『フィツカラルド』(1982)巨大な蒸気船を人力で山の頂上に運びあげる狂気。映画遺産です。
南米大陸を流れる大河、雄大なるアマゾン川をまるで『地獄の黙示録』のウィラード中尉のように、ただひたすらに遡ると、次にはとてつもなく深く険しいジャングルの密林を切り開き、そのまた頭上に高く聳える急斜面の山を越えた向こう岸に無尽蔵にあるゴム林を開拓して、オペラ劇場建設の資金を作るという天才バカボン並みの阿呆な道程を描いた作品です。
ただ普通の旅とは違い、アマゾンの自然と本来ならば相容れない文明の利器である巨大な蒸気船を、支配者階級であるヨーロッパの人間が首狩り族のインディオを使役し、機械力なしで、つまり彼らの人力でエイコラエイコラと滑車を作り、何百人もの原住民たちがひたすらにロープを引き続け、ついには山の頂上まで運び上げて行くのです。
ロケ地にはペルーとエクアドルが選ばれました。古代エジプトの巨大なピラミッドを作っていた時代ではなく、ほんの100年近く前の話です。このような、とんでもなくバカげたアイデアを実行に移して、ついに完成させてしまった作品が『フィツカラルド』でした。
フィツカラルドというのはフィッツジェラルドと発音できない原住民たちがクラウス・キンスキーにつけた愛称で彼は奇抜だが、人間味ある性格で、現地人からも好かれています。オペラをジャングルに持ってくるという発想は白人が原住民を教化するという上から目線の感覚が見え隠れする。
キンスキー自体は無邪気に自分が愛してやまないオペラを未開の民にも聴かせてあげようという純粋な気持ちで接しているが、彼らを下に見ているのも事実であろう。ただオペラを神格化しているわけではなく、歌えないサラ・ベルナールや金のためだけに南米に来る有名人たちを醜悪な人間として描いて、バランスを取ろうとしているようにも見える。
キンスキーの服装も象徴的で、彼は常に真っ白のスーツを身に纏い、ジャングルの奥地を進んでいく。おそらく純粋な人柄を表現したのかもしれません。
しかしながら、ヴェルナー・ヘルツォークはいったいこの頃は何を考えていたのだろうか。D・W・グリフィスが『イントレランス』を撮り、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムが『グリード』を撮っていた時代ならばともかく、時代はすでに1980年代の幕開けである。まったくもって、狂気の沙汰としか言いようがない。
よくぞこのような企画が通ったものです。狂気に満ちた、美しい映像がまるで幻のようにも見えてきます。ペルーの夜の街の喧騒すら幽玄なイメージを残す。アマゾンの緑は荒々しく、優しい自然などこの地に存在しないことを教えてくれる。
全編を通して見ていくとアマゾンの水がとても印象深い映画でもあります。ゆったりと流れる下流域は泥だらけで茶色になっている。難所では激流で、真っ黒な水がすべてを呑み込むような勢いで荒々しさを映し出す。朝焼けでキラキラと光る水面や夜のどす黒い大河はどれも魅力的で、生命力溢れる映像です。
その中を突き進む蒸気船モリー・アイーダ号は異質な雰囲気を振りまきながら、銃で脅す代わりにカルドーソのレコードやマスネの『マノン』の『夢の歌』を首狩り族に聴かせ、諸所のピンチを切り抜けていく。神話を見るような思いでした。
上映時間約160分のうち、クライマックスの蒸気船の山登りシーンが出てくるのは後半の120分くらいからで、頂上まで引き上げて、向こう岸に入水させるまでのシーンは映画ファンならば、一度は観ておく名シーンです。それまでは比較的ゆったりと進むので、その時間経過に耐えられない方もいるでしょうが、こういう作品も愛すべきでしょう。
本気でやると、こんな阿呆なことすらも崇高に見えてしまうのはなぜだろう。映画の魅力、映像の持つ大きな力を知っている者が作り出したフォトジェニックな奇跡の作品でした。劇場の大画面でしか真の姿を体感できない類の作品であり、ヘルツォーク特集が名画座で上映されるのであれば、なにはともあれ、優先的に見ておくべきでしょう。
ぼくの住む関西ならば、この作品を番組に掛けてくれそうなのは第七藝術劇場かシネヌーヴォ、または梅田ブルグくらいでしょうか。なぜ七十年代後半から八十年代前半の作品には『地獄の黙示録』『天国の門』『フィツカラルド』などの狂気の塊としか思えない映画が多いのだろうか。
許された時代だったから?皆が狂っていたから?答えは出ませんが、こういうのを劇場で観られたのは観客としては幸福だったのかもしれない。
157分という上映時間を長いと感じるか、ちょうど良いと感じるかは人それぞれだと思いますが、雄大なアイデアを語るには120分では短すぎる。この壮大なるアイデアの実現にはこの上映時間は必要だったのではないでしょうか。挿入されるオペラの名曲を楽しむにも、ゆったりと観るべき作品もある。
音楽も素晴らしい。まずは二日かけて筏で辿りついた先で聴くヴェルディ作の『エルナーニ』。このときカルドーソに指さされたキンスキーはオペラハウス建設を宿命と信じ込む。純粋な奇人、キンスキーだから成り立つ映画がこの『フィツカラルド』なのではないか。ミック・ジャガーなども主役のオファーを受けたそうですが、結局は尻込みしたのも無理はない。
キンスキーたちを白い宇宙船に乗った神の使いと思い込んだ首狩り族とともに急流に巻き込まれていくシーンでのドニゼッティ作の『ランメルモールのルチア』も印象深い。
蒸気船引き上げ及び着水まではまるでドキュメンタリーのような様相になっていて、丁寧に映し出しているが、いざ着水してから急流に呑み込まれていくまではとてもせわしくなってくる。急流シーンは本物の蒸気船ではなく、模型の船を使っている。
それまでのリアルな山登りシーンから一転しての模型使用には賛否両論あるでしょうが、この映画のクライマックスは山を切り開いての蒸気船引き上げですので、これで良かったのでしょう。実際にアマゾンの急流に蒸気船を流すとなるとさらなる労力と予算が必要になってきます。
ここまで作ったのならば、最後までやるという選択肢もあったでしょうが、本当に急流シーンを実際に撮影するとなれば、死傷者も出た可能性もあるので、当時の技術、つまり特撮なしの実写映像を組み合わせる方法では出来なかったのでしょう。
現在ならば、何でもCGで作りこめば、簡単に欲しい映像は作れるでしょうが、それは薄っぺらいものでしかなく、本物に敵う映像にはなりえない。
そして、イキタスの川がゆったりと流れる船上で、オペラ団を呼んで歌わせるときにはベッリーニ作の『清教徒』を選ぶ。リヒャルト・ワーグナーのドイツらしい血の臭いのするようなオペラを好まずにいるキンスキーはイタリア的なオペラの方が好みだったのかもしれません。
その他、キンスキーの蓄音機によって掛けられるオペラの数々も印象深い。現地の子どもたちと飼っているブタと聴く、レオンカヴァッロ作の『道化師』1幕の『衣装をつけろ』も長閑なようにも、見下しているようにも見える複雑なシーンでした。
船が登る時の『ボエーム』、着水時のヴェルディの『リゴレット』も美しい。オペラと蒸気船引き上げの力技が妙にマッチしていて、まったく違和感がない。
アマゾンに住む生物たちも豊富に撮られていて、繋ぎの映像として上手く使われています。大きなオウム、現地の猫、ジャングルの蛇、ライトに群がる虫たち、子どもと仲良しの黒ブタ、そして首狩り族の子どもが飼っているサルなどが記憶に残っています。
クラウス・キンスキーがいてこその映画ではありますが、イタリアの名女優、クラウディア・カルディナーレが演じた、女郎屋の女主人が活き活きしていて、輝いていたこと、女性の美しさがにじみ出ていてとても素晴らしかったことを付け加えておきます。もちろん、30代のような綺麗だったころには及びませんが、年齢相応以上の可愛らしさが良く出ていました。
『地獄の黙示録』のカーツ大佐は狂気でジャングルを殺伐と支配しようとしましたが、この映画でのフィツカラルドは狂気でジャングルにオペラハウスを建てようとした。自分が好きなオペラをみんなに聴かせたいがために百難を排して、わが夢を叶えようとする。
同じ狂気でも明るいそれと暗いそれがあるのだろうか。
総合評価 90点