良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ミステリアス・ピカソ』(1956)芸術家のタッチを堪能できる実験作品。素晴らしい!

 今回採り上げた『ミステリアス・ピカソ』は単なる芸術家の絵画制作過程を追ったドキュメンタリーではない。何しろスタッフが群を抜いている。監督としてこの作品を仕切ったのは『情婦マノン』『恐怖の報酬』などの秀作を持つアンリ=ジョルジュ・クルーゾーなのである。  気難しい、厄介な芸術家と渡り合うには無名の監督では務まらない。名声と迫力に気後れしてしまい、芸術家のペースに引きずられてしまう危険性があるからである。その点において、かの芸術家と親交の深かったクルーゾー監督という人選は最適だったと言える。

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 撮影に当たったスタッフの名前もまた芸術ファンを唸らせる。かの印象派の巨匠、オーギュスト・ルノワールの孫に当たるクロード・ルノワールがこのフィルムの撮影担当なのである。ということは『大いなる幻影』『どん底』『ゲームの規則』などで有名な映画監督ジャン・ルノワールとも血縁ということになります。  さらに音楽を担当したのは、ジャン・コクトーの『オルフェ』やワイラー監督の『ローマの休日』など名作を幾つも手掛けたジョルジュ・オーリックでした。彼がつけた音楽はとても印象深く、ピカソの絵画を引き立てるだけでなく、絵画を挑発するような音楽を敢えて絵画にぶつけることによって、お互いに共振して、映像作品としてのクオリティはより高く押し上げられている。

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 そして、なんといっても、上記の一流スタッフである彼らが今回のドキュメンタリー映画で扱った対象が誰あろう、パブロ・ピカソだったのです。生前から既に高名で、大成功していた稀有な大芸術家の才能の片鱗をフィルムに納めたということ自体がとても貴重な記録なのです。  撮る人も、撮られる人も、制作する人もすべてが当時の超一流という考えられるだけの豪華な布陣が布かれたのが、この作品『ミステリアス・ピカソ』でした。つぎに述べますが、現在ではこの一本のドキュメンタリー・フィルムにしか、ここで描かれた作品群が残っていないという点でも、さらに付加価値があるのです。  この作品の凄みは実体のない光の幻想である映画でありながら、フランス政府によって、国宝に認定されていることです。なぜ認定されているかの理由はこの作品の中でピカソが描いた約二十点に及ぶ絵画の全てが作品の完成後に破棄されてしまったからです。  つまり1956年に、彼がこの作品のために描いた約20点の絵画を現在の我々が鑑賞するには、この映画を観るしか手段がないのです。この映画を観たピカソ絵画のファンは観ていない人に対して圧倒的な優位を持つ。なぜなら、作品を観たという以上に、巨匠のタッチを現実に見ることになるからです。

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 では肝心のアートの本質である絵画自体のレベルはどうだったのであろうか。ここで描かれている絵画はユーモラスでエロチックなものが多く、ピカソの遊び心に満ちたデッサンや完成品の数々を大いに楽しめるようになっています。彼が一枚の絵を仕上げるまでの試行錯誤を見ているだけでも十分に興味深い。  何も描かれていない、真白いキャンバスから徐々に明らかになってくる巨匠が持っているイメージの塊にはいまでもそれを見る者を圧倒する力がある。一つの線が浮かび上がり、二つ目の線が加えられ、図形や流線が織物を作るように組み合わされて行き、次第に輪郭が整い、一枚の命を持つ芸術作品に高められていく。言葉では旨く伝わりにくいのでしょうが、観ないと理解できない凄みと感動が確かに存在します。  もしパブロ・ピカソに、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーという信頼できる友人がいなければ、成り立たなかったであろう作品だったのです。友人だからこそ言えるであろう会話を映画を観た人は聞くことになります。フィルムが足りないことを告げ、ピカソに「5分以内で絵を描けるか?」といい、それに対しピカソも「わかった!やってみよう!」と言い返す。普通の監督ならば、ビビるでしょうが、クルーゾーは気安くピカソに声を掛ける。  また上記の写真は20分くらい経ったシーンでの会話なのですが、このときに撮影風景が映し出されます。最初ジーッと画面を見続けていたのですが、なにかどうもしっくりこない部分がありました。それは「タッチ」でした。どういうことかというと、白いキャンバスに浮かび上がってくる絵画の筆圧というか、力の入れ所がどうも不自然だったのです。

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 右利きならば、本来は力が抜けるであろう筆の方向に行ったときにむしろ力強さを感じたのです。「おかしいなあ。」と思いつつ観ていたのですが、このシーンを見たときに疑問が氷解しました。この作品で描かれる絵画はすべて「透かし撮り」という特殊な手法で画かれていたのです。これは特殊なインクと紙を使用して、表と裏の両方から何を描いているのかが判る仕組みになっているのです。  つまり一枚のキャンバスを挟み、片側(表側)からピカソが絵を描き、もう片側(裏側)ではルノワールがそのすべてを撮影しているという構図です。このからくりが解けてからは作品に没頭できました。キャンバスという「壁一枚」を隔てて、ふたり(三人か?)の芸術家、ピカソとクルーゾーが相対していたのだ。このアイデアに驚きました。  彼が描くモチーフに多用される「闘牛」にはスパニッシュであるピカソの民族としてのアイデンティティをヒシヒシと感じることでしょう。自分が拠って立つべきものを無意識の内に意識しているように、度々この闘牛のイメージが顔を出してきます。

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 また「裸婦」のイメージも頻繁に出てくる。裸婦像を描くのは芸術活動の基本であるので当然といえば当然ですが、艶福家としても有名だった彼らしいイメージの選択だったのでしょう。その他「にわとり」や「海水浴」のイメージなども登場し、見るものを楽しませてくれる。なかでも「花」が「金魚」になり、「金魚」が「にわとり」となり、「にわとり」が「悪魔」のイメージとして完成する一枚の作品は表現として非常に面白く、完成品だけを観ている人には絶対に想像できないイメージの変遷である。  「海水浴」のイメージも多くの試行錯誤を繰り返しながら形作られていくのですが、普通のデッサンのようだったものがまずは普通の絵画となりかけ、纏まっていったところで、キュービズム的な閃きがあったのか、原型を留めないものになり始め、いかにもピカソ的な作品になり始めるが、そのイメージはピカソが気に入るものにはなり得ずに消されてしまい、新たな作品として息吹きを与えられる過程はゾクゾクします。  通常、多くの絵画愛好者は展覧会などで、絵画や彫刻など出来上がっている、すでに形になったものでしか芸術家の人となりや才能を判断するしかなかったのが、何もない状態から紆余曲折と試行錯誤を経て、完成するまでをフィルムに焼き付けているため、見る者はよりピカソの息使いや作品に向かう姿勢と意志に触れることになるのだ。

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 なんと貴重な体験であろう。描かれる作品もまた素晴らしく、派手さはないが質の高いアイデアに満ちたものである。通常絵画はキャンバスに描かれるものであるが、ここではフィルムに描かれるのだ。フォーマットとしてのフィルムの可能性を示した功績は計り知れないのではなかろうか。  目で愉しみ、耳で愉しみ、心で愉しむ。大人のエンターテインメントとはこういう種類の作品体験にあるのではないでしょうか。とても頭も心も目も刺激を受ける素晴らしい80分でした。芸術ファンだけでなく、映画がアートであることを理解するには最適の一本です。  ありのままのパブロ・ピカソのタッチを見せることが演出であり、演技であり、脚本である。余計なことをしないクルーゾー監督の試みは見事に成功している。

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総合評価 85点 ミステリアス・ピカソ ~天才の秘密

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