良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『蒸気船ウィリー』(1928)解釈学的視点によるミッキーのデビュー作品。

 この物語に登場するアメリカ人の主人公、ミッキーマウスは現存在として先駆的了解をするには至っていない。1920年代の後半である1928年では、彼は迫り来るナチズムの台頭にかかわらず、安全地帯のアメリカ内陸部でゆったりと構えていて、いまだ覚醒してはおらず、自分の存在していく意味であったり、存在するという事実自体、そして自分がいつまで現存在でいられるかという時間性を考えている節はない。  ネズミであることは単なる隠喩にすぎない。彼は平均的なアメリカ白人青年の象徴である。ミッキーマウスの与えられた役割はステレオタイプの感覚を他の多くの国民へ植えつけるための触媒である。アメリカン・ドリームを信じさせたい人々、権力を握って、決して放そうとはしない裕福な大人たちが生み出した、体制へ服従させるための確信犯的な道具こそがミッキーマウスである。
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 彼は模範的なアメリカ人らしく、笑顔溢れる好青年として一時代を築き上げた。今でもディズニー、つまり現体制のためにさらなる莫大な利益を生み出すため、テレビやスクリーンや遊園地で快活な様子で機能している。しかしながら彼はアニメーターやウォルト・ディズニーによって、頭のてっぺんから爪先まで、完全に規制された、いわば去勢された民衆の模範として、機能しているのだ。  彼の容姿は彼の性格、つまり白黒付けたがるアメリカ人のそれを代弁する。白黒が共存する様子は彼の性格を表す集団無意識的な色使いでもある。彼は白人と黒人の融和のためにこの二色を体表に羽織っている訳ではない。世界のアイドルのように振る舞い、かの国のイメージと価値観をソフトに押し付ける至上命題があるため、時代を経るに従い、彼の顔も偽善的ないわゆる肌色になってきている。彼の顔はカメレオンのようにすべての人種の支持を受けるために有色人種の顔の色になってきています。  映画での黎明期はもちろんモノクロなので、彼の顔は白い。しかしカラーを決められるキャラクター・グッズでもやはり顔が白い。つまりこれはディズニー側というよりも、当時の一般的な解釈としては人間とは、言い換えれば、アメリカにおける現存在とは白人であることを物語る。
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 カラー化してしばらくすると、真っ白だった彼の顔色は有色人種のそれに変わっていく。ぼくらが幼少期に持っていたミッキー・グッズは真っ白な顔をしたやつが多かったが、最近は浦安ディズニーランドのおみやげでも肌色のモノが多くなってきたようです。  作中でも明らかになるが、白人のアイドルとなろうとしたミッキーマウスは牛、豚、鳥などの他の種族を自らの楽しみのための道具として扱い、ミニーマウス、つまり女性の人権も軽んじている、というよりも眼中にない。  フィルムでは対外的には覚醒してはいないが、自国ではすでに自分勝手な事情、つまり正義という方便こそ振りかざしてはいないが、攻めやすいところを攻めて、自らの優位性を際立たせていく術を心得ている。まだ彼はモンロー主義的が蔓延り、ぐんぐん伸びてきた資本主義と軍事産業の庇護の下、ステレオタイプの感情と行動に終始し、権力に結局は逆らえないでいる。  ピートは大きい人間であり、毛皮を纏い、鋭い爪を持っている。ミッキー・マウスは彼に服従せざるをえない。これはアメリカにも階級があることをほのめしている。マルクス主義やナチズムほどではないが、資本家に都合が悪いことはしてはいけないということを刷り込んで行くのだ。
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 彼はいつになったら、現存在として目覚め、本来あるべき姿へ戻るための先駆的了解を悟るのだろうか。ミッキーマウス、つまり白人青年にとってのあるべき姿は民主主義と正義とプロテスタントという名の思想統制と管理の下、外国にそれらの思想や風俗を押し付けることである。  軍隊が果たした役割はたしかに大きいが、外国人たちの隙を狙い、その地域の文化を破壊していく過程において、ハリウッド映画やディズニー映画が果たした役割も大きい。殴るだけが侵略ではない。いつの間にか、子どもたちの心の奥に到達し、アメリカ人の価値観を巧妙に植え付けていく。  現存在の生きる目的は先駆的了解、つまりどういう生き方をして、どういう死を迎えるかである。ミッキーマウスのそれは上記の通りである。なんてね!