良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『人情紙風船』(1937)山中貞雄28歳、異国の地にて戦没す。これが遺作ではちと寂しい。

 21世紀も10年が経とうとしている現在となっては、もはや知る人も少ない天才監督、山中貞雄の遺作となるのが、この『人情紙風船』である。半世紀以上前の1938年、彼はまだ28歳であったにもかかわらず、望まぬ死を迎えざるを得ませんでした。場所は日中戦争の戦地であった現在の河南省、彼は任地で腸炎に罹り、あっけなく病没してしまったのです。  彼は自分の映画監督人生、前途洋々だった筈の青年の夢が途切れ、この映画で最後になってしまうことにたいそう未練があり、帰国して監督業を再開したかったそうです。そして残した言葉が「これが遺作ではちと寂しい。」だったのです。30歳を前に遠い異国の地で命を失うという過酷な運命がなぜ天才監督に降りかかってしまったのか。才能のある人間でも一兵卒として扱う軍隊とはどれほどの価値を持つ組織だというのだろうか。
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 結局、彼の願いは叶うことなく、早すぎる生涯を終えました。動乱の時代がやっと終わったとき、残念ながら、生きていくのに精一杯で、まったく余裕も無かった映画ファンの多くは彼を忘れていました。それもしかたない。彼は生前26作品の映画を撮りましたが、戦争の業火や製作会社の管理の杜撰さもあり、ほとんどの作品が消失してしまい、残ったのは『人情紙風船』『丹下左膳餘話 百万両の壺』『河内山宗俊』の三作品でしかない。  しかも、上記の三作品は圧倒的な完成度を誇る作品でありながら、山中貞雄監督の代表作ではありません。傑作と評判の高かった『街の入墨者』は散逸してしまい、後世に残っていないのです。さらに驚くのは彼が監督に昇格したのが22歳のときであり、それから作りまくったのが26作品、つまり出征する1937年までの5年ちょっとでの仕事なのです。  熱心な山中貞雄監督のファンならば、おそらく『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』『怪盗白頭巾 前篇』、そして監督デビュー作品である『磯の源太 抱寝の長脇差』などを観るまでは死んでも死に切れないという方がいるかもしれません。なんとかしてどこかに存在しているかもしれない彼の作品のフィルムを一日も早く見つけ出して欲しい。
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 もし彼が日中戦争を生き残り、戦後に内田吐夢監督や溝口健二監督、そして小津安二郎監督や黒澤明監督らとともに日本映画を支えてくれていたならば、どれほど素晴らしい作品を残したことでしょう。脚本の上手さ、構図の美しさ、音の使い方や影の使い方の妙を発揮していてくれたならば、彼に続いていったであろう映画監督たちへどれだけ大きなヒントとやる気を教えてくれていたであろうかと思うと重ね重ね残念に思います。  やりたいことをやれなかった時代、人間の権利など無視されていた時代、美しさを探求していた人間に死と犠牲を強いた時代を美化する者はおそらく当時も今も自分は最前線へは行かない者でしょう。もちろん国防は重要事項ですし、中国、北朝鮮、ロシアという軍事国家に挟まれた複雑な状況にあるわが国がただただ平和のみのお題目を唱えても意味は無い。  伝家の宝刀としての軍事力は持たねばなりませんが、それは使うものではなく、最後まで外交努力を惜しむべきではない。プライドなど感情論で軍国化するのは間違いですし、一方で平和一辺倒のお人好し外交も無意味です。バランスを持った外交をしていく結果が平和を生み出すのではないでしょうか。
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 それはそれとして、映画に戻りますと、この哀しい人間模様を描ききった映画は彼の才能を見ることの出来る貴重な資料であるだけではなく、その時代の他の監督の作品と比べても、群を抜いた完成度を持っています。軍国的な圧力を全く感じさせずに、人情と悲哀、そして厭世観を表現する独自の作風を示してくれている。つまり時間を忘れさせてくれる、現実から逃避させてくれるという才能が溢れている。  人間の運命と人生の現実を思い起こさせる、とてもシンプルで印象的な紙風船が用水路に漂うカットは観る者を捕らえて離さない。画面の奥のほうでもしっかり芝居しているこだわりを感じさせる職人気質、画面の奥の方まで観る者を誘う構図、雨上がりの青空を不意に観客にぶつけてくる仕掛けなど、まぶたに焼きつくショットが多数あり、思い出の映画となるに相応しい綺麗な写真を残しています。  画面転換もワイプ、ディゾルブ、暗転、アイリス・インなどさまざまな手法を適切に行っていて、とても観やすい。もっともこの映画に限らず、現存しているフィルムがすべてのフィルムかどうか疑わしいので、なんとも言えません。残る二作品も、GHQの検閲により、チャンバラ・シーンなどが大幅にカットされてしまっているようなので、あくまでも現存するフィルムを観る限りという前提がついてしまいます。
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 これは江戸期の小市民を描いた時代劇映画でありますが、人生の本質と無常は時代を超えても変わらない。いつまでも昔の縁にすがり、身を立てようとする無力な侍。現在の目で彼を見る者は彼に同情するのであろうか。彼の親から受けた恩を忘れ、出世していった役人のような侍を責める気持ちになるだろうか、それとも無力な侍の他人頼りの姿勢をどう思うのだろうか。彼はいつまでも昔の恩にすがろうとするが、その姿勢は現在の物の見方でいうと共感できるものではない。所詮、人頼みの人生では先はおぼつかない。  もっとも封建制度の世の中であれば、コネというものがどれほど大切な出世の手段であったかは明らかであり、彼一人の責任とするには酷でしょう。しかしながらあまりにも人の情けのみにすがろうとする生き方は哀しすぎる。取り入ろうとする役人宅から追い出される彼は野良犬のような扱いを受ける。彼の袴は皺だらけで、上着にも穴が開いている。彼はみすぼらしい服装で家に帰っていく。家に帰っても言い訳のみを繰り返す彼はまるで、すでにリストラされているのに家族にそれを言い出せないでいるサラリーマンのようでした。
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 妻の方がその点はシビアなので、夫の徒労が明らかになったときに彼女が選択するのは心中である。心中といえば、この映画は冒頭で、老いた浪人が貧乏長屋で首をくくって死に絶えるところ、そしてそのあと通夜と称して、酒盛りで大騒ぎするところから始まる。  「なんで彼は侍なのに腹を切らずに首なんかくくったのだろう?」と首をかしげる長屋の住人に対し、別の住人は「馬鹿野郎!そんなものはとっくに売り払ってしまっているんだよ!あれは竹光だよ!」と内情を明かす。武士の威厳などとっくに失われてしまい、無残な暮らしの中で没落し、死に場所も無く果てる。しかし長屋の住人はそんなことなどお構いなしに、他人の不幸でも酒の種にするという残酷なエピソードではあるが、それを落語のような雰囲気で進めていき、少しも暗いところを見せない工夫をしている。  のちに黒澤明監督も『どん底』で底辺の住民たちの悲惨な暮らしを抉り出したが、山中貞雄監督は20代後半という若いうちからすでにこうした人生の深さを描き出せていることに驚く。才能の凄みとはこういうことなのであろうか。若いとか歳をとっているなどは才能とは関係なく、センスなのであろうということを気づかせてくれる。
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 喜劇は不幸の中で活き活きと語られていくというのを実践したような映画です。驚くのは70年以上も前に作られた映画なのに、いまだに登場する人物たちの息使いや生命を感じるのです。芝居のリズムがとても良く、前進座が大いに面目を施している。まるで江戸時代にカメラを持っていったようなリアリズムがある。  金魚売りののんびりとした声だし、長屋の用水路での井戸端会議、酒屋の様子、夜鳴きの蕎麦屋の懐かしさなど言い出せばきりのない庶民の生活を切り取ったような躍動感には脱帽するしかない。  主要な登場人物のほぼすべてに不幸な結末が待っている。しかもほとんどが社会的弱者の側である。河原崎長十郎(四代目)が演じた冴えない浪人とその妻を演じた原ひさ子は人生の希望をなくし、夫の寝ている隙に彼を刺し殺し、自分も死ぬ。結果的には心中したことになるが、どうみても将来の無い夫に絶望した妻の諦めと怒りによる結論であったであろう。
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 中村翫右衛門が演じた跳ね返り者の新三は土地の親分である市川莚司(百蔵)を手玉に取るが、最終的にはなぶり殺しにされて果てるという暗い結末を迎える。彼が自身の死を予期し、最期に至るまでの行動は深い悲しみに満ちている。親分に呼ばれたあと、酒場に戻った彼は死を悟り、普段から顔見知りの酒場の皆に酒を振舞い、主人に金を渡し、今生の別れを誰にも告げずに親分の元へ向かう。  事情を知らない酒場の者は彼に「傘を返してきてくれ!」と頼み、彼はそれを引き受ける。死の間際、親分の手下共に囲まれたときも、彼はその傘を子分の1人(加東大介)に渡し、傘を返すように言付ける。なんともいえない名シーンである。哀しみと皮肉な笑いが同居する。全編通して言えるのはこの映画に描かれている人生観がとても厭世的で悲観的なことです。しかもこれに笑いをまぶしているところに山中貞雄の凄みを感じる。
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 世間知らずなお嬢様を演じた霧立のぼる(お駒)と手代の若者は武家へ嫁ぐのを嫌い、二人で逃げる算段をするが、おそらく二人とも不幸で過酷な人生を歩むのは目に見えている。世間知らずな娘を抱えて、いったい一手代に何が出来るというのだろうか。  しかも彼女は家老の跡取に嫁ぐという身なので、捕まった場合、この手代のみならず、二人とも火炙りになる可能性もある。溝口監督の『近松物語』のようにお互いに愛し合うわけではなく、ただこのお嬢様の身勝手からの駆け落ちなので、上手くは行くまい。  観終わった後、なんともいえない寂しさが残る。山中貞雄監督が自身語ったように、これが最後ではちと寂しい。寂しいのであるが、素晴らしい映画を観たという充実感もあります。当時の観客がどのように感じたかは分かりませんが、ちょっと物思いに耽りながらも、同じように素晴らしさを噛み締めていたのではないでしょうか。
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このような人情物が山中貞雄監督が本当に撮りたかったテーマがどうかは分かりません。しかし後世これを見ることになったわれわれ映画ファンにとっては、彼の才能のエッセンスだけでも味わえる稀有な作品でもあります。もし戦争を生き残って、彼が大きなテーマの作品や予算が大きい映画を任されていたならば、いったいどんな映画を撮ったのであろうか。想像するのも楽しい。映画の楽しみを満喫できる作品を送り出してくれていたに違いありません。  今後もし、散逸していたフィルムやマニアが所蔵していたフィルムが見つかり、商品化されることがあれば、是非観たい。『人情紙風船』を含め、本当に地球上にこれら三作品しか残っていないのだとすれば、ちと寂しい。 総合評価 92点
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2004-08-27

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