『グレイテスト・ショーマン』(2018)超ロングラン上映作品。イイですよ!
ずっと時間が合わず、なかなか観に来ることが出来なかった作品をようやく映画館で見てきました。ヒュー・ジャックマンというとどうしてもウルヴァリンのイメージが強烈過ぎて、他の作品が霞んでしまいますが、この作品での彼の存在感は圧倒的です。
今では描くこと自体が難しくなってしまったフリークスが大挙出演するだけでも異色作と言える。大昔のハリウッド映画には悪名高き『フリークス(怪物團)』があり、見世物映画の極北として映画史にも出てきます。
わざわざ物議を醸すかもしれないテーマをどう描いたのかに興味があり、足を運びました。やたらとヒューマニズムにあふれていたり、過酷さを甘いオブラートに包んだだけのフィクションなのかを見極めたい。
1日1回上映なのでたぶんリピーターばかりなのでしょうが、20人以上も集まってきたので驚きました。奈良の田舎では下手を打つと公開から10日も経つとガラガラというのが珍しくない。
映画の上映が始まり、これが苦手なミュージカルだということに気づきましたが、もう手遅れなので、どうせなら楽しもうと心に決めて、作品に接しました。
ストーリーは単純明快で貧しかったジャックマン少年がお屋敷の令嬢と恋に落ち、結婚して成り上がるために近所からかき集めたフリークスの見世物小屋を立ち上げる。
新聞や地元住民と揉めながらも成金のお金持ちになるも、名誉を求めて欧州の本格派のオペラ歌手を手がけるまで出世するも、歌手のお誘いに乗らなかったために逃げられ、見世物小屋も放火されて破産する。
嫁にも逃げられ、銀行の融資が滞り、行きどころがなくなった彼に残ったのはフリークスたちと相棒だけで火事で劇場という不動産を無くした彼らは波止場のテント興行に活路を見出す。
だいたいこんな流れです。見どころは派手でカッコよいサーカスシーンや各自の見せ場で感情を吐露する音楽の使われ方が第一でしょう。
見ていて、何故かイギリスのバンド、クイーンのライブを思い出しました。おそらく足を踏み鳴らす感じが『ウィー・ウィル・ロック・ユー』みたいだったからかもしれません。もう一つ思い出したのはフェデリコ・フェリーニでした。サーカス好きの彼ならば、たぶん喜んで見たでしょう。
風の使い方も楽しく、ジャックマンが嫁(ミシェル・ウィリアムズ)を持ち上げた時に風が舞い上がって、爪先と同じ角度で上がる演出は楽しく見ていました。
また、後半に孤独な嫁が風がたなびく様子からジャックマンが帰宅したのかと勘違いする演出も興味深い。主な出演者が一定の成功を収める中、悠々と象にまたがって伝統ある劇場に到着したジャックマンは家族で一人娘がバレエの晴れ舞台を観覧する。
彼女が舞台に立つとき、観客の視線は中央で舞い踊る少女に注がれる。僕らは頑張った娘さんがついに真ん中を勝ち取ったのだと思いました。
しかしながらカメラは次第に端っこに移っていき、動かない白樺のような木の役でバレエなのに躍動感なく、ただ立っているだけのさびしそうな少女を映し出す。
それが彼らの一人娘でした。なんだかビターテイストな結末に驚きましたが、現実味が一気に上がるシーンでもあります。
ミュージカル映画で劇場まで観に行ったのは『ラ・ラ・ランド』以来でしたが、あちらよりもこの作品の方が人間臭さが描かれていて良い。
オペラ歌手の公演で成功を収めたジャックマンが打ち上げのパーティを行った際、華やかな場には不釣り合いと判断した彼がフリークスたちを隅っこへと追いやろうとしたシーンからはあくまでも見世物としてしか彼らを見ていない傲慢さが隠せない。
同じく公演でVIP席に座ろうとしたフリークスたちを目立つからという理由で立見席に追いやったシーンなどからは差別意識が顔を出してきます。
ただそのような差別行動を受けても、行き場のないフリークスたちは結局は彼を支える側に立ち、ふたたびテントでの興行に参加する。人権を考えろと言う側はリベラル派でしょうが、彼らの傲慢さは良いことをしている自分たちは優れているのだというイヤらしさです。
内心では差別をしていても、きちんと収入を与えるジャックマン側と見世物小屋を批判するだけで彼らに仕事を与えない人権派や人種差別者たちとではどちらがマシなのだろうか。
ミュージカル映画の花形は踊りながらの歌唱シーンでしょうが、普通にオペラシーンでレベッカ・ファーガソン(ジェニー・リンド役。ローレン・オルレッドによる吹き替え)が正装してステージで熱唱する『ネヴァー・イナフ』が一番印象的でしたが、本人歌唱ではないので違和感はありました。
モデルになった興行師P・T・バーナムが今の価値観、つまりフリークスと呼ばれる人々への福祉を考えていたとは考えにくく、ただ見世物として使っただけだろうが、さきほど書いたように批判だけしていても収入は得られないので何とも言い難い。
劇中でハッピーエンドを迎えないのは嫁の両親とバレエを頑張ったが役柄を得られなかった一人娘でしたが、これは苛烈な運命が待っていたであろうフリークスたちの老後を描くのはあまりにも映画向きではなかったからだろうか。
そういう意味ではハリウッドの娯楽コードに適応させるにはこれぐらいの表現が限界だったのだろうなあと思い巡らせていました。出来れば、これと『フリークス』を同時上映するくらいの度量があれば、当時の感覚で彼らをどう捉えていたのかが分かるのではないか。
映画で見世物小屋を再現しただけの『フリークス(怪物團)』に対し、今の価値観で見ると自分が容姿だけで差別するか、ダイバーシティ的にどうだろうとか、あれやこれや考えますが、おそらくは何も考えずにセンセーショナルな取り上げ方をされることで興行成績を上げようとしただけだろう。
総合評価 88点