『糧なき土地』(1932)衝撃的な作品を出し続けたブニュエルの三作目となるドキュメンタリー。
サイレント映画の全盛期からキャリアが始まり、常に問題作を世に送り出してきたスペインの巨匠、ルイス・ブニュエル監督作品で有名なのはサイレント時代の『アンダルシアの犬』、トーキー黎明期の『黄金時代』、そしてカラー作品の『昼顔』でしょうか。
これに付け加えるならば、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』などが挙がってくるのかもしれません。これまでここで取り上げてきたのも『アンダルシアの犬』『黄金時代』『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』でした。
しかし今回、記事にしたのはあまり上記の作品群ほどには知られていないモノクロ時代の、それも自身唯一のドキュメンタリー映画でもある『糧なき土地』です。ただこれを完全にドキュメンタリーと言ってしまって良いのか迷う部分もあります。厳密に言うと、この作品には作為的に映画らしく、観客の感情を揺さぶり、感情をコントロールしようとしている演出がかなり加えられているからです。
ブニュエルは今回ショッキングな映像演出として、やせ細ったロバに蜂蜜を塗りたくって、それをわざと蜂の大群に襲わせるシーンを撮影しています。またヤギが断崖から落ちてくるシーンも作為的と言わざるを得ない。
説明ではヤギは貴重で、病人に乳を飲ませるだけで、誤って落下してきたヤギのみを食用にするという趣旨のことが語られるが、明らかに猟銃で撃ち殺しているようにしか見えない。残酷シーンとしては鶏の雄鶏の頭を引きちぎる奇祭の様子も撮られるが、首を引きちぎられても羽根をバタバタさせている様子はかなり気持ち悪い。
ドキュメンタリーでは有り得ないシーンとして先ほど挙げた蜂の大群シーンと山羊を撃ち殺した場面が挙げられる。あのアングル、そしてあのタイミングで、つまりベスト・ポジションでの撮影を二か所同時に偶然行えるなどはヤラセ、言い方を変えると演出以外ではありえない。
まあ、あくまでもこれを今の基準では純粋なドキュメンタリーだとは言いがたいかもしれませんが、まだきっちりとドキュメンタリー映画の基準が定まっていない頃の作品なので、欲しい映像を誇張して撮影することもあったのでしょう。いまでもたまにヤラセ演出が問題になることもありますので、当時ならば特に大きな問題ではなかったのでしょう。
またブニュエルがこれを撮るに当たってはフランコ率いるファシスト党への反感や反権力思想が根底にあるようなので、彼にとっては国際社会への告発でも、当局にとっては都合の悪い国辱映画と受け取られてしまうこの作品は当然のように前作の『黄金時代』と同じように上映禁止となり、指名手配のオマケまでついてしまったので、彼は第二次大戦が終わる1946年まで映画製作が出来なくなってしまいました。
さきほどに戻りますが、動物たちを撮影のために殺すというのは現在の倫理観ではとても許されることのない演出方法ですが、規制というものは時代によってその対象が変わるようなあやふやなものです。彼は欲しい映像を得るためにはこれまでにも残酷な映像を取っており、表現のためならば、その手段を選ばなかったようですし、観客の反応すら気にしていない感すらある。
『アンダルシアの犬』や『黄金時代』の衝撃を超える驚きを見せるにはドキュメンタリー・タッチの演出は有効だったのでしょう。90%の事実と10%の脚色はフィクション映画の作り出す衝撃よりも、さらなる驚愕を生み出すのではないだろうか。
映像の力と影響を理解するブニュエルだからこそ成し得た境地だったのでしょう。この作品の上映時間はたった30分弱でしかない。しかし映画の力は上映時間の長さだけで測れるものではありません。編集の持って行き方は見る者に衝撃を与えます。彼が怒りの矛先はフランコら権力者であり、大地主らに対してだったのでしょう。
アラン・レネの『夜と霧』も同じくらいの上映時間であり、そのインパクトの大きさは今でも失われてはいません。そして何よりも見た者が驚くべきなのは映像そのものから得る衝撃以上に、この映画が撮られたのがアフリカや南米の貧困国ではなく、ヨーロッパでも指折りの誇り高い列強のひとつだったスペインでのつい70年ほど前の出来事であるということです。
先進国と呼ばれる国でも、その国内事情から、ある地方によっては歴史的な要因や地理的な要因、または宗教的理由によっては国内で国民が得られる平均的な保護すら受けられないという事実を明らかにしてしまう。
隠そうとしても隠しきれない現実をさらけ出してしまうのも映画なのです。貧困の原因は国外にあるのではなく、国内にも存在し、偏見や無知により差別は続いていく。それらがそこに住む人々にもたらすのは飢餓・貧困・病気・無知・近親婚・不衛生などさまざまな生き地獄です。
貧困な彼らはわずかな援助である生活保護を受けるためだけに近隣の孤児を引き取り、育てるという名目でお金を得ようとしますが、最低の生活水準のため死亡する子どもが多かったためか、この地域での孤児を引き取るという“産業”は禁止されてしまう。
作品中には子どもたちの悲惨な生活環境が映し出され、多くの子どもが飢餓や貧困、病気に苦しみ、結果として死んでいく様子がフィルムに収められている。ジャケットとなっている少女も病に犯され、撮影の二日後に亡くなったという。栄養状態が最悪なため、病気は治らず、障害者もかなり多い。
この土地に住む者たちにとっての人生は日々をただ死というお迎えを待つだけの何の希望もない時間の繋がりでしかないようです。たった28分間のなかで、多くの死者や病人がフィルムに記録されています。彼らがどういう人生を送り、どういう死に方をその後していくのかは分かりませんが、幸運が訪れるようには見えません。
この国では夢を見ることが難しくなってきていると嘆かれますが、そんな甘っちょろい言葉をこの映画を見てからでも平気で言えるのだろうか。
このラス・ウルデスの土地はポルトガルとの国境近くの厳しい環境の山岳地帯に位置していて、しかも彼らは中世の迫害を逃れてきたユダヤ人を祖先に持つという境遇なのでした。今では考えられないような迫害を受けてきた歴史を持つユダヤ人や黒人にはわれわれ日本人には理解できない悲惨な過去があります。
マドリードもスペインの街であり、ラス・ウルデスもスペインにあります。バルセロナも今でこそ自由を取り戻しましたが、フランコ時代には言語まで奪われる不自由な生活を強いられました。
まだこのような差別を受けてから、かの国は100年も経ってはいない。他人事とは思わない想像力が求められるのではないか。淡々と冷静にブニュエルらが見てきたことをアベル・ジャクァンがナレーションしている。ブラームスの『第四交響曲』がバックに流されるのですが、ブラームスの音楽がこれほど深刻に聴こえたのは初めてでした。
だいたい何が異様に感じるかというと、この映画の“音”はすべて後付けのナレーションとブラームスの音楽のみで、ラス・ウルデスでの現場音がまったくないということなのです。編集された映像だけで当地の悲惨さがはっきりと、そしてあまりにも強く伝わってきます。冒頭での何気ないナレーションのひとことは「この土地では一度も歌を聴かなかった…。」と述べていました。スタッフもこの土地の異様さを感じていた証拠なのではないでしょうか。
総合評価 90点