『ヘルター・スケルター』(1976)ビートルズの楽曲をどう聴けば、殺人に向かうと言うのか?
レコード会社との枚数リリース契約上、出さざるを得なかったのがビートルズ唯一の二枚組オリジナル・アルバム『ザ・ビートルズ』です。
アナログ・レコードを久しぶりに手に取り、B面最後の『ジュリア』を聴き終わり、ターン・テーブルへ二枚目のレコードとなるC面をセットして、そっと針を落とすと明るいパーティ・ソングでジョージの妻だったパティがコーラスに参加している『バースデイ』が用意されている。
ボブ・ディランの影響下にあると言われた『ヤー・ブルース』、牧歌的な『マザー・ネイチャーズ・サン』、マハリシを歌った『セクシー・セディ』とさらに聴き進んでいくと、ポール・マッカートニー作曲のハードなギターが印象的なナンバー『ヘルター・スケルター』にぶつかります。
キレの良いこのナンバーのファンも多いでしょう。またステレオ盤とモノラル盤ではテイクが違い、聴き比べるのも楽しい。最後のリンゴの“指に血豆ができちゃったよ!”がないのがモノラル盤です。海賊盤のなかにはこのナンバーのセッションを延々と数十分間繰り返すものもあるそうです。
ぼくがホワイト・アルバムを買ったのは1980年代初頭でしたので、純粋にカッコいいロック・ナンバーとして聴いていましたが、1960年代にはこの曲や『レボリューション9』を聴いて、訳が分からない自分勝手な解釈をした妄想狂がいました。
凶悪な犯罪者がビートルズの楽曲を自分の屁理屈を正当化するために利用して、しかもそれにより最悪の結果を招きます。彼の犠牲になったのは映画監督ロマン・ポランスキーの妻で、当時妊娠していた女優のシャロン・テートでした。
彼女が出ていた映画と言っても、今ではピンと来ないでしょうが、知名度のある彼女が殺害されるのは衝撃的な出来事だったはずです。
彼女以外にも多くの罪の無い人たちが面白半分で惨殺されてしまいました。犯人はアメリカの猟奇的な殺人鬼たちのなかでも有名なひとりであるチャールズ・マンソンと彼が率いるカルト集団で洗脳された女たちでした。
ぼくがマンソンを知るきっかけとなったのはアメリカでは上映出来ない、悪名高いショック・ドキュメンタリー『アメリカン・バイオレンス』とビートルズの『ヘルター・スケルター』でした。
この映画を見たのは二十代の頃のレンタルビデオが最初でしたが、このナンバーを聴いて、再び無性に見たくなり、ゴソゴソとヤフオクを探してみると、案の定、DVDは出ておらず、大昔のVHSがものによっては5千円以上で取引されているようです。
作品内容はマンソンたちの殺人事件を裁く法廷内での描写が多く、昔見たときには退屈していたのを覚えています。つまり、ホラー・マニアが喜ぶようなシーンは少ない。
しかしながら異常心理を裁くことの難しさや法律の限界を垣間見ることが出来るので、鑑賞姿勢を猟奇モードから法廷劇モードに切り替えると、フライシャーの『絞殺魔』と似たような感覚で粘り強く見ていられます。
ぼくとしてはビートルズがただの方便だったのか、それとも本気で妄想したのかがもっとも聴いてみたい部分でした。ただ前に書いた通り、最初に見た頃はスプラッター映画を期待していたので、あまり興味を引きませんでした。
マンソンは“ヘルター・スケルター”という言葉を大混乱と解釈し、黒人が白人を支配しようとする世界が来ると考え、黒人が自分たち以外の白人を滅亡させた後にデビルス・バレーの洞穴に隠れていたマンソンが世界に君臨するのだという理解不能の妄想をカルトのメンバー(まさにチャーリーズ・エンジェル!)に信じ込ませる。
なぜ君臨できるかというと黒人は何も生み出していないから、どう世界をリードしたら分からないので指導権をマンソンに渡すというなんとも手前勝手で意味不明な理屈です。マンソンは自分をキリストの再来だと吹聴し、ギター片手に女たちを奴隷化した、最悪なトリック・スターに過ぎないのではないか。
そもそもあれだけの事件の首謀者ではあるが、マンソン自身は一人も殺害していない。彼は殺せと指示するのみだったわけで、自分の手は汚していない。
マンソンは教育をまともに受けていないし、人生の半分以上を少年の町(孤児院?)や刑務所で過ごしていましたので、字もろくに書けない。じっさい、彼ら犯罪グループには知性はないので、殺害現場に“HEALTER SKELTER”という血で書いたメッセージを残すが、本来は“HELTER SKELTER”と書かねばならないなど、ネイティブなのに単語の綴り方が違うなどアホ丸出しです。
『ヘルター・スケルター』はよく聴けば、ただの子ども相手のコミック・ソングのようなものである。回転式のグルグル回る滑り台のことであり、ガチャガチャした感じのにぎやかなナンバーなので、どこをどう解釈すれば、ビートルズからマンソンへのメッセージと受け取れるのかが不明です。
検察側は口裏を合わさせないように分断した上で、マンソン・ファミリーへの各個撃破による切り崩しによって、犯人一味の一人であったリンダと司法取引をして検察側に引き入れて、徐々に一連の事件の全貌を明らかにしていく。結果的にマンソンはカリフォルニア州の裁判で死刑判決が出されますが、州法改定により死刑を廃止した同州で最高刑となる終身刑に減刑される。
つまり彼は変質的な大量殺人の首謀者で、社会不安を与えた犯罪者なのにまだのうのうと刑務所で生きている。囚人の間では有名人として人気があるようです。実際、マンソンTシャツまで販売されていますが、殺人事件の犯人をプリントしたものを着るのは異常であり、遺族感情を考えるとモラルに欠けているように思える。
この映画で印象に残るのは犯罪そのものはもちろん、彼らを演じた俳優陣の迫真の演技に尽きます。特に悪魔カルトのリーダーであるチャールズ・マンソンを演じたスティーヴ・レイルズバックがまるで本人が乗り移ったように目があらぬ方向にいっちゃっているのが気味悪い。
彼を追い詰めていく検察官役のジョージ・ディセンゾも怒りを抑えつつ、執念でマンソンを有罪にしていく過程を熱演しています。もともとはテレビ映画として製作され、そのときは2時間弱の上映時間でしたが、のちに劇場映画用に再編集され、90分程度にまとめられていました。ぼくが見たのも2時間弱のものでした。ちなみに公開時の配給はもちろん、見せ物映画大好きの東映でした。
法廷シーンなどは昔見た『アメリカン・バイオレンス』での記録映像を思い出しましたし、事件現場となってしまったロマン・ポランスキー宅を再現したロケセットの出来栄えは本物と瓜二つでした。
殺害現場の描写も克明に再現されており、庭のどこにどういう状況で遺体が放置され、室内のどの場所にシャロン・テートの惨たらしい遺体が血だらけで転がっていたかまでを映し出す。こういう残酷描写は現在の放送コードでは難しいでしょうから、今後も出るとすればDVDくらいでしょう。
ちなみにビートルズ・ナンバーが『ヘルター・スケルター』『ピッギーズ』『ロング・ロング・ロング』の三曲ほど使われていますが、当然のことながらビートルズ・サイドの使用許可が下りるはずもなく、すべて三流バンドの演奏によるカバー・ヴァージョンでお茶を濁しています。
総合評価 76点