良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『小間使の日記』(1963)フェティシズムを映像で表現した、ブニュエル後期の名作。

 ルイス・ブニュエル監督作品のなかでは難解なものという括りでいうとスペイン時代、分かりやすいのはフランス時代、そしてその中間となっているのがメキシコ時代の監督作品群であろうか。各々の時代にブニュエルの意志があり、フィルモグラフィとして残されたものはとても重要な価値のある作品ばかりである。  そのなかで、もっとも有名な映画と言われれば、100人中、ほとんどの人は『アンダルシアの犬』を挙げるのでしょう。後期の映画をよく見ていた人ならば、『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』の印象が深いのでしょうか。個人的には『黄金時代』『糧なき土地』、そしてこの『小間使いの日記』となります。
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 ジャンヌ・モローの魅力がこの映画に与えているのはまずはその美しさであろう。しかしそれだけではない。彼女の持っている気だるい雰囲気とブニュエルの歪んだ、しかも卓越した芸術性が融合すると、このようなヨーロッパ的な映画が出来上がる。都会的なずるがしこさと聡明さを同時に表現できるジャンヌの美貌とブニュエルの性的に歪んだ美意識と反権威主義、これが上手く機能したのがこのフィルムでしょう。  なによりも素晴らしいのはブニュエル監督の円熟の演出でしょう。冒頭の列車から始まるオープニング・ショットを見るだけでも彼の才能、とりわけ視点の選択の正しさを味わえる。列車がフランスの片田舎に到着しようとしているのですが、一連の列車シーンはすべて客車内のジャンヌ・モローの視点ショットで映し出されているのです。
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 窓越しに見る田舎の森の風景、鉄橋通過時、そして駅への到着までをすべて彼女の視点で撮っています。それがどういう意味を持つのかと申しますと、凡庸な監督であれば、下世話に車外から列車全体を捉えたり、斜め前方からのカットを入れたりすることが非常に多くなります。  しかしこのようなショットを選択した場合、二つの失敗が発生します。まずは外や上から対象を捉えると、本来列車が持っている重厚なスピード感が無くなり、高速の列車がちっぽけな対象に成り下がってしまうことです。そして第二はあちこちに視点が飛ばされることにより、観客がフィルムに集中しようとするのを妨害してしまい、醒めた目で作品に接してしまう危険性が出てくるということなのです。ちょっとしたことですが、こうしたことの繰り返しによって、楽しめるか、そうでないかが分かれてしまうこともあるのです。  さすがにブニュエルがこうしたミスを犯すはずも無く、観客もジャンヌと一緒に作品世界へ連れて行かれます。こういう作品世界への着地をしてもらえますと、あとはジャンヌらの秘密を覗き見する特権が観客に与えられます。これ以外にも引き画から道路のアスファルトへ画面を転換し、その後カメラをティルトして仰角で馬車に乗るジャンヌらを捉えていくことにより、自然にカットを割っていく。ブニュエルにとっては何気ないテクニックなのでしょうが、不自然な切り替えを強いられているのがほとんどなので、そのテクニックにゾクゾクしてきました。
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 たとえば。猟銃の使い方を説明するために、花の蜜を吸っている蝶々や蜜蜂に狙いを定め、実弾を発射する。残酷ではありますが、過去にも『黄金時代』で犬を蹴飛ばし、黄金虫を踏み潰したり、『糧なき土地』では驢馬に蜂蜜を塗りたくり、蜂の大群に襲わせました。この作品ではアヒルも生きたまま殺されます。鋭い錐状のモノで刺され、苦しみ、断末魔の声を上げています。  このように、またもやブニュエルは弱いものの生命を無慈悲に摘み取りました。現在では動物愛護の精神が定着しているので、このような残虐描写は認められないでしょう。性描写といい、動物虐待シーンといい、常に彼の作品中では死のイメージがどこかしらに描かれている印象があります。  それはさておき、花の並木道を挟んで対峙する屋敷の主人(画面左側に配置)と息子の若旦那(同じく右側)。主人は彼と話し終えると並木道を横切り、右の方へ移動してきて、最後には右のオフ・スクリーンへと消えていく。一方の若旦那は並木道を左に横切ったあと、画面奥へと移動していく。つまり並木道を起点に、どうしても枠を感じさせて、映画の弱点ともなりがちな縦(上下)と横(左右)を広くしていくのです。  これらのシーンはとりわけ重要な意味を持つシーンではありません。それでもこれだけの卓越した演出を見せてくれるのです。もちろん重要なシーンにはさらに目に焼きつく映像を提供してくれました。なかでもフェチシズム描写の淫靡さは尋常ではない。
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 ジャンヌにブーツを履かせて、それを撫で回す老主人の変態的な性癖を表現したシーンはまさに映画でしか表現できない名シーンのひとつです。このシーンの凄みは老主人がブーツを撫で回すときに、ジャンヌが彼を見下すような目をしていることに気づいた老主人がそれでもこういった行為を止められない点にある。普通ならすぐに止めて、怒鳴り散らすか、急に威厳を保とうとしたりするところですが、そうしないことにより、ぐっと深みが増してくる。  下男による少女強姦殺人が行われる森の描写も病的な美意識が遺憾なく発揮される。フランスの田舎の美しく、深い森の映像を見せた後に、野うさぎ、いのしし、そしてカタツムリの生を謳歌している映像を映し出す。死に絶えようとしている少女と罪の無い動物たち。彼らとは対照的な下男の薄汚さと邪悪さを引き立てています。ずっと前に観た『狩人の夜』を思い出しました。  のちのち、このなかのカタツムリは重要な意味を持ちます。何匹ものカタツムリが殺された少女の太ももを這い回るシーンは悪夢の映像といえます。悪趣味であるが、フェティシズムロリコン趣味を持つ人が見るとゾクゾクするのかもしれません。こういった映像を撮れるということはブニュエルにもそういう性的嗜好があったのでしょうか。
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 もちろん、ただただ性的な嗜好のみに奔るだけではなく、左右両陣営に関係なく向けられる政治運動自体への不信、拝金主義に落ちぶれてしまっている宗教への批判、無意味に日々を過ごすブルジョアへの敵意は健在で、これら権威への敵意を表明するシーンは性的嗜好シーンと交互に訪れてくる。反権威とエロティックをバランスよく、作品に取り入れていくからこそ、彼の作品は異様な輝きを今でも放っているのであろう。  登場人物を見ていくと、男性陣は靴フェチの老主人、見境無く小間使いや使用人を孕ます若旦那、権威と利権を振りかざす隣家の下級将校、粗野で性欲旺盛な下男など、どいつもこいつも身分に関係なく、自分本位のセックスにしか興味が無い下卑た連中ばかりである。  一方、女たちはどうかというと、まずは性欲旺盛な若旦那に付き合いきれない奥方、数人の小間使いたち、将校の恋人であった中年女、下男に強姦されてから殺されてしまう少女、そしてパリからやってきた都会育ちのジャンヌという面々です。
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 ストーリーは基本的にジャンヌの冷静な視点で語られていくが、彼女はかなりしたたかに男たちを手玉にとっていく。ただ結果として、下級将校と一度結婚した後に、最後に強姦殺人犯である下男と結婚し、シュルプールでバーの女将に納まっているのはなんとも不可解ではありました。  下男をいったんは殺人犯に仕立て上げた張本人である彼女がいったい何故彼とともに暮らすようになったのかがどうもよく分からない。このへんは語られることも無く、作品が閉じられるので、謎のままです。
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 この下男は殺人犯として警察に逮捕される前までは左翼思想グループと話をしていたのに、シュルプールへ行くと突然移民に反対するファシズムのパレードに歓声を上げる。一般庶民にとっては政治運動などは慰み物に過ぎず、そのときそのときの社会のムードによって、どちらにでも転びますよというブニュエルのメッセージだったのでしょうか。  この映画のラストシーンはファシズムの行進が町の中心地から徐々に遠ざかっていく様子を3カットに分けて表現して終わります。ファシズム(政治の流行)も所詮ムードのひとつであって、長続きはしないということを伝えたかったのだろうか。無神論者であるブニュエルが信じたものはいったいなんだったのだろうか。 総合評価 92点