良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『黄金時代』(1932)上映中、スクリーンに爆弾を投げられた、衝撃の映画。

 ルイス・ブニュエル監督がシュール・レアリズムの代表的芸術家であるサルヴァトーレ・ダリと組んで発表した『アンダルシアの犬』に続いて、コンビを組んだ第二回監督作品として発表したのが『黄金時代』です。ただダリはすぐに制作から手を引いてしまったので、実際にはこの映画ではブニュエルの個性が強く出ています。  第一回監督作品『アンダルシアの犬』で見せた強烈な映像イメージは今回も健在で、彼独特の世界観を存分に味わえます。一応は核となるストーリー展開がありますが、あちこちに理解不能に陥る映像が見る者に待ち受けている。ルイス・ブニュエルの世界観を完全に捉えようとするのは無謀に思える。  よって、見る者はブニュエルが配置した映像ひとつひとつを理解しようとして、カット毎につっかえて、いつまでもそのイメージに拘ってしまうよりは自分が一つ一つの映像から、どのような感覚を見た瞬間に受け取るかが大切なのではないでしょうか。
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 映画は映像だけではなく、音響を含めた音楽で目と感情に染み込んでくる芸術です。この映画が作られた1930年はずっと続いたサイレント期が幕を下ろし、トーキーに移行していった時期であります。試行錯誤であったであろう時期にすでにこれほど上手く、音響と音楽を意識して使っていたことは驚きです。まずは小さな理解不能点であると思えるカット(つまり映像)だけに紛らわされずに、音も含めた映画という全体像を見ていきたい。  細部に拘るなと言っているわけではありません。細部に多くの仕掛けがありますので、理解するに越したことはないのですが、まずは大きく対象を捉えたほうがこの映画は何度も楽しめます。毎日多くの映画に接していると、ついつい同じ映画を何度も見るという楽しみを忘れがちになってきます。  この映画は一度見られた後はもう二度と顧みられないという鑑賞スタンスを拒む映画なのです。何度も見て、その不思議な魅力が目と感性に沁みこんでくる映画なのだと思います。こういう視点を持った上で見ていくとさらに楽しめるかもしれません。
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 冒頭にサソリの生態を語るドキュメンタリーを挿入しているのは何故か。観る人はサソリの激しい闘争本能とネズミにすら襲い掛かっていく狂気の攻撃性を見せられる。自分よりも何倍の大きさを持つネズミにでも立ち向かっていくサソリの闘争本能はぞっとするが、自らの存在意義が攻撃にあるという生き方は美しくもある。  実はこのシーンにこの映画で全編を通して描かれる、報われない情欲の激しさと他者への攻撃性というテーマのうちのひとつが出ているように思う。モノクロ映像で淡々と語られるドキュメンタリーのバックではサソリの激しく、そして刹那的で本能的な生き様と死に様が描かれる。
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 一連のオープニングが終わると、何の関係もなく、突然に山賊の死のストーリーが始まっていく。ふらふらになって歩いていた山賊の1人は断崖絶壁の岩場で、きらびやかな装束を纏った司教たちがミサを行っている姿を目撃する。不気味な経典を唱える彼らには死の臭いがしている。このシーンはこの映画で観客たちをブニュエルの世界へ引き込んでいく導入部として素晴らしく機能しています。  最初に山賊が司教たちを見たとき、彼らは生きている姿であったが、次に現れたときには骸骨に変化している。山賊のように欲望のままに生きる者には宗教は無意味でしかない。司教たちには彼ら山賊は見えていたのだろうか。本来であれば、悪に身を落とした者にこそ、宗教による救済が必要であるはずですが、司教たちには下々の者は目に映らないようだ。
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 ただこの骸骨化した司教たちの姿はおそらく形骸化し、中身をすでに失ってしまっているキリスト教への批判とも受け取れるので、敬虔なクリスチャンの多い地域ではスキャンダラスで、容認しがたい映像であるともいえます。この映画には多くの宗教を侮辱したようなシーンがあります。  これもそのひとつです。ただ皮肉たっぷりなブラック・ジョークの笑いを容認できないムードが当時はまだスペインだけに留まらず、世界中を覆っていたでしょうから、批判の矢面に立ったのはある意味、確信犯的とも言えるのかもしれません。王制も含めた権威への反発から出てきたシーンなのだと思われますが、1930年代という第一次大戦と第二次大戦による激動の前後という微妙な状況ではこの表現はまだ早すぎたのかもしれません。
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 いきなりショッキングな映像と肩透かしを喰らわされた観客はここですでに困惑してしまうかもしれません。逃亡生活が長すぎたためか、活気だけでなく、もはや悪の形相すらすでに失っている山賊たちは死の歩みを始め、灼熱の太陽の下で、次々と死に絶える。  救いを得られなかった山賊たちは死の逃避行を重ねた末に、一人ずつ死に絶えていく。また司教たちも骸骨の姿のまま、海を渡ってきた信者たちとのミサに臨む。しかしこのミサも愛し合う男女の前では無力である。司教たちは本当に骸骨なのだろうか。  若い彼らは引き裂かれ、男は市内を引き回された上で、裁判を受ける。情事の邪魔をされ、欲望を遂げられなかった男によって引き起こされる暴力が凄まじい。子犬を力いっぱい蹴り上げ、昆虫を踏み潰し、盲人を蹴り倒してタクシーを奪い取る。人権擁護団体の国家代表という地位を乱用しながら、己の欲望を果たしていく様子からは人権を重視するという姿勢はかけらも見えない。人間の本質は悪であるということへのブニュエルのメッセージだろうか。
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 その後もパーティ会場で老婦人を張り倒したり、恩を受けたはずの総務大臣を殺したり(殺された彼は天井に張り付いている。)、女の住んでいる邸宅に火を放ったり、僧侶や麒麟(なんで?)を高所から突き落としたりと暴力の限りを尽くす。総務大臣が本国で多くの民衆の襲撃を受けるシーンでの多くの人々が彼の住む城への突入はモブ・シーンとして迫力がありました。  一方、女のほうは情欲に身を任せ、まずは排泄の快感を味わう。彼女の快感の表情とそれに続くマグマの映像。しかしマグマは糞尿のようにしか見えない。トイレット・ペーパーは海藻で出来ていて、観る者を混乱させるが、その混乱は水洗便所のフラッシュ音で我に返らされるので、そこでいったん終了する。  性欲よりも排泄欲のほうが上位に来るのは当然ではあるが、映画でそれを見せたのは初めてではないだろうか。マグマが表すのは生命の起源だろうか、海藻が繁る海底もまた、生命の起源である。
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 男への愛欲の代償行為として、男性をモデルにした彫像の足の親指をエロチックにしゃぶりつくす。足の指にしゃぶりつく彼女の表情と交互にインサートされる彫像の顔のアップからはどうみても男性器を愛撫する様子を想像するでしょう。ついに男との再会を果たした女は互いの指をしゃぶりつくす。すると指は無くなってしまう。際限のない性欲の果てにあるのは自滅であろうか。  ほかにも印象に残るシーンがいくつかあります。ある青年はパーティ会場の花畑の前で、近所の子どもと遊んでいたのに、子どもがふざけて青年が大切にしていたものを壊し、さらにふざけた態度をとっているのに腹を立てる。青年は子どもを猟銃で射殺し、さらにその死体の腕に発砲してしまうショッキングなシーン。そしてパーティ会場で給仕をしていたメイドが火に包まれて、死に絶えようとしているのに誰も助けようともせずに、談笑にふけるシーン。  他人のことなどお構いなしという上流階級の人々の非人情な態度を映し出す。ブニュエルは宗教だけではなく、既得権益を持っていて、それを振りかざす上流階級や政治家、あるいは圧力団体への憎悪を持っていたのでしょうか。女の家のベッドに横たわっているのが人間ではなく牛であり、パーティ会場を闊歩するのが二頭立ての馬車だったりするのはそれらの階級の人々へのブラックな皮肉でしょうが、こういった悪意のあるジョークは当時のスペインで受けたのだろうか。
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 そして最後にこの映画でもっとも問題視されたシーンに移っていきます。サド侯爵の城(?)で、乱痴気騒ぎをしている参加者たちのひとりは仮装でキリストの格好をしている。呆けたようなぼんやりとした顔で徘徊する彼は若い女を見つけ、ともに城内の扉に消えていく。  しばらくすると彼女の叫び声が聞こえてくるが、出てきたのはキリストの扮装をした男だけだった。明らかに彼が殺害したように見える。画面は転換し、十字架(ゴルゴダの丘なのか、それともこの参加者へ死刑が執行されたのかは不明。)が映し出され、パロディのようなふざけた音楽とともに唐突に映画が終了する。  このシーンをはじめとして宗教を侮辱する多くのシーンが原因となり、ブニュエルは右翼、宗教関係者、政府からにらまれ、過激な右翼は劇場のスクリーンに向かって、爆弾を投げつける騒ぎを起こし、この素晴らしい出来栄えの映画はスペインでの上映を50年近くも禁止されることとなった。
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 ブニュエルが批判したのは形骸化した宗教であって、信仰心ではないと思えるのだが、実際に話すことは出来ないのでなんともいえません。無神論者であることが明らかになってから、彼は仕事をしにくくなっていきましたが、あくまでも中身を失った宗教なのではないだろうか。  宗教批判で有名なこの映画ですが、個人的に興味深いのが音楽の使い方です。音楽はロマンチックなクラシックが用いられ、そのうちのひとつであるワーグナーの『トリスタンとイゾルテ』が特に印象深い。メインテーマとして機能していて、結ばれない愛をよく表しています。主人公の男がついに怒りの頂点に達し、破滅的な行動をとる、まさにその瞬間には民族音楽で使われているような素朴だが力強い太鼓が鳴り響き、それはラストシークエンスまでずっと続いていく。  先にも述べました司教の経典といい、このトーキー黎明期に、この完成度はいったい何なのだろうか。映像と音楽が相互に作品の質を盛り上げていく。映画とはこうあるべきという好例となっています。音楽と映像の相乗的な効果だけではなく、違和感のある音と映像を組み合わせることにより、よりお互いの差異が際立つ対位法的な使い方もすでになされている。
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 ブニュエルに関しましてはよく理解不能な映像シークエンスや無神論者的な宗教批判ばかりが評判になっていたようですが、音の使い方の妙にも、もっとスポットを当てるべきではないでしょうか。もちろん映像の力強さは桁違いなのですが、そこだけではない部分があるからこそ、ずっと多くのファンの心を離さないのでしょう。  暴力、不寛容、宗教批判、権威への批判、ブラック・ジョーク、エロス、映像と音楽のリンクなど、この映画にはトーキーが持っている可能性を追求しようとする意志と今でも繰り返し使われるテーマが詰め込まれています。 総合評価 88点