良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『さまよう刃』(2009)少年法は誰のために何を守るのか?問題を投げかける話題作。

 東野圭吾原作、益子昌一監督脚本で公開されている『さまよう刃』を観に行きました。今週、そして来週は観たい映画が続々と公開されていて、嬉しい限りです。この映画、『カイジ』、『沈まぬ太陽』は必見かと思い、本日の夕方の回に間に合うよう仕事を片付け、バイクで劇場に向かいました。  本日、劇場の周りにいた人たちの多くは何故か普段より高齢の人が多く、不思議でしたが、『仏陀再誕』の上映時間だからだったようです。『さまよう刃』を観るためではなく、『仏陀再誕』だったのはがっかりでしたが、ぼくらはまだ来世よりも現世の方に興味があるので気にしないで地下二階にあるスクリーンに向かいました。  未成年と呼ばれる年齢層の犯罪者が出現したときに、いつも遺族の感情を逆なでするのが少年法という法律である。罪を犯した者が裁かれるのもまた権利であるはずなのに、精神異常者の犯した犯罪が無罪になるのと同じように、手ぬるい処置しか取られない。  しかもその犯罪者は顔も名前も明かされること無く、何食わぬ顔で街をうろついているのである。司法が守るべきは被害者や一般市民であって、加害者ではないはずである。もちろん悪いのは加害者であって、加害者の家族ではない。このへんについては少々極端な描写もあるが『誰も守ってくれない』や東野圭吾自身の原作による『手紙』を観れば、そういう思いも湧いてくるでしょう。
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 ただもっとも心を痛めているのは被害者の家族であり、過失も何も無いのに凶悪な犯罪に巻き込まれた被害者である。少年というよりも人間の皮を被った悪獣に無残に殺されたり、犯されたりした被害者を救う手段は現在この国には無い。  すぐに死んだものは生き返ってこないのだから恨みを忘れて未来に目を向けようなどという馬鹿な戯言をのたまう進歩的と称する似非人権擁護の輩が死刑廃止を訴えたりする。凶悪な犯罪者に死刑という量刑があったとしても、それが犯罪の抑止力にはならないなどという詭弁を押し通そうとする。  そもそも凶悪で人命を鬼畜のように奪った犯罪者が生きる資格など必要なのであろうか。死すべき人間もまた存在するのではないか。どんな人の命でも尊いなどというつもりは毛頭ございません。ヒューマニストと称する人も被害者の苦しみよりも、加害者の人権とやらを重視するようですが、それは金になるからという現実的な理由だけではないだろうか。  凶悪な犯罪者の弁護を買って出て、もし仮に彼が無罪もしくは無期懲役になったとすれば、最悪の事態を免れたということで、彼の事務所には多くの犯罪者から仕事の電話が入るのであろう。悪魔の屁理屈を論理と呼ぶ輩に法を玩ぶ権利などあるのだろうか。
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 この映画では主犯格である岡田亮輔(菅野カイジ)、共犯者の黒田耕平(伴崎アツヤ)、そして運転手役の佐藤貴広(中井誠)という三人の犯人たちは自分のことしか頭にない、自分だけは逃げようとする卑劣で凶悪な未成年犯罪者である。寺尾聰の娘役である女子中学生は路上で拉致され、殴る蹴るの暴行を受けたあと、覚せい剤を打たれた上で、輪姦され、しかもその様子をビデオに録画されるという凄惨な目に遭った末に殺されて、ゴミのように荒川の河川敷に捨てられる。  輪姦時の会話も最悪最低で、鬼畜の所業を犯した輩は少年法という不必要な法律に守られているために、法的には遺族は無力になってしまう。個人的には少年法は不要であると考えていますし、複数ではなくとも、ただ一人を殺した場合でも、その所業の残忍さなどを考慮し、公開処刑やより痛みを伴う死刑方法も選択されてしかるべきだと思っています。
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 この犯罪者たちも一枚岩ではなく、三人のうちの一人は残る二人にいじめられるのが嫌で、ただ車を貸していただけであった。しかし積極的であろうと、消極的であろうと犯罪に加担しているのは同じである。この消極的な犯罪者は娘の親である寺尾に残る犯人の名前と住所を教えて、彼らを殺してもらうように仕向けていく。  犯人の一人の自宅で待ち伏せしていた寺尾は帰宅した一味の一人を羽交い絞めにして後ろからナイフで刺し、すぐには殺さずに主犯格が現在いる場所を聞き出すために即死させない。寺尾はとどめを刺さずに動けなくしてからじっくりと聞き出していく。結果として寺尾は犯人の一人を殺害するのであるが、その方法は彼の娘がやられたのと同じように即死させずに、苦しめながら、ゆっくりと殺していく。  普通こういったシーンを見ると嫌な気持ちになってしまうのですが、事情を知っている我々観客はそういった感情を抱かない。悪を倒す彼、復讐の第一歩を踏み出した彼に嫌悪感はまるで無い。それが良いことなのか、悪いことなのかは分かりませんが、悪はきちんと裁かれるべきであるという感情の方が優位になってしまう。
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 演出面ではサイレント的なシークエンスが多くあり、娘を殺されて失意のどん底に沈む様子、雪山の中を犯人を徐々に追い詰めていく様子、川崎駅前で猟銃を構えて犯人を追い込んでいくシーンなど見所は多い。影の使い方も巧妙で、代表的なシーンとして、酒井美紀が寺尾に復讐の無意味さを問う場面を挙げます。このシーンは娘さんも復讐など望んでいないし、未来を見ようと訴える酒井に対し、寺尾が無言で立ち去るというシーンなのです。  このとき酒井の周りには微かながら、そしておぼろげながら光が差しています。そしてその弱い光、つまり希望で寺尾を包み込もうとしますが、いかんせんその光は弱すぎる。寺尾は席を立ち、雪が降りすさぶ真っ暗な夜の世界へと彼の足を向けていく。しかも彼は一度も振り向かない。これは彼の強い決意と孤独さを表現した素晴らしいショットでした。台詞は極力少なくしていて、想像できるようにしている。  この映画全般で見せてくれる巧妙さは残念ながらストーリーだけを追っている人には見過ごされてしまうのでしょう。観客に一から十までのすべてを見せようとするハリウッドやお金を掛けた邦画のようなクドい演出は存在せず、観客により多くの展開や気持ちを想像させる楽しみを数多く与えてくれている点です。
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 少々時間の長い暗転が何箇所かあり、それはまるで暗転の時間に自分の感情を整理しなさいよと監督から投げかけられているようでした。寺尾による復讐劇は結局のところ完成しませんが、最後の長い暗転のあと、殺されかけた凶悪犯人に待ち受ける裁判が今まさに始まろうとする瞬間に映画を終えてしまう。  中盤の主犯を探すシーンがかなり長く感じられ、モタモタしたようにも思えるが、クライマックスへの布石として考えると、二時間以上ずっとテンポよく進むのもこういった作品では逆に不自然さを感じるでしょうから、このくらいのスピード感でちょうど良いのかもしれません。  結局、犯人はのうのうとして少年院にでも入り、何年かすると何食わぬ顔で大通りを闊歩するのでしょう。寺尾の意図を知る幾人かの人々は何とか無念を晴らしてもらおうと、寺尾に協力し、情報(佐藤貴広)や銃器を提供してしまったり(山谷初男)、警官(竹野内豊)も見て見ぬ振りをする。
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 寺尾は射殺される前に、この国の法律の問題点を指摘した上で、猟銃で犯人に最大限の恐怖を与える。彼がまさに撃とうとする(中身は空砲)その刹那に、寺尾は警官たちに銃撃されて、果てる。しかし彼の手は主犯の襟首を固く握り締めたまま、死しても放さない。またその目は見開いたままです。  警官の一人(竹野内豊)が寺尾に捜査情報を漏らしたり、犯人の一味が主犯格や実行犯の住所を漏らしたりと、少々ありえないことも多々起こりますが、映画で語りたいのはそのような些細な穴を忘れさせてしまう問題提起の大きさです。誰でもいつかふいにこうした事件の被害者になりえる可能性があります。  愛する家族や手塩にかけた娘を突然奪われる理不尽さをどう思うだろうか。綺麗ごとではない真の怒りと怨念をどうやって晴らすというのか。そういった思いを抱きながら帰路につきました。来週は『沈まぬ太陽』を観に行きます。 総合評価 80点
さまよう刃 (角川文庫)
角川グループパブリッシング
東野 圭吾

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父親と、同じ気持ちで ...
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