『ヒーロー』(1986)ワールドカップ・メキシコ大会公式フィルム。マラドーナ伝説の2ゴール!
今回はFIFAワールドカップ公式記録映画『ヒーロー』についての記事になります。毎回、彼らはサッカーの普及のために大会全体をとらえた記録映画を製作していまして、サッカーが好きなぼくはそれらの映像を1970年のメキシコ大会の分から1990年のイタリア大会の分までをサッカー・ショップで購入し、ビデオで何度も見ました。
この1986年の大会ではマラドーナは南米大陸からのプレーヤーとしてはペレ以来の世界的な名声を手に入れることに成功しました。ウルグアイのエンゾ・フランチェスコリも前年の南米最優秀選手ということもあり、ファンには期待されましたが、ミカエル・ラウドルップのいたデンマーク戦で6対1の大差で敗れてしまいました。
ブラジルのライバルとなるアルゼンチン出身のマラドーナのサッカー人生は起伏が激しく、頂点とどん底を行き来しました。彼のプレーをはじめてテレビで見たのは1982年のワールドカップ・スペイン大会でした。
その当時は若くて有望な選手という程度の印象しかなく、ぼくが凄いなあと感じていたのはフランスの将軍・ミシェル・プラティニでした。この大会の西ドイツとの壮絶な試合はぼくがはじめて見た、ワールドカップの試合でした。
史上初のPK戦までなだれ込んだゲームで、その暴力的なプレーのためにセビリアのモンスターと呼ばれたハロルド・シューマッハーやリトバルスキーのセンス溢れるプレーは印象に残っています。プラティニはユヴェントスとともにトヨタ・カップを獲得した翌年、つまり四年後の1986年に開催されたメキシコ大会にも出場しました。
そのときのブラジル戦でもジーコやソクラテスを向こうに回し、パス・ゲームのアイデアに満ちた、素晴らしい内容の試合で楽しませてくれました。このときスーパー・サブとしての出場が多かったジーコはワン・タッチで試合の流れを変える凄みを見せました。彼のみではなく、新たに加わったブラジルのフォワードとしての能力の高さを感じさせるカレッカのプレーは今でも覚えています。
カレッカはその後、イタリアのナポリと契約し、代表チームで一緒のアレモンとともにマラドーナと数々の栄光をナポリにもたらしました。アルゼンチンにもしカレッカがいれば、もしマラドーナとラモン・ディアズの仲が良かったら、さらなる創造性溢れるゲームが見れたのではないかと思うと残念です。
話を戻しますと、1986年のワールドカップ・メキシコ大会にマラドーナは再びアルゼンチン代表のキャプテンとして帰ってきました。前回、度重なる反則に我を失い、ブラジル戦で退場になってから、四年の月日が流れた後、彼の存在は大きくなり、審判団も彼への反則に対し、前回とは正反対な態度で目を光らせて、彼が才能を発揮出来るように、彼を守り続けました。
彼の予選リーグからの動きは決して良い動きだった訳ではなく、なかなかエンジンがかかる様子はありませんでしたが、韓国・ウルグアイを破り、イタリアと引き分けて、なんとかカップに向かって、切り抜けていきます。
優勝を狙うチームは決勝トーナメントのベスト8にコンディションのピークを持っていくようにトレーニングをしていくため、予選リーグでは調子が上がらない傾向が強い。薄氷の勝利やまさかの敗戦が起こるのはそのためである。
この大会のマラドーナは切れ味が良く、パスのセンスは冴え渡り、ドリブルは敏捷で、敵味方の動きを把握し、守備的だったアルゼンチン代表の中ではバルダーノとともに数少ない攻撃的なプレーヤーでした。
マラドーナの名前が世界に知れ渡ったのはなんといっても、イングランド代表との準々決勝の一戦でしょう。ゲーリー・リネカーが左手首を骨折しながらも、輝きを取り戻しつつあったイングランドとのゲームは見どころの多いゲームでした。
マラドーナにはいわゆる“神の手”ゴールによって、世界的な悪名が轟くはずでした。しかし数分後に彼はイングランド人以外のほとんどのサッカー・ファンに支持されました。自陣の中盤の深い位置にいた彼はボールを受けると、ゆったりとドリブルを開始する。
自陣でボールを受けた彼はターンしながら2人を置き去りにし、センター・サークルを越えた辺りから、1人ずつマラドーナに向かっていったイングランドの守備陣は次々に打ち破り、気がつくとペナルティ・エリアも突破していました。
イングランドがGKとディフェンスで挟みに行ったときにはすでにボールはゴールに収まっていました。これがもうひとつの有名な“5人抜き”ゴールです。つまりマラドーナはワールドカップ史上、伝説に残るゴールを一試合で、それも後半の十数分で二つも決めてしまったのでした。
当時はフォークランド紛争で英国に大敗したアルゼンチンにとってみれば、まさに痛快な復讐劇でしょうし、彼の名声を完全なものにするゴールだったのではないだろうか。
またこの試合はマラドーナのゴールばかりが持て囃されているが、イングランドの稀代のゴール・ゲッターであるゲーリー・リネカーの1ゴールとゴールにはならなかったヘディング・シュートも強く覚えています。
バーンズのクロスに合わせて、綺麗に決めた一点目は良いゴールでしたが、数分後に再度訪れたバーンズのクロスに合わせたシュートは得点シーンと同じような完璧なシュートでしたが、なぜかゴールとはならずにディフェンダーの頭に当たり、、ゴールの外へ弾かれてしまいました。しかもリネカー自身はゴールの中に飛び込んでいってしまうというカッコの悪い状況となりました。
ミーハーだったぼくはアルゼンチンを応援していましたが、このときはヒヤヒヤしながら見ていました。結局、マラドーナはこの試合に勝利し、次のベルギー戦でも美しい二つのゴールを決めます。
2ゴール目は準々決勝の再現のようなゴールで、前回のイングランド戦ではゴール中央に切り込んでいくものでしたが、今回のゴールは中央からゴール左にダイアゴナルに突っ込んでいき、得意の左足でコントロールした綺麗なものでした。
二試合で4得点したマラドーナは西ドイツとの決勝戦に進みました。アステカ・スタジアムには115000人が駆けつけ、太陽が照りつけ、うだるような条件の下で行われました。
ゲームは序盤からお互いが様子を見ながら、ときおり相手陣内にうって出るような省エネな感じでした。マラドーナはゲームを組み立てる時間が長く、ゴールに向かうまでには至りませんでした。それでもアシストに徹した彼の繰り出すパスにより、結果的には3対2で西ドイツに勝利しました。
後半も終わりかけ、みんなが試合結果を確信しようとしていたとき、意を決するように突然、彼はドリブルでドイツ・ゴールへ突入していきました。結果的にはディフェンスに倒され、ゴールにはなりませんでしたが、彼らしいプレーではありました。
ただ決勝戦の彼からはあまりガツガツ行く様子はありませんでした。この時代まではワールドカップ優勝チームは世界最強だと思えましたが、次のイタリア大会からはチャンピオン・チームよりも、アリゴ・サッキに率いられたACミランやヨハン・クライフの作り上げたFCバルセロナなどのクラブ・チームのほうが戦術的にモダンで力強く、躍動感のある楽しい試合を見せてくれるようになってきます。
このメキシコ大会では頂点に立ちましたが、アルゼンチン及びマラドーナの役割は基本的に悪役で、悲惨な結末とともに大会を去ることが多い。結局出られなかったアルゼンチン大会、ラフ・プレーへの報復行為で汚名を被せられたスペイン大会、猛烈なブーイングを浴びせられ続けたイタリア大会、ドーピングで逐われたアメリカ大会などほとんどが本人及び世界中のサッカー・ファンをがっかりさせる結果しか残せませんでした。
それでも彼を慕うプレーヤーやサッカー・ファンは世界中にいて、今でも彼のプレーを思い出し、若いファンに自慢をする。彼ら学生と話をするとき、ぼくは最初にテレビで見たスペイン大会やメキシコ大会、はじめて全試合をBSで見たイタリア大会、バッジョが大きくゴールを外したアメリカ大会、はじめて日本が出場したフランス大会以降を順々に話すことが多い。
食いついてくる人にはイタリア・セリエAの様子やクライフ時代のバルセロナの活力を話していく。そこにはトヨタ・カップでのジーコのプレー、ラウドルップを使いこなすプラティニと伝説的な彼のオフサイド・ゴール、ACミランのオランダ・トライアングルのレベルの高いプレーで締めていく。たぶん「うるさいおっちゃんやなあ…」と思われているのでしょうが、話し出したら止められないので勘弁して欲しい感じです。
総合評価 75点