良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『未知との遭遇』(1977)昔見た時はSF大作、今日見たら、中盤はまるで異常者の映画…。

 今年の元旦、映画の見初めに選んだのは『未知との遭遇』でした。この映画を最初に見たのは小学校の高学年だったと思います。ただ公開当時のもっと小さいころからすでにこの映画の存在は知っていましたので、そうとう一般の大人たちの認知度は高かったに違いない。   日本では1978年公開で(アメリカ公開は1976年の後半。ぼくの記憶では1978年は『スターウォーズ』、『未知との遭遇』はその前の年の1977年だった気がするのですが…。)、ぼくはまだ低学年でしたが、そんなガキでも知っているわけですから、この映画が社会に与えたインパクトは『ジュラシック・パーク』の比ではないのが分かる。  公開当時はさすがに見ることは出来ませんでしたが、高学年の頃にようやくこの映画との接近遭遇を果たしました。その頃の思い出は例の手の動きに合わせて電子音が鳴り響く有名なシーン(ソ!ラ!ファ!ファ#!ド~!)、デビルズ・タワーの絵を描いたり、家の中でジオラマを作るシーン、そして先ほどの電子音に共鳴してスイングする宇宙船との音と光のセッションでした。
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 そもそも異星人との接近遭遇にはいくつかの段階がある。  第一種接近遭遇は空飛ぶ円盤を至近距離から目撃すること。  第二種接近遭遇は空飛ぶ円盤が周囲に何かしらの影響を与えること。  第三種接近遭遇は空飛ぶ円盤の搭乗員と接触すること。    第四種接近遭遇は空飛ぶ円盤の搭乗員に誘拐されたりインプラントを埋め込まれたりすること。また、空飛ぶ円盤の搭乗員を捕獲、拘束すること。  この映画の原題タイトルは『CLOSE ENCOUNTERS OF THE THIRD KIND』、つまり第三種接近遭遇なので、当然三番目までの遭遇のはずではあります。しかし最後まで見ていくと、ロイは宇宙船に乗り込んでいってしまうわけですから、第四種接近遭遇にしたほうがしっくりしたのかもしれません。  もっとも邦題は『未知との遭遇』。この付け方はとてもセンスが良いと思う。もし無粋に直訳の『第三種接近遭遇』にしていたら、詩情をぜんぜん感じない無機質で事務的なイメージを受けてしまったかもしれない。  30年以上も前の大昔に見たときは圧倒的な光量を使用した特撮技術の凄さと未来的な電子音の大音響が衝撃的で、SF映画のハードルを大いに押し上げたように思いました。もっともこのあとすぐに『スターウォーズ』や『2001年 宇宙の旅』を見てしまったので、あっさりとぼくのSF基準はキューブリックになりました。
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 それでも観念的で分かりにくかった『2001年 宇宙の旅』に比べ、あまり何も考えなくても楽しめた『未知との遭遇』は年齢に関係なく、多くのファンが好意的に迎えたのではなかろうか。  ただ特撮シーンばかりに目を奪われていた子どもの頃とは違い、高校生の頃に見たとき、大学生で見たとき、社会人になりたての頃に見たとき、そして今回見たときでは印象がどんどん変わってきている。  特に社会人になってからは中盤でデビルズ・タワーの正体が分かるまでの妄想に振り回される変質者的な行動の数々や家族を犠牲にしてもなんとも思わなくなっていく過程が痛々しく、不快な気持ちで見るようになってきています。  円満な家庭で育った人にはただの家庭崩壊のストーリー展開のひとつに過ぎないのでしょうが、両親の揃っていない環境で育った者には不仲な両親を見つめる子どもたちの気持ちが分かるし、嫌な気持ちを思い出す。
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 じっさいスピルバーグの父親も家族を捨てて、出て行ったようですので、家族の描写もこういう寒々しいものになったのかもしれません。自分のエゴで家族を捨てる父親というのはスピルバーグのなかに存在する強いイメージなのでしょう。  映画の端々にスピルバーグ自身のトラウマが配置されているようにも思えますが、UFOの形状にアイスクリームのコーン型のものを採用したり、宇宙船団の最後尾にディズニーで出てくるような小型の妖精状の機体を配置したり、マクドナルドの看板を使う、ちょっとしたジョークにはクスクスします。  リビングで『十戒』を見ている子どもたちに『ピノキオ』を薦めるのもなんだか親としては変です。スピルバーグが好きだったディズニー作品は『ダンボ』でしたので、これを使っても楽しめたのかもしれない。  映画に戻すと、自宅のキッチンの窓へ隣家のアヒルの囲いを盗んで引っこ抜いたり、ゴミ収集用のバカでかいゴミ箱をジオラマに使うために放り込んだりするシーンは端から見れば、ただのキ●ガイにしか見えない。このシーンでは困惑する家族を遠巻きに囲む隣人たちの好奇の眼差しと気持ち悪くて関わりを持とうとしない様子がとてもリアルでした。
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 宇宙船と遭遇してから生活が一変してしまい、どんどん社会生活を送れない精神破綻者のようになっていく様子が強く印象に残る。家族をほったらかしにして、自分のやりたいことをやり続けるというのは仕事一筋のサラリーマンの家庭が崩壊していくイメージに似ている。  これは父親に重ね合わせているのか、それとも自分自身の現状に重ねているのかは不明ですが、大きな風呂敷を広げている割りにはこじんまりとした個人の物語を軸に話を展開している。  さらにこの主人公(リチャード・ドレイファス)に感情移入しにくいのは第三種接近遭遇を果たした後に、政府側科学者フランソワ・トリュフォーらに見送られながら、宇宙船に乗り込んでしまう点にある。彼は自分の感情の赴くままに家庭も住む町も友人もすべてを置いてけぼりにして自分だけ新たなステージに飛び出してしまう。
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 彼が捨てる妻テリー・ガーや子どもたちの演技も忘れがたい。リストラされ、訳の分からない宇宙人の追っかけを始めて、生活のすべてが破綻していく過程を哀しげに見つめる子どもたちの様子が切ない。ポテトサラダで山を成形していくリチャードを困った目で見つめる家族の団欒が凍りつくシーンは妙に記憶に残る。  宇宙人によって生活が崩れ去るヒロイン(メリンダ・ディロン)は誘拐されていた息子を取り戻し、地球の生活に戻ろうとするのに、なぜリチャードだけがエイリアンと共に新生活を始めてしまうんだろう。  彼はスピルバーグの姿を投影しているのだろうか。それならばリチャードは現実からすべて逃避して好きなことにチャレンジしたいという意思を示していることにもなる。
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 後半は宇宙船着陸シーンが主になっていくので、実際のお話はデビルズ・タワーに辿りつくまでで止まっている。ここまでは宇宙人による誘拐や消えた軍用機がメキシコで発見されるシーンやロシア船籍の船がゴビ砂漠で見つかったりする(オリジナル版にはない。)など宇宙人モノのミステリーの映画として進めている。導入部としては素晴らしいし、その後にどんな凄い仕掛けが待っているのだろうかと期待させてくれる。  小さな子どもが誘拐されようとするシーンでは地下の空気穴のネジが勝手に緩んでいったり、電化製品が勝手に動き出す、まるでポルター・ガイスト現象が起こっているような恐怖映像が続いていく。こりゃ、ホラー映画の描写だなあと思いながら、見ていました。  またもっとも個性的だったのはエイリアンの描き方、つまり友好的で、地球人と敵対しないという進め方でした。このアイデアはのちの『E.T.』でも最大限に生かされていく。
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 冷静に考えれば分かることですが、本当に宇宙人が地球人とコミュニケーションを取ろうとしたら、圧倒的な科学力を持つ彼らが我々を敵と見なしている訳がないということです。  例えていうと子犬がじゃれて飼い主に甘噛みする程度の力しかない人類にかれらが本気でかかってくるわけがない。だとするとエイリアンは基本的に友好的に違いない。よってスピルバーグの描き方は物事の本質をとらえているのではないか。  まあ、密猟者的な悪い宇宙人もいるでしょうから、一概にみんなが友好的とは思いません。そういえば、20年位前のUFO番組ではよくキャトル・ミューティレーションといって、家畜の血液が一滴も残らずに抜き取られていて、それは宇宙人の仕業に違いないというのがありましたが、最近はないんでしょうかね。  音楽と音響、そして特撮について書かねばこの映画を書いたことにはならないでしょう。この映画を70年代を代表する作品に押し上げたのはまさに音と特撮技術によるものです。  ジョン・ウィリアムズの音楽、そして巨大宇宙船が暗い夜空から現れてくる時の地響きのような轟音、画面いっぱいに広がる巨大な宇宙船を見れば、劇場に観に行った観客は納得したのではないか。音と光のセッションはショータイムとしか言いようがない。
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 出演者として印象に残るのは一歩間違えるとただのシャイニング的なイカレたオヤジのリチャード・ドレイファスと科学者を演じたフランソワ・トリュフォーです。トリュフォーにこんな才能があったのは驚きで、映画監督、批評家に続くもうひとつの肩書きである役者が加われば、まさにオーソン・ウェルズみたいですね。 "We Are Not Alone.”、つまり“われわれはひとりではない”の意味はどう捉えるべきなのだろうか。宇宙には地球外生命体が存在するのだということか、宇宙人の存在が明らかなのだから狭い地球上で対立している場合ではないということか、スピルバーグの心の叫びなのか。  大きなスケールで描いた個人の物語という隠しテーマがあるようにも思えます。『イット・ケイム・フロム・アウタースペース』と同じく、この映画に登場する宇宙人は平和的な人々でした。しかし宇宙人は平和的だが、彼らと共に大空に旅立ったのは家庭を破綻させてしまった30代の配管工というのはどうなのだろうか。
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 なんだかハッピーエンドなのか、そうじゃないのか分かりにくく、これこそが最後のアメリカン・ニュー・シネマだったのか、コロムビアを破滅の淵から救い出したメシアだったのか。結論としては終わりよければすべて良しということなのだろう。  もうひとつ触れておかねばならないことがあります。それはラストにかかる『星に願いを』についてです。オリジナルの試写では最後にこのナンバーを流していたが、評判が悪かったので割愛したそうです。それが特別編では復活していました。そして最終カットとなったファイナル・カット版では再びこの『星に願いを』はカットされていました。
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 個人的にはない方がしっくりきます。これが入っていた特別編を見たときに、この曲のメロディが流れ出してから、これまでのことがすべてファンタジーに変わってしまった印象がありました。一気にお子様ランチになってしまうのです。これはまずいのではないか。そういう意味ではラストで再び削除したのは冷静な判断だったと思えます。  最後にもう一回!  ソ!ラ!ファ!ファ#!ド~! 総合評価 70点