良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『意志の勝利』(1935)世界2大プロパガンダ映画のひとつ。レ二のセンスの良さがキャリアの仇に…。

 ナチ・イーグルの威圧的な映像が前世紀に製作された二大プロパガンダ(もう一方は『戦艦ポチョムキン』)の幕開けを告げる。第一次世界大戦の勃発と敗戦という結果がもたらした悲劇的な、そして惨めな戦後ドイツ国内の様子と苦悩を述べた後、カメラは雲の上を闊歩するような軍用機中に移動する。
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 当然その機中にはナチス・ドイツ党首にして、総統であるアドルフ・ヒトラーが搭乗しているのは明らかである。もっとも演出上のことなので、実際に搭乗していたかは不明です。機内から映し出す機外の映像は神の視点であり、まるでヒトラーが全知全能の大天使の如く、もしくは空から駆けつけるワルキューレの騎行のように、打ちひしがれたドイツ国民に栄光をもたらすために、光臨してくるかのような錯覚を与える。
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 こうした神の視点からの映像後、ヒトラーはある特別な場所に舞い降りる。そこは彼にとっては栄光の地であったが、生き長らえた残党たちにとっては裁きの街となった。その町とはニュルンベルグである。  この映画を彩る音楽の多くは『ニーベルングの指輪』と呼ばれる4つのオペラ(『ラインの黄金』『ジークフリード』『ワルキューレ』『神々の黄昏』)で有名なリヒャルト・ワーグナーの手によるものを『ニュルンベルグ行進曲』として、無様にアレンジを施して使用している。
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 これらワーグナーの4つの代表作のなかではなんといっても『ワルキューレ』の迫力が随一であろう。ステレオの大音響で聴くのにもっとも適した、そしてもっとも効果を発揮するクラシック音楽である。危険な香りを発散する、その勇猛さ、威圧感は尋常ではない。  自分も昔はフル・ヴァージョンCDを所有しておりましたが、圧倒されました。フルトヴェングラーもたしか指揮をしたことがあり、これの第三幕のダイジェストのLPを聴いた覚えもあります。音は悪かったのですが、威厳に満ちた良い演奏であったと記憶しております。とりわけ、もっとも有名な『ワルキューレの騎行』はさまざまな映画にも使用され、有名どころではフランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』やフェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』でもかかっていました。
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 個人的には「指輪」の4作品よりも、ワーグナーの生前および、死後の著作権が切れるまでの30年間、バイロイト歌劇場のみで上映されていた舞台神聖祝祭劇『パルジファル』の陶酔感というか、スケールの大きさがもっとも素晴らしいのではないかと思っています。  なぜ音楽から始めたかと言いますと、わが国はともかく、ヒトラーに利用されたこともあり、イスラエルなどではなかなかワーグナーを上映できなかったのです。たしかに彼の音楽にはドラマチックな勇壮さ、もしくは感性を刺激してくる危険な香りがあります。どこか血生臭い、昇華されきっていない生理的な臭いが存在するような気がします。
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 そこをナチスに利用されてしまったのでしょうか。フルトヴェングラーにしろ、「黒い森の哲学者」ハイデッガーにしろ、リーフェンシュタールにしろ、ナチスが利用した芸術家たちや哲人たちの戦後にはナチスの亡霊ともいえるような傷がそれぞれの活動に暗い影を落としてしまっている。もちろん全体主義に組したと言われても仕方がないので自業自得とも取れます。
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 ハイデッガーは自分の師匠であるフッサールユダヤ人であるために冷遇されていても、あまり助けに入った形跡もありませんし、彼の規定する人間(現存在)とは先駆的了解、つまり自分の欲得ではなく、人生の目的を知るためならば、贅沢も楽しいこともせず、すすんで身を投げる、というのであったように記憶しております。個の欲よりも、重苦しい人生を考え続けるのが第一というのはナチにとっては都合が良いのです。
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 政治と芸術が融合、もしくは利用されたときには政治がその後も引き続き繁栄して行ったならば、芸術もそのまま庇護を受けるのであろうが、政治が滅んだときには芸術もまた責任を取らされてしまう。やむを得ないといえば、それまでなのですが、割り切れない思いもあります。
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 ヒトラーの優れている点は優秀な芸術家や哲人を自分の都合の良いように利用する点にあります。自らも芸術家を目指し、ウィーンに上り、結果として挫折した芸術家志望のカルト政治家にとっては、彼ら天才の才能は眩すぎたことでしょう。自分では創れなかった美しいものを創りだす彼らの才能をヒトラーは最大限に利用しました。
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 かつての貧しい売れない画家であった彼には誰も目を向けなかったであろうが、今は違う。ナチス党党首であり、一国の最高指導者という権力の座を手にしたヒトラーはとうとうこのニュルンベルグに成功者として入って来られたのです。彼にとってはパリ入城よりも、ローマでのムッソリーニとの会見よりも、このときのナチス党大会の方が嬉しかったのではないでしょうか。
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 彼は意気揚々と入場してくる。ゲッペルスヒムラーゲーリング、ヘス、ストライヒャーなどナチス党の重鎮や諂い者たちを伴い、10万人以上の群衆に迎えられるヒトラーの様子は成功者のイメージを発散する。
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 しかしながら、「長いナイフの夜」と呼ばれる、古くからの同志でもあったエルンスト・レーム突撃隊(SA)隊長をはじめとするSA粛清を行ったのはこの映画が撮られる1934年9月5日の三ヶ月前のことであった。三島由紀夫の戯曲『わが友ヒットラー』ではレームの心情などがよく表現されていると思われますので、その後の三島自身の運命も含め、興味のある方は読んでみてください。
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 まずはミュンヘン一揆失敗の後の獄中で書いた(実際にはルドルフ・ヘスが口述筆記したという)と言われている『わが闘争』で反ユダヤ思想を訴えたヒトラーでしたが、彼の残虐性の発露の第一歩目は身内に対して発揮されることとなったのは皮肉でした。学生時代に『わが闘争』と『資本論』を読もうとしましたが、どちらも途中で挫折しました。とりわけ『わが闘争』はくどく、難解でしたが、ときおりハッと我に返る瞬間もありました。  変人が妄想にあふれた自身の哲学を実践できる立場に就いた場合に起こる最大限度の悲劇を体験したドイツ人及びユダヤの人々の苦悩と地獄の苦しみは体験した者しか理解できないでしょう。臭いものには蓋をしておけという発想が60年以上続いているわが国の政治家とは違い、苦しみながらも事実と向き合っているドイツの方が成長しているのではないでしょうか。当方の情報操作と中国の情報操作も似たり寄ったりですが、自由に閲覧できるわが国の方がだいぶんとましなのかもしれません。  昔と違い、インターネットが家庭レベルにまで浸透している今では情報操作もしにくいが、ガセ情報が事実として一人歩きする場合もあるので、あらたなアジテーションの道具として使用できなくする必要性もあるでしょうし、都合の悪いことは閲覧させないという姿勢も同じように非難されるべきでしょう。
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 身内にさえ、あれほどの残虐行為が行える彼にとってはユダヤ人排他思想を実行に移す可能性があることを世間に示す第一段階だったのではないでしょうか。この時点で彼を利用するのではなく、排除していれば、ドイツの運命も変わっていた可能性もあったのではないでしょうか。抹殺できていれば、彼のその後のユダヤ人への異常な憎悪を背景に行われた「水晶の夜」もなかったかもしれません。  前置きはここまでにして、映画に戻ります。ゲッペルス、ヘスなどの取り巻き連中を引き連れ、彼は悠々と勝者として、そして救世主としてパレードしてくる。興味深いのはカメラがヒトラーの背後からの視点やヒトラーの視点を強調してくることであろうか。
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 何台ものカメラが最善の、つまりヒトラーおよびナチスの宣伝のために都合の良いカットを積み重ねていくための用意が万全に尽くされている。そのため美しく、かつ機能的なカットが次から次に出てくる。ロシアのエイゼンシュテインとは違った感じのモンタージュであり、感情の昂ぶりと特権階級や旧体制への怒りを狙った『戦艦ポチョムキン』とは違い、機能性とロマンで、ドイツ民族とナチスを美化した危険な映像であると感じました。  リーフェンシュタールの美のセンスがナチスに極限まで利用されたとも取れるが、レ二自身も加担していると取られても言い訳はできない。なぜならこれを撮ったのは他でもない彼女なのですから。
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 ヒトラーナチスを美化し、神聖化していくこの映画は当然のことながら、今でもドイツでは放送禁止となっています。それはつまり、それほど上手く出来ているプロパガンダであるという裏返しであり、証明でもあります。そしてドイツがまだヒトラーの亡霊に怯えているということかもしれません。
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 またこの作品は日本語版も製造販売されてはいません。同じくレ二が監督したベルリン・オリンピックを記録した『民族の祭典』『美の祭典』は販売されていますが、これはまだなのです。Amazonでは『意志の勝利』を検索すると、英語版が出てきます。今回見たのは英語版です。字幕を頼りに見ていきました。  熱狂で迎えるニュルンベルグ市民たちには当時ヒトラーは救世主に見えたことでしょう。あとになって、彼らを批判するのは容易いが、悲惨な戦後を経験し、未だにそれを引きずっていた国民には負のエネルギーと鬱憤を発散する土壌はすでに出来ていたのでしょう。
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 松明が灯される夜の党大会。もっとも有名なプロパガンダ映像かもしれません。人文字によるカギ十字の行進映像や「ハイル!ヒトラー!」の叫び声はドイツ国民にはいまでも悪夢でしょう。全員でヒトラーの言葉を朗読し、全員で歌い、全員一致の一糸乱れぬ行進と太鼓のリズム。まさに全体で一つという印象を強く植え付けている。  紅蓮の炎のなかをシルエットに映し出され、異様なムードの高まりを見せる夜の党大会。興奮しきっている群集の息吹が聞こえてくるかのようです。「夜」の効果、「炎」の効果を熟知した悪魔の演出に驚かされる。さらにそれらを倍加させる群集という圧倒的なエネルギー。万人単位の狂気の発露は恐怖である。まるで全員が集団催眠に掛けられてしまったかのようだ。
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 ヘスやゲッペルス、そしてヒムラーがたびたびヒトラーとともにカメラのツーショットやスリーショットで抜かれているが、これはヒトラーの取り巻きの力関係の優位がもはや粛清されたレームを代表するSAや武闘派のゲーリングではなく、官僚的である彼らに移行しているのを示す証拠でもあろう。粘着質で残忍な彼らが権力に近づいていく瞬間を捉えた映像でもある。
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 このようにさまざまな意味で、ある政党のプロパガンダであるという枠では収まりきれないスケールの大きさと映像美、そしてナチスの歴史が確かにそこには存在している。なんとも不気味な作品なのです。悪の魅力に引きずり込まれていくのを感じます。  すべてのドイツ国民を鼓舞するように、ワーグナーを編集した無粋なニュルンベルグ行進曲は彼らを讃えて、ドレスデンやライン地方など国中から集まってきた若い力の勃興を国民に誇示する。彼らの顔は活気に満ちている。約10年後には彼らの顔は再び苦悶の表情になることを彼らはまだ知らない。ドイツだけが二度の大戦を二度ともに敗戦で迎えた。  先ほども述べましたが、この映画は基本的にドキュメンタリータッチでありながら、視点はヒトラーのそれであることが多い。まるで彼が国民全体を見ているのだ、とでも言いたげな感じにも映る。  「ひとつの民族、一人の総統、ひとつの国、ひとつのドイツ」
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 そしてとうとう始まる大演説大会。ヒンデンブルグへの弔辞を読み上げるヘスの演説を皮切りに、ストライヒャー、フォルツ、ディートリッヒ、ゲーリングゲッペルスらがローリング・ストーンズの野外コンサートの前座のように次々に演説を始めていく。ダイジェストで語られる内容は画一的で、ヘスとゲッペルス以外の演説はあまり切れを感じない。余談ですが、ヒムラーの肉声というのを聴いたことがありません。演説するところも見たことはありませんが、下手だったのでしょうか。あれだけいつもヒトラーに寄り添うようにしていた彼の肉声がないというのは不思議な気もします。  ヘスは「あなたが行動すると、国民も行動する」「あなたが判断するとき、国民は従う」と述べ、そして最後は「ジーク!ハイル!」で締めくくる。  さあ、真打ちの出番だよ!とばかりに登場するヒトラー
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 ヒトラー映像でよく見られるように、彼はいきなり捲くし立てて話すわけではない。ゆっくりと、必要以上にゆっくりともったいぶって、登場してくるのだ。しかも最初はしゃべらない。場の雰囲気が収まり、徐々に痺れを切らしてヒトラーに視線が集中してくるまで、彼は何もしゃべらない。あちこちの文化施設で催される講演会でも、上手い人ほど間を置き、静かにしゃべりだす。
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 はじめは静かに淡々と、中盤になり感情が昂ぶって行き、そして後半、ついに堰を切ったように激しい言葉とジェスチャーで観衆を自分のペースに引きずりこんでいく。演出と技量がずば抜けていると言わざるを得ない。興奮し、喉を震わせながら絶叫するヒトラーの演説に酔いしれていく観衆たち。悪魔ではありますが、演出や技法は現在のアメリカ大統領などの演説よりも見事であります。自分を熟知しているのがはっきりと理解できる演説でした。  映像的に見ていくと、基本は党大会のドキュメンタリーということもあり、ハイ・アングルかロング・ショットが多い。ただし、ヒトラーに対するカメラはアイレベルか威厳と威圧感を増すためのロー・アングルを使用している。
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 川の反射を効果的に用いたり、冒頭の空中映像や行進時のマスゲームなど映像美への拘りも尋常ではない。ヒトラー、ヘス、ゲッペルスの三人が壇上へ上がっていく最後の演説シーンでの舞台装置の演出の見事さと巧みさは何度見ても素晴らしい。空撮や移動撮影などが与える躍動感も見逃してはならない。新鮮な権力が疾風のように駆け抜ける映像の魔力は観る者をミス・リードしても仕方ない。それほど「カッコいい」「スタイリッシュな」映像が続くのである。  後半のお昼の行進時に実体と影が一緒に行進する映像が印象に残る。美しく撮りすぎているのだ。リーフェンシュタールの確信犯的な映像美へのこだわりが戦後の彼女を映画界の主流の位置から遠ざける結果となってしまったのは残念ではあります。  ただし前半の演説の後に延々と20分近く続いていくパレード及び行進は正直辛いものがあります。ここらへんはもうちょっとカットしても良かったように思えますが、ここが長い分、後半のヒトラーの演説を早く聴きたいという観客を焦らす効果を狙ったのかもしれません。  みんなが見ているという意識を持って政治を演出して見せたのはアメリカではなく、ドイツが最初だったのだろうなあ、というのを強く感じました。まるでモーゼの十戒のように人垣の裂け目を歩いていく三人の様子はなにやら厳かであるように見えるし、滑稽にも見える。
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 10万人以上の群集で埋め尽くされた党大会。ハーケンクロイツの旗を掲げ、行進している党員たちのいったい何パーセントの人々が第二次大戦の終わりを無事に迎えることが出来たのであろうか。彼らにもそれぞれの家庭があり、人生があったはずである。  それは幸運だったか、不幸だったのか、ナチスの呪縛が解け、全体の中の一部分という位置付けから、ふたたび一人の人間であるという個に戻った彼らは何を思ったのであろうか。 総合評価 85点
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是空
2010-01-29

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