『ゲームの規則』(1939)カイエが見つけ出すまでずっと埋もれていた傑作シニカル・コメディ。
先週のお休みの日に、ここ10年間で無造作に放置したまま、たまりに貯まったDVDをいい加減に整理しようと決心し、CSやWOWOWメインで録画してある4000タイトル以上はあるDVDやブルーレイをとりあえず洋画と邦画に分けました。
次に五十音順で部屋の中に積み上げていきますと、6割弱が洋画で占められていたので、こちらをメインに片付けていくことにしました。ただ、五十音順だけではさすがに分かりにくいので、複数に渡る場合は先に監督別にまとめていくことにして、リストアップしていきました。
並べてみると、脈絡がなく、われながら雑食性の映画好きだなあというのが実感できました。まあ、いまだにミュージカルは苦手分野ではありますが、フレッド・アステアやジーン・ケリーのものは楽しめるようになりました。
アルフレッド・ヒッチコック(60本近く)、フェデリコ・フェリーニ、スティーブン・スピルバーグ、スタンリー・キューブリック、ジャン=リュック・ゴダール、ビリー・ワイルダー、エルンスト・ルビッチ、イングマール・ベルイマン、フリッツ・ラング、D・W・グリフィス、ロベール・ブレッソン、F・W・ムルナウ、ブライアン・デ・パルマ、ルイ・マル、フランシス・フォード・コッポラ、ウォルト・ディズニー。すでにこれだけで300近くになり、えらい数になっております。
まだまだ続きます。フランソワ・トリュフォー、ジャン=ピエール・メルヴィル、アンドレイ・タルコフスキー、チャーリー・チャップリン、ハワード・ホークス、ルイス・ブニュエル、クエンティン・タランティーノ、ルキノ・ヴィスコンティ、マーティン・スコセッシ、サタジット・レイ、セルゲイ・エイゼンシュテイン、オーソン・ウェルズ。
邦画も分けねばいけません。小津安二郎、溝口健ニ、黒澤明、成瀬巳喜男、宮崎駿、北野武、川島雄三、特撮映画、カルト映画と分けていって、洋画のときにある監督の名前を見つけました。その名はジャン・ルノアール。ジャン・ルノアール!
彼の作品について、今まで一度も書いていないことに気付きました。避けていたわけではないのになぜか書いていない。『ゲームの規則』『大いなる幻影』『獣人』『フレンチ・カンカン』『河』『どん底』『女優ナナ』『ピクニック』『浜辺の女』など優れた作品が多い彼には印象派でもっとも重要な芸術家であるオーギュスト・ルノアールの血が流れています。
遺伝的に芸術家としての才能が子孫に受け継がれることは皆無に近いでしょうから、ジャン・ルノアールが如何に希有な存在なのかが理解できます。つまり彼の才能は親譲りなどという失礼極まりない言葉は書けない。
彼の映画が持っている構図の美しさや纏まりの良さは彼固有の才能であり、親とは直接的には関係はないと思っています。美しい芸術に囲まれて生活していたかどうかは知りかねますが、印象派の多くの画家が評価されたのは死後であることを考慮に入れると、恵まれていたのだと決めつけることも出来ない。
彼が活躍していたのは主にモノクロの時代であり、カラー黎明期でした。色彩感覚や表現に独自の境地を開き、後のモダン・アートへの呼び水になっているであろう印象派の画家たちのように自由に色を使えたわけではない。ここら辺を前提にして彼の作品に接していきたい。
『ゲームの規則』は今でこそ映画史上、重要な意味を持つ作品として位置付けられてはいますが、公開当時は興行的に不評で失敗に終わり、第二次大戦を挟んだ長い間に渡り、陽の目を見ることもありませんでした。
そんな不幸な歴史を持つこの作品に大きな転機が訪れたのはアンドレ・バザンが主宰していたカイエ・デュ・シネマがこの作品を高く評価して以降となります。どのような評価をしたのかにつきましては文献を読んでいるわけではないのでなんとも言いかねます。
それでも旧来の批評とは一線を画したカイエ出身の人々、つまりヌーヴェルヴァーグで重要な役割を果たすジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらはそれまで格下に見られていたアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスを賞賛するなど常識にとらわれない映画へのアプローチを模索していたようです。
作品を実際に見ていくとポイントになるのは舞台劇のような構図とオフスクリーンを意識した演技と音響、カメラの手前での演技はもちろん、背景でも他の出演者によって同時に展開されているドラマの楽しさと奥行きの深さをきっちりと見るには一回では不可能でしょう。
また自然で的確なカットの切り替えと場面転換、息抜きに登場してくるウサギ、カエル、リスなどの動物の美しさと真摯さ、そしてなによりジャン・ルノアール本人も登場する演技者たちの見事さは素晴らしい。
とりわけ密猟者(ジュリアン・カレット)、侍女(ポーレット・デュボー)、そして道化役を務めたジャン・ルノアールの演技が強い印象を残します。それもじわじわとくる感じで、見るごとに気づかなかった部分が見えてくる。
カメラワークで唸らされたのが館の夫妻(マルセル・ダリオとノラ・グレゴール)が部屋に入っていくシーンで、彼らの背後に寄り添っていたカメラは扉を開けてまさに入ろうとする刹那に部屋への別の入り口が開いているところに視点を移し、部屋で仕事をしていた侍女を捉える。
当然、主人たち(マルセル・ダリオとノラ・グレゴール)が入室してきたので彼女は出迎えていく。パン・フォーカスと多角的なワンシーン・ワンカットの試みがさりげなく、自然になされていました。
映画的な見せ場のひとつに所有する広大な森での狩りのシーンがあります。昔ならともかく、本当に野うさぎやキジなどを撃ち殺しているので、今のコードでは残酷すぎるという理由で撮れないシーンでしょう。この狩猟シーンと森番による痴話喧嘩による銃乱射はのちの英雄ローラン・トゥータンが射殺される伏線となります。
またフランスの貴族文化を描いた作品らしく、30年代後半にしては、そして今にもナチス・ドイツに侵略されるという危うい前夜にしてはお気楽で浮かれすぎているようにも思えますし、かなり性に対してもオープンなのには驚かされる。第一次大戦で打ちのめされて、捲土重来を図るヒトラー率いるドイツ軍を迎えるにはあまりにも腑抜けに見える。
不安を抱えつつも、まさか大国フランスがあっけなく占領されるとは夢にも思っていなかったのでしょう。貴族たちの社交場での笑顔とそうでない場所での冷たさのギャップ、ユダヤ人である夫人への面従腹背の感情を露わにする使用人たちの会話なども皮肉たっぷりに描かれる。
上流階級の欺瞞がシニカルに描かれ、現代の英雄である飛行機乗り(ローラン・トゥータン)が痴情のもつれと誤解からの嫉妬がもとで銃殺されてしまうという殺人事件が起こっても、神をも怖れず、しゃあしゃあと自分たちが有利に都合がように事後処理を済ませてしまうラスト・シーンは観客が上流階級であろうと労働者階級であろうとあまり良い気持ちになる終わり方ではない。
富める者(埋没しようとしている上級階級の退廃的な斜陽族のような自堕落さ。)も貧しき者も同類に過ぎないことを喝破し、戦争が迫りくるのに我が世の春を謳歌し、または自分たちには関係はないという他人事の態度を取り続ける両者へ冷ややかに浴びせかける視線。
ルノアールにそこまでの意図はなかったであろうが、来るべき大戦争前の不穏な空気感は表面上浮かれているようにも見える作品に暗い影を落としている。
ヨーロッパ人すべてに与えられた警告だったのだろうか。映画での立ち位置と同じで中間に構えるジャン・ルノアールは旧態依然としたブルジョア層と勃興してきた労働者たちのどちらからの信用も支持も受けられない。
まるで鳥でも動物でもないコウモリのような存在でした。みんなが彼に語りかけてくるものの誰も彼を男性としては見ていない。
作品を通して見ていくと、ヒロインのノラ・ベルナールが本当に欲していたのは誰だったのかという疑問に行き着きますが、答えは出ない。貴族の領主の妻に迎え入れられているものの彼の浮気に対抗するように自らも愛人(ローラン・トゥータン)を作る彼女。
さらにはむかしから彼女を知るジャン・ルノアールも彼女への愛情を秘めている。彼女も最後はジャンを受け入れるかに見えたが、結局は何事もなかったかのように元の鞘に収まっていく。
主がそういう状況の下ではあるのと符丁を合わすように、彼女に仕えている召使夫婦の妻(ポーレット・デュボー)も新しく雇われた下卑た召使(ジュリアン・カレット)と浮気をし、夫の森番(ガストン・モド)は激昂してあちこちで拳銃を発砲する。彼は後に嫉妬からベルナールと自分の妻を見間違い、ジャンとトゥーランを取り違えて射殺してしまう。
そもそもこの映画において描かれる主従入り乱れての色恋沙汰ゲームの規則とは何だろうか。その答えが宗教的な道徳やマナーなどの触れてはいけない“タブー”だとすれば、多くの出演者は気にも留めずに平気で人を傷つけていく。
いがみ合うことはあっても、他人を身体的には傷つけないというのは最低限だと思うのだが、女を巡って、上流階級も使用人たちも平気で拳銃や猟銃を発砲するし、大人同士で殴りあう。
ユダヤ人は嫌いだとはっきりと召使いが言い切り、自己保身のためなら平気で隠蔽する。当時のヨーロッパで誰もが思っていたことをシニカルに笑い飛ばされたからこそ、皆はこの映画を憎んだのかもしれません。
ちなみに今回見たのはシネフィル・イマジカの放送で、ほぼ完全版と呼ばれている104分バージョンでした。カイエとつながりがあるイマジカでの放送を見たのはなんだか感慨深い。
ただ不思議なのはハイクラスの人々や現代の英雄である飛行機乗り、そして道化役であるジャン・ルノアールまでが夢中になるにしてはヒロイン役のノラ・グレゴールはどう贔屓目に見ても魅力がない。演技者陣はどの登場人物を見ても、いわゆるハリウッド的なスターはひとりもいません。
地味すぎるとも思えるような演技の上手い脇役陣ばかりを要所に配した構成からは彼がやりたかったのは本格的な群像劇であり、単純なメロドラマやコメディだったのではないことが理解できます。同時進行する上や下への色恋沙汰は階段や室内のみでほとんどのシーンを成立させています。
これだけの人数をよく統率し、キャラクターを描き分けているのも監督の力量でしょうし、繋がりにくいカットとカットの合間には自分が交通整理のおまわりさんのようにフィルムに登場し、皆の芝居の動線を裁いているようでした。まさに彼は熊のおまわりさんだったのかもしれません。
総合評価 95点