良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『リラの門』(1957)思い出の映画。当時、ぼくは9歳。フランス語をしゃべる女性はセクシーでした。

 映画ファンであるならば、誰にでも特別な一本の映画があります。親と初めて観に行った映画だったり、何度も繰り返し見た映画だったり、恋人と初めて観に行った映画だったりします。映画ファンの数だけ、そういった思い出はさまざまでしょう。ぼくにとってはこの『リラの門』はそうした思い出の映画のひとつです。  ではどういった思い出であったかというと、それは第一には字幕版という括りで覚えている、もっとも古い映画がこれだったのです。1970年代だったと記憶していますが、NHKか民放の夕方か夜だったかは覚えていないのですが、吹き替えではなくて、フランス語の音声で、日本語字幕の付いていた放送がありました。  吹き替えが当たり前だった頃に、何気なく見たその放送後、僕の中で映画の認識というか、言葉の重みを考えるきっかけになりました。外国の俳優たちが言葉に魂をこめて演じている姿を見てしまうと、違う人が放送用につけるアフレコというものに、どうしても違和感を持つようになったのです。  そうはいっても、当時はほとんどが吹き替えでしたので、名作と呼ばれている映画で音声が日本語に替えられていると、どうしても本来の雰囲気が失われているように思いました。声優さんたちのせいではなく、こうやって、吹き替えをする習慣自体がおかしいのではないかとぼんやりと感じておりました。  映画監督や出演者たちは当然ながら彼らの言葉で作品を制作しますが、そこには外国人には分かりづらいジョークや言い回しや韻のリズムなどがひとつひとつの台詞に盛り込まれています。しかしながらこういった要素やニュアンスは吹き替えという作業を通すと残念ながら、消えてなくなってしまう。これは大きな損害ではないだろうか。  正しい英語やフランス語の発音や言い回しなどを身に着けるためにも、そろそろ地上波でも吹き替えという作業を止めにして、原語のまま字幕をつけて放送してはどうだろうか。こういうことを言うと、「じゃあ、子どもが楽しめなくなってしまうじゃないか!」とか言う人が出てくるでしょう。
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 しかし、そもそもなんでもかんでも子供用にする必要性などない。分からなければ、分かるように親が教育すればいいだけです。親が出来ないのならば、親が勉強すれば良い。至れり尽くせりが生み出すのは無気力と無能であり、そんなものは親切ではありません。  テレビ局側も、こうした少数の意見ばかりに囚われて、大多数の人々が本来の原語に触れる機会を失ってしまうことの意味を考えるべきです。いつまでもこのような状態では原語への関心に甚大な損害を生じる。現実に出演している俳優たちは英語やフランス語で話しているのです。意味を知らせる字幕をつけておけば、本当の声を聞けるのです。またこれは聴覚障害者にとっても歓迎すべきことではないでしょうか。  これからは地デジ放送がスタートするわけですから、データ放送の仕組みを上手く利用して、字幕を見たい人は字幕版を、吹き替えを見たい人は吹き替えを選択できるようにすれば、上手い具合に視聴者が選択できるのではないでしょうか。  幼少期に見た、この映画の思い出はなんといってもマリア役を務めたダニー・カレルがジュジュ(ピエール・ブラッスール)の名前を呼ぶときのなんともいえないフランス語の甘い響きでした。はじめて「女」を意識したのが彼女の、というよりはフランス語での語りでした。子どもながらに「色っぽいなあ…。」とクレヨンしんちゃんのようにドキッとしたのを覚えています。
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 しかしこのときはあまり内容を理解できなくて、そのまま時も過ぎ、30年近くが過ぎていきました。そしてなんとなく映画を観ていたときに、ふっとこの映画のことを思ったのです。当然ながら、タイトルなど知るはずも無く、覚えているのはフランス語であったこと、ジュジュという人物が出てくること、そして彼が殺人を犯すこと、モノクロ映画であったことくらいでした。  そこで劇的な効果を発揮したのが皆さんご存知のグーグルでした。上記のキーワードを入れて、検索をスタートしたところ、ついに30年間分からなかったタイトルが分かったのです。それが『リラの門』でした。ぼくはすぐに行きつけのツタヤ心斎橋店の4階に駆け上がり、このフランス映画を探しまくりました。そしてとうとうフランス映画コーナーにて見つけ出しました。  すぐに借りて、古いVHSテープをデッキに挿入し、ついに30年ぶりにこの映画を見ることが叶いました。そのまま思い出に浸りながら観るのも良かったのでしょうが、そこは映画ファン。ついつい、いつものように演出やらなんやらに目が行ってしまい、没頭するという感じにはなりませんでした。  その代わり、改めて見たこの映画の凄みに驚かされました。まずはその構図の妙や音の使い方です。この映画のオープニングは、ジュジュがバーで飲んだくれているシーンで始まるのですが、カウンターとジュジュを捉えているバックでギターで奏でられる気だるい曲がかかっているのです。  てっきりBGMだと思い、油断していたら、カメラがジュジュで隠れていた、店の奥のほうへ動きながら回っていくと、彼の大きな背中の背後で、芸術家がギターを弾いていたのです。何気ないし、なんとも思わない人の方が大多数でしょうが、こうしたケレンミたっぷりの表現にまずは目を刺激されました。  次に感心したのはワンシーン・ワンカットで一気に撮り切った、殺人事件の再現シーンです。これは本当に素晴らしいシーンなので、機会があれば、是非ご覧ください。具体的に説明していきますと、バーの主人(マリアの父役)による新聞の音読に合わせるかのように、外で遊んでいる子どもたちが同じシーンを再現していくのです。
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 子どもたちは外で無邪気に遊んでいる設定なのですが、見事に主人の新聞読みと彼らの動きがシンクロしています。相当なリハーサルと根気を持って作り上げられたシーンだと思います。しかもそれを誇示せずにさり気なくやり遂げている。  子どもたちを撮るカメラは左右の動きだけを行いますが、子どもたちが左から右、右から左、そして建物に出たり入ったりを繰り返すので、構図の中でかなり大きな動きのあるシーンに仕上がっています。映画でのカメラの動きというと、とかく無駄な個性の発露が邪魔になりますが、ここでのカメラの動きのシンプルさと演技のシンクロと複雑さによって、最も素晴らしいシーンのひとつとなっています。  またバーで新聞を読んでいるときに、犯人が図々しくも大胆に入ってくるのですが、彼をかくまっている人々のみが愕然とし、動揺している中で、犯人本人と周りの人たちが誰一人気づいていない様子がコミカルでもあり、サスペンスフルでもあり、秀逸な名シーンになっています。  他に興味を持ったのはジュジュの価値観でした。何の関係もない凶悪な強盗殺人犯であるアンリ・ヴィダル(バルビエ役)を何ヶ月も匿い、ご飯を食べさせ、逃亡を手伝う。しかも秘かにジュジュが想っていたマリアをバルビエに奪われても、彼女が喜んでいるので、自分の気持ちを抑え込み、彼らに尽くし続ける。最後にバルビエが彼女を玩んでいただけだと分かったときになって、ようやく彼女の気持ちを大切にするために彼を殺害する。  何が一番大事かというのを考えさせてくれる一本でした。監督はルネ・クレール。忘れられない一本でしたが、これからも一生忘れることのない素晴らしい映画であることを再認識させてくれました。  総合評価 90点