良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ワルキューレ』(2009)ヒトラー暗殺未遂事件に迫る!かなり期待したかった題材でしたが…。

 冒頭のナチス党員による宣誓はおそらくニュルンベルグ党大会での言葉を再現したのでしょう。この党大会を描いた、プロパガンダの傑作『意志の勝利』は政治運動における効果的かつ、もっとも邪悪な美しさを持つ映像の使い方を示しました。  またあの戦争とはいったいなんだったのかをマレーネ・ディートリッヒ錚々たる俳優陣の競演によって具現化した『ニュルンベルグ裁判』、ドイツとは敵方であるフランス解放運動を描いた、アラン・ドロンらヨーロッパの俳優陣が総力を結集し、素晴らしい雰囲気を作り出していた『パリは燃えているか?』、さらにはその後のフランス軍アルジェリアの解放戦線との不毛な戦いを描いた『アルジェの戦い』などは何度でも観れる素晴らしい作品です。
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 戦争映画には良い意味でも悪い意味でも作り手側の覚悟や思惑が見て取れる。記憶に長く残る戦争映画に共通するのは戦争には絶対的な正義などそもそも存在しない、という考え方であるように思う。上記の作品群のほかにもお気に入りの戦争映画は数多くありますが、上記の作品群を否定される方はいないのではないでしょうか。  ちなみに出来の悪い戦争映画とは戦意高揚や政府べったりの『ランボー3 怒りのアフガン』のようにインスタントな愛国心を煽る映画を指します。メジャー会社が戦時に製作する映画のほとんどは政府の思惑に沿った映画となり、また政権末期や戦後に政権が代わった後などにはゆり戻しのような戦争の悲劇を描く作品群が増えるように思う。表現の自由とは本当に存在するのかどうかを知るチャンスが戦時なのかもしれません。  最近では『大いなる陰謀』『告発のとき』などのような自己反省というか、権威の恥部を曝け出す作品が出てきている。つまり流れというか潮目は単純なドンパチ映画ではなく、内省的な戦争映画が求められているといえるのかもしれません。その中でつい最近観たのが今回の『ワルキューレ』となります。  題材はドイツ国民にとって、とてもデリケートで深刻なもので、ナチス総統であるアドルフ・ヒトラーによる絶対的な独裁及びSSらの暴力的な支配体制が敷かれている中での絶望的な抵抗運動をいかに描いてくれるのだろうという期待がありました。秘密警察ゲシュタポヒトラー親衛隊SSが常に市民に向けていた監視の目をかいくぐって、いかに目的を達成しようとするのか、また失敗に終わるならば、どこに綻びがあったのかをきちんと描いて欲しい作品でした。
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 あのナチスとて、けっして一枚岩ではなかったことはSAを粛清したことでも明らかでしょうし、国防軍や警察の温度はナチス礼賛一辺倒ではなかったであろう事も容易に推測される。警察という権力がナチス政府によって設立されたSSという新権力に抑えつけられていて、本来の権力を失っている現状にたいして不満がないわけがない。劇中でも、国防軍や警察はクーデターに対して、見て見ぬ振りをするか、消極的というか様子見ながらも、一時は反乱軍に味方をする気配すら見せていたのが描かれている。   いまだに第二次大戦映画で描かれるドイツはほぼすべて悪役であり、打倒される対象でしかない。日本軍もほぼ 同じような扱いでしょう。世界が恐れていたナチスドイツの中枢部にも心ある人々、自由と尊厳を求めて、決死の戦いを挑んだ人々がいたのだということをどう描くのかに興味がありました。ナチスにとっての都合が良い愛国者ではなく、国士と呼べるような人々が神聖なるドイツ国家をどう取り返そうとしたかに興味がありました。  また題名のワルキューレワーグナーのオペラにも登場する、ドイツの神話伝説の英雄ジークフリードを守ろうとする、天馬ペガサスに乗って飛翔する乙女の戦士(天使?)のことです。劇中の連合軍がドイツの街を空襲するシーンで、このオペラ『ワルキューレ』のなかで演奏される『ワルキューレの騎行』が掛かるのは最大の皮肉でした。ドイツ人を救うのが自分を英雄に見立てたヒトラーではなく、敵方の連合軍という点においてです。  長々と書いてきましたが、つまりそれだけ期待していたということです。蓋を開けてみると、監督にブライアン・シンガーを用いていたので、平均レベルは超えてくるであろうことは予想できましたし、無駄なカメラワークなどを見せ付けることはないであろうと予測しました。
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 軍用機等も実物を用いているので、かなりのリアル感はありましたし、CGにはない重厚感がありました。では登場する俳優陣はどうだったのでしょう。主演を務めたのはトム・クルーズ。『大いなる陰謀』では野望に燃える政治家を演じた彼でしたが、今回はクーデターを仕掛ける反体制側の実行リーダーを演じることになりました。  しかしどうしようもないのは軽すぎるということ、また所作動作に貴族であるはずのシュタウフェンベルグ大佐なのに、欧州貴族特有のエレガントさと軍人らしい厳しさを感じないということです。同じ題材を渡された場合、ルキノ・ヴィスコンティ監督ならば、どのようにこの事件を描いたのだろうとかを考えると感慨深い。  この劇中でもっとも印象に残っているのが、レーマー少佐を演じた、トーマス・クレッチマンだったことも付け加えておきます。もともとこの映画の主役であるシュタウフェンベルグ大佐役は彼がなるはずだったのですが、興行面を考慮した結果、トム・クルーズに落ち着きました。作品の質という面ではかなり落ちてしまいますが、映画はビッグ・ビジネスであるという側面も考慮すると、致し方ないのでしょう。
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 致命的な点はそれだけではなく、国を揺るがすクーデター計画であるにもかかわらず、そこへ向かうシュタウフェンベルグ大佐の動機付けがはっきりしない。そのため感情移入が出来にくいのです。脚本にも無理があるように思えました。そもそもみんなが結果を知っている事件を観ていく上で、サスペンスをどう作り上げるかというのは難しい。  であるならば、何故失敗したかを丹念に描くべきだったのではないでしょうか。「狼の巣」での会議会場の変更で、コンクリート構造から一般建築に変わったことによってもたらされる爆発威力の低下ともともとの火薬量の少なさと二発目の不発、分厚い机であったために爆発が篭ってしまい、結果として起こったヒトラーの生存、会議へのヒムラーの不参加、そもそもの計画の杜撰さと甘さなど数え上げればきりのないほどの失敗要因を検証すべきだったのではないでしょうか。  有事の際に、首都ベルリンを守るために存在していた軍事計画であるワルキューレ計画を、つまり敵の力を借りて、それをクーデターに利用するという着眼点はそもそも素晴らしかったのに、いざ実行に移したときには上層部の優柔不断さと杜撰さでもろくも崩れ落ちていく様子は悲劇的ではある。もっと言うならば、そもそも行動部隊を持たずに、机上の理屈のみでクーデター計画を実行してしまったのが最大の失敗の要因でしょう。  2・26事件では多くの部隊が決起して、実力で事件を起こしましたが、このワルキューレ計画には首謀者がいるのに、それを命がけでサポートする行動部隊が全く付いていないのです。よく考えれば、失敗して当然とも言える。  誤報でも殺害失敗でも、迅速にクーデターを進めていけば、最終的には鎮圧されるにしろ、首都機能を何週間かは喪失させえたであろうし、鎮圧軍を差し向けねばならないので、ただでさえ手薄な前線がさらに攻撃力を失い、間接的に連合軍を手助けすることにもなったでしょう。
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 さらに当時であれば、比較的に情報操作もしやすかったでしょうから、ラジオ局や通信施設を重視して抑えておけば、連合軍を招き入れることも出来たでしょうし、ヒトラーの場所を通信で教え、爆撃することも可能だったでしょうし、SSらを早期に鎮圧することも可能だったでしょう。またヒトラー自身が行ったように反対派を締め出した上で国会を開催し、合法的に新政府を樹立する道もわずかながらあったかもしれません。  このクーデターの連座で、多くの人々が犠牲者となりましたが、彼らがもしあと1年我慢して、生き残っていれば、ドイツの戦後復興はもっと素早く進んでいたのかもしれません。すべては結果論でしかありません。  事件に関してはこういった部分での検証、第一次大戦での敗戦と失ったドイツ帝国のプライド、そしてナチスにより復興したはずだったが、また滅亡へと向かっていたドイツの歴史や国民感情への洞察に欠けるきらいがあるために、そして何よりもトム・クルーズ主演というハリウッドの事情により、少々甘口な掘り下げ方になってしまったのは残念でした。クレッチマンを使っていれば、もっと事件の本質に迫っていれば、全く違った印象を与える今年最高の作品に成り得たかもしれません。  ※本作の製作年は2008年ですが、あえて公開年である2009年を表記しています。 総合評価 65点