばれ方をしているカルト映画『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(タイトル長い~!)が今後、ゴールデン・タイムはもちろん、地上波深夜枠及びCSチャンネルを含めて放映されることはまずないでしょう。そもそも腰砕けのマスコミに、これを流す勇気とその後に確実に局に降りかかる暴風雨のような抗議電話を受けるリスクを負う気迫もないでしょう。
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 そもそも現在の放送コードでは、このままオリジナルの状態で放映するのはまず不可能でしょう。しかしそれは台詞(当然のように「基地外」「片WA」「狂ってる!」「裏日本」を連呼します!)や映像表現だけが原因なのではない。  劇中で父親役を務める土方巽暗黒舞踏団が舞い狂う邪悪な躍動やフィルムの根底に流れている陰惨な嗜好と悪意に満ちたカメラが写し撮った人間の奥底にある暗い情念そのものなのではないだろうか。  実際、劇中画面に登場する奇形人間たちのデザインは醜悪であるか、もしくは「コント」並みで鼻白むものが多い。映画のポスターにも使われた有名な由美るり子と近藤正臣シャム双生児のツー・ショット?のインパクトがあまりにも強すぎるので、全編にこのような醜悪なデザインで埋め尽くされていると勘違いされる方もいるでしょう。
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 観てもらえれば分かるのですが、この映画はギミックだけというか、見た目だけの映画ではないのです。ストーリーもプログラム・ピクチャーにありがちな適当なものではありませんし、江戸川乱歩ファンが観ても、がっかりするという内容ではないのではないでしょうか。個人的には何冊か読んだだけなので軽々には語れませんが、彼の作品のテイストは十分に残っていると思います。  タイトルどおり様々な江戸川乱歩作品から良い所取りをした作りになっていて、個人的には楽しめました。乱歩作品から引用されているのは『パノラマ島奇談』『孤島の鬼』『人間椅子』『屋根裏の散歩者』などのようです。詳しい方ならば、さらに多くの作品からの引用を指摘できるのでしょうが、さほど乱歩翁の熱烈ファンではない僕にはそこまでの指摘はできませんのでご了承願います。
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 しかしデザインや引用がどうであれ、そこで語られる内容や映像はおぞましく、放映するにはかなり問題があると言わざるを得ない。形として現れているもののみを観れば、映像としてのチャチさに呆れるかもしれません。  が、土方が国王となって、所有する島に奇形人間の王国を作り、女たちを浚ってきては己たちの虐げられてきた欲望を満たしていくという犯罪者的内容自体を問題視すべきなのかもしれません。数的に少ない奇形人間でも徒党を組めば、離れ小島のような隔離された世界では健常者を奴隷として君臨することも可能です。  多数派を占めた方が優位に事を進められるという構図は『ナイト・オブ・ザ・リヴィング・デッド』などのゾンビ映画を見れば明らかです。多数派になってしまえば、不気味な奴らでも優位なのです。「あなたはどっちにつく?」というメッセージが込められたカルト映画と似たメッセージもあるのかもしれません。
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 しかしもちろん問題点も多々ありますし、こういった表現すべてを肯定する気もまったくありません。身体障害者を化け物視する姿勢があからさまで、いかに製作された時代が昭和40年代だったとしても、当時から物議を醸したのではないだろうか。隠せば差別がなくなるとは思いませんが、ここまで化け物視するのはさすがに拙いのではないだろうか。  半獣半人、せむし男、シャム双生児など奇形人間達のおぞましい王国の描写はたしかに見ていて気持ちよいものではありません。しかしこの作品で不気味なのはむしろ姿形は健常でも、精神が歪んだ人々にある。  小池朝雄演じる執事の異常さ、奇形ではあるものの経済的には人々を支配する土方巽、そして、この作品で描かれる女たちはほとんどすべて欲望のままに動き、性的に屈折しているのである。
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 オープニングの精神病院に収監されているセクシーな女患者たちはすべて性的に欲求不満な女奴隷のように描かれ、色情地獄にでも堕ちたようなありさまである。身体そのものは健常であるはずの彼女達が全員狂っている状況はかなり痛烈な皮肉である。作品には退廃的な雰囲気が流れてくるが、このような雰囲気は新しいものではない。  1920年代後半の世界恐慌によって、希望を失った人々の心情を反映するようにエロ・グロ・ナンセンスがキーワードのデカダンスが流行した頃の大正後期をわざわざ作品の舞台にしたのは偶然ではないだろう。1960年代の日本の映画に、石井監督がこのような雰囲気が漂っていた時代を選択したのはベトナム戦争やヒッピー・ムーヴメントによる虚無感と一致する部分を読み取ったのかもしれません。
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 映画は時代を映す鏡でもあるので、「雰囲気」は確実にフィルムに焼き付けられています。プログラム・ピクチャーであったからこそ、自由な雰囲気がより前面に出てきたのでしょう。デカダンスの三つのキーワードは作品中のあちこちに顔を出しています。それが乱歩ワールドと絡みあうことにより、さらになんともいえない熟れ切った果実のような腐臭とも芳香ともいえる味わいを与えている。  作品に戻ると、最大のアイコンである土方巽は手に水掻きがあるという奇形で描かれているが、大金持ちで頭脳も切れるので、『フリークス(怪物團)』で描かれるような、いわゆるステレオタイプで描かれる不遇のどん底にある他の奇形人間とは一線を画している。
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 とりわけ大柄な身体を最大に活かした、土方巽が決行する断崖での舞踏は劇映画に慣れた目で見ても、とても新鮮であり、映像で感情や人となりを表現できる映画の利点をフルに活用した素晴らしいシーンであった。  吹き替えや特撮なしで、実際にあのような断崖で踊り狂うのは大変危険ではありますが、それでも敢えて本人がやりきったのは彼が製作者たちがこの作品に賭ける熱意に応えてのものだったのであろう。
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 彼が務めた父親役の思想と台詞は異常としか言いようがない。しかしそれ以上に、現実に舞踏家である土方の舞踏がなんとも異様で、作品中で異彩を放っている。彼の目の凄みは凡庸な俳優に出せるレベルではない。  とてつもない迫力と印象を与える一世一代の怪演でした。彼の主宰する舞踏集団である暗黒舞踏団のアングラの情念と呪いに満ちたような舞踏も凄みが効いていて、忘れがたい動きと演技でした。  ではこのような問題作品をモノにしたのは誰であったのだろうか。それは石井輝男、その人でした。『網走番外地』や『直撃!地獄拳』などカルト的な作品が数多い職人で、この作品は彼が東映に売り込んだ企画だったそうです。
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 荒唐無稽であり、社運を賭けてまで支援するような作品にはなりようもなかったために孤立無援となり、予算もあまり取れなかったようですが、かえってそれが好都合に働き、誰に遠慮することもなく、製作者たちが好き勝手に自由な雰囲気の中で、プログラム映画を撮ったという印象が強い。  しかも筋書きはしっかりしていて、タイトルとは裏腹に謎解きの要素が詰まっているし、主人公がばれないように旧家に侵入していき、主人に成りすますハラハラ感もあり、ギミックだけに頼らない劇映画になっている。だからこそ名画座などでも『獣人雪男』などとともに引っ張りだこの人気を誇っているのでしょう。
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 演技で光ったのはなんといっても前述したように土方巽に尽きる。しかし映画はひとりで出来るものではない。脇に人材を得て、はじめて上手くフィルムは回りだす。主役には吉田輝雄一人二役(源三郎と人見)、由美るり子も一人二役(秀子と初枝)、大木実も下男と明智小五郎一人二役(?) を演じるなど、そこまで俳優がいなかったのか、と言わんばかりの一人二役満載の状態でした。  その他、葵三津子(おかあさん!)、小畑通子(妻役)、妾役の賀川雪絵、変態の執事役の小池朝雄シャム双生児の片割れに特殊メイクを施された(なんで二枚目で売り出していた彼をわざわざ醜い特殊メイクをしたのだろう?)近藤正臣、コントをやる由利徹大泉滉と上田吉二郎などが脇を固めています。女優陣はほとんどが濡れ場が用意されていて、そのために成人指定を受けてしまったようです。  そして肝心のストーリーですが、これに関してはもともとの原作が江戸川乱歩なので、いかに最低な演出をしても太い背骨は通っているので、最低にはなりようがない。あちらこちらから良い所取りをしているので、綻びはあちこちにありますが、力技ですべてをねじ伏せているので、細かいことは気にしないで、乱歩ワールドと石井輝男ワールドと土方巽ワールドの融合を愉しみましょう。
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 綺麗な色のガラス細工を沢山集めてから、全部を空に投げて粉々にした後に、それを集めてモザイク的な作品を作り上げたような不思議な魅力があるのも事実なのです。乱歩的なサスペンスの要素、近親相姦の要素、ソドムとゴモラの悪夢のような狂宴が危なげなバランスの元に揺れている感じでした。  観るに耐えないのは妻に裏切られた土方が彼女とその愛人を洞窟に閉じ込め、愛人が死んで腐っても、けっして彼女を許さず、「子供に会いたければ、お前の愛人の腐肉を喰らっている蟹を食って生きろ!」というシーンがあり、さすがにここは悪夢のようでした。   結局のところ、土方が悪魔の王国を作ったモチベーションが実は不貞の妻への狂おしいほどの愛情の裏返しだったのが分かる頃からこの映画は単なるエログロ映画から愛の映画へと変わっていく。彼が示す愛情はとても不器用なものでありましたが、最後に妻との和解に応じます。妻との愛情をほんの一瞬だけ取り戻した途端に息絶える土方。そして映画はラストへと向かっていく。
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 唐突に出てくる大木実の演じる明智小五郎には賛否があるのでしょうが、これは江戸川乱歩作品なので、『水戸黄門』の印籠や『太陽にほえろ!』のラストで必ず出てくる石原裕次郎のようなものなので、ゴチャゴチャ言わずに愉しみましょう。  さていよいよなのですが、この映画のストーリーを語るにはラストを語らねばならないし、ここを語らなければ、この映画を語ったことにはならない。あの言語だけでは表現しづらいラスト・シーンについては観た人によって、完全に賛否が分かれるでしょうが、あの強引な力技としか言えない表現の連続へのリアクションと落とし所としてはあれで良かったのでしょう。  あのラストを体験した観客は強い衝撃を受けて沈黙するか、もしくはあまりにも奇妙奇天烈なシュールさに爆笑するしかないのではないでしょうか。ぼくは「なんじゃこりゃ~!?」と椅子からずり落ちそうになりました。  後年『模倣犯』で、あのラスト・シーンを森田監督は確信犯的に模倣していましたが、誰もその点については指摘していないようです。僕自身もこの『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』を見たのは今回が初めてだったので、「あっ!これが元ネタだったのかなあ!?」と今更ながら気付きました。
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 表現としての「良い悪い」や「好き嫌い」は別にして、間違いなくこれも映画でなければ出来ない表現なのです。一度見たら、生涯忘れられない映像です。「おかあさ~ん!」の絶叫が耳に残っています。近親相姦をきっかけに自殺を選ぶ吉田と由美。その方法は「人間花火」という思いもよらない方法でしたが、乱歩作品には他にも人間花火のラストはあったと記憶しております。  吐き気を催す映像や目を背けたくなる映像が連続する奇怪なフィルムでしたが、虐げられてきた土方らが求めているのは栄光の日と深い愛情でした。この映画で描かれる奇形人間たちと健常者のどちらが奇妙で異常なのかははっきりしません。
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 奇形人間の王国では健常者は奴隷となり、特に若い女たちは欲望のはけ口としてしか存在を許されない。身体障害者を化け物扱いしているという差別助長表現と台詞が表立った封印理由でしょうが、それ以上に現在のコードではセクハラ的な要素で、封印されたのではないかとみる方が適当なのではないだろうか。ただ表現は過激でしたが、根底に流れているのは孤独感と愛情と存在を受け入れて欲しいという人間としての基本的な願いでした。  カルト映画ファンを自認する人ならば、必ず観るべき一本ではないでしょうか。数年前にアメリカ版リージョン・フリーDVDが出ていますので、アマゾンかヤフオクで探して見て下さい。そんなに高価ではありませんので、裏フリマで取引されていたビデオからの劣悪なコピーを購入するよりはましです。 総合評価 78点