良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『おすぎ』彼は何故、これほど映画ファンに否定されているのに、「評論家」として意見が言えるのか…。

 みんなが大好きな「映画」には大事な要素が三つあります。一つ目は当然ながら「映画」という作品そのものです。そしてそれを製作する映画監督や俳優などの「作り手」が要ります。しかしながら、ただ作品があってもしょうがない。観られてこそ、初めて映画になるのです。そう、「観客」が加わってこそ、はじめて映画の三つ巴、三すくみ、もしくはじゃんけんぽんトリオの状況が発生します。  映画には古いも新しいもなく、ただ良い映画、悪い映画、まあまあの映画がある。作り手にもセンスの良い者、悪い者、まあまあの者がいる。そして観客にも良い観客、悪い観客、普通の観客がいる。映画評論家を名乗る人には当然ながら良い観客を期待します。
画像
 では良い観客とはどういう観客でしょうか。ここでいう良い観客とは理想的な観客を指します。映像と音声から正確にメッセージを読み取り、作り手の意図を理解しつつも、自分の考えを遠慮せずに述べられる観客です。  では「彼」はどうなのでしょうか。個人的にはそもそも試写会に行って、タダで観て、グダグダ言っている人々を「観客」とは思っていません。彼らはただ単に宣伝のための道具であるに過ぎません。もちろんここに行く芸能人などはTVに映りたいだけの、ただのさもしい輩でしかない。  そんなさもしい彼らを「セレブ」と呼んでしまうわが国のマスコミの見識のなさにはあきれるしかない。ブログなどでも「セレブ」と称する人々のものがあり、各プロバイダーのブログのトップページには芸能人やスポーツ選手などのものが「セレブ」扱いされているが、そんなものを見ると胡散臭さを感じてしまうのは自分だけだろうか。  「セレブ御用達」とかで宣伝されているものが多数あり、「いったい誰やねん!?」と思い、読んでいくと芸能人のものだったりする。「セレブ」の意味を貶めないでほしいと願う今日この頃です。  それはさておき、日本の映画評論家の代表といえば、古くからの映画ファンならば、淀川長治双葉十三郎蓮實重彦(映画のみではありませんが)、荻昌弘水野晴郎佐藤忠男などを思い出しますが、現在、世間一般ではある人のことを指すのではないだろうか。
画像
 「彼」を嫌う映画ファンは多い。ふつうTVに出てくる映画評論家はみなソフトで、嫌味さはなく、どこかカッコいい雰囲気を持っている方が多かった。淀川さんや荻さんなどは代表例でしょう。もちろんTVで聴く彼らの話も楽しいのですが、書籍や記事で読む彼らの記述の厳しさには驚く方も多いかもしれません。  ただ彼らの記事には厳しいながらも、「ああ、このひとは本当に映画を愛しているんだなあ。」と思える文章が必ずあるのです。行間から映画愛が滲み出るような瞬間は嬉しいものでした。  蓮實さんや双葉さんとなると、表面的な話だけでは納得しない、さまざまな文献を読む勉強熱心でコアな映画ファンに認められる存在です。まあ、水野さんとなると、「シベ超シリーズがあるしなあ…。」というため息も漏れてきそうですが、嫌われているわけではありません。
画像
 では何が違うのだろうか。一番の違いは「彼」が映画を紹介するときに映画への愛情を感じない点ではないでしょうか。仕事として片付けているだけに見える。映画会社には媚びるくせに、海外で評価の高い北野武監督や後期の黒澤作品にはボロクソです。いったい何者のつもりなのであろうか。
画像
 スカパーにはチャンネルnecoという邦画専門チャンネルがあります。この局のプログラムにはなんと「彼」が毎週映画を紹介する30分番組があるのです。その名も「おすぎのシネバラ」。「シネ!馬鹿!」ではありません。このプログラムは新作映画の宣伝と過去作品の紹介、そしてゲストインタビューというのが主な内容となっています。  ここでの「彼」は王様然とした傲慢な態度を撒き散らし、若手芸人を散々馬鹿にしたり、新作映画のプロモーションに来ている配給会社の宣伝マンたちに散々嫌味を言いまくります。そして過去作品の紹介では評価の定まっているものには「それなり」の言葉で説明します。  日活のB級作品ばかりを流すのが一般的なこのチャンネルではマニア向けのプログラムが多いので、当然ながら仕方なしにある程度の評価を与えています。  問題なのは新作です。彼が新作をけなすのを聞くことがいまだかつて一度もないのです。まあ、常にこのプログラムを見ているわけではないので断定は出来ません。しかし映画を長く観ている者ならば、そして一年に劇場で100本以上観る者ならばすぐに理解できることなのですが、新作を観ていて、合格点の水準である60点はあるなあ、もしくは人に薦められると言えるのはせいぜい三分の一くらいではないでしょうか。  また紹介の仕方そのものにも問題があります。ネタをばらしすぎて、映画館に行くワクワク感を奪ってしまうのです。基本的には新作を観るときにはまったく情報なしに行きますが、あれほどばらされてしまうと観る気が失せる方もいるのではないだろうか。デートの下見として、気まずい雰囲気になるような映画は避けたいというような理由があるのであれば、見てもいいでしょうが、そうでなければ楽しみを奪われてしまいます。
画像
 新作映画のプロモーションを仕事でやっているからしょうがないというのは大人ですから分かります。ただし同じ仕事でやっているからというのでも、淀川さんのスタンスとはまるで違うような気がずっとします。淀川さんは最低の映画でも何とか良い点を探そうとしていました。駄作を紹介するときの言い難そうな淀川さんのしゃべり方がまた良かったのです。  しかし「彼」にかかると、すべて「泣けます!」「この映画を観て、感動できないのはおかしい!」の一言で片付けられてしまう。そんなことを言われると、こっちが「泣けてきます!」と言いたくなります。なんで映画を観て泣かねばならないのだ!泣くことにそんな価値があるのかと言いたい。グダグダ言われなくとも、映像と音響と芝居が上手くいけば、勝手に涙は溢れてくるのものです。
画像
 また観客すべてが自分と同じ感性だとでも思っているのか、それとも自分の感性は絶対的で、他人のそれは自分以下だと信じ込んでいるのでしょうか。さらにまずいのは視聴者レベルを考慮しているのか(nekoはかなりコアなチャンネルなので、局側が視聴者を甘く見ているのではないだろうか!)どうかは知りませんが、「彼」がこのプログラム中、映画についてしゃべるのはほとんどがストーリーや俳優についてのことなのです。もう「彼」も「地位」はあるのでしょうから、技術論をやるべきではないだろうか。  難しい技術論はスポンサーが嫌がるから、そういう評論を避けているのであれば、そのスポンサーは最低だが、「彼」の番組を見ていて、「なるほどなあ。」と思える点があまりないのは映画ファンとしては正直寂しい。語る力がないのか、語る機会がないのか。  このまえ『八甲田山』の紹介をするときにはカメラの向きがあっちこっち散らかっているのは雪山での混乱を表しているのであろうとか、割とまともなことを言っているのです。しかしあくまでもそれらはすべて過去作品に関することなのです。スポンサーに媚びずに、新作をこき下ろしてこそ、「彼」の評価は上がり、大向こうの受けが良くなるのではないでしょうか。  関西には浜村純という司会者のおっちゃんがいて、彼も映画についてのコメントをよく出します。今でも覚えているのが『ロッキー5』について彼が語ったときの言葉です。当然マスコミは宣伝一辺倒でしたが、彼はTVオンエア中にはっきりと「この映画は駄目だ!がっかりした!」と言い切ったのです。僕も当時この映画を観に行きましたが、あまりのひどさにがっくりした記憶があります。そのため今でもロッキーは『ロッキー4 炎の友情』がラストだと思っていますし、衛星放送やスカパーで放映されていても、4までしか見ません。  「彼」がもし評論家活動はギャラがいいから、そんなまねは出来ないというのが本音だとすれば、そんなものは評論ではない。政治評論然りで、マスコミ批判やタブー批判をしないタレント評論家たちの言うことをまともに聴くのは大間違いなのと一緒です。
画像
 井筒監督は自腹で観て、言いたい放題言ってましたが、あれこそがインターネット時代の映画評論ではなかろうか。良いも悪いも、本音がバンバン飛び出し、ネット上を飛び交うのが普通の状況では「彼」のスポンサー媚び一筋の喋りでは誰も納得しないのです。  視聴者を選ぶスカパーなのだから、そして視聴者が選ぶスカパーなのだから、もっと本当に言いたいことをどんどん言っていかなければ、すぐにTVからも追われるのではないだろうか。次世代にネット出身の映画評論家が現れ始めれば、彼らは好き放題に言うだろう。仮にすぐにTVを追われても、元の場所に戻れば良いだけなのですから。