『風が吹くとき』(1986)平穏な暮らしは突然崩れ、戻ることはない。
日本のアニメを見慣れた目には少々物足りなく映るかもしれませんが、公開された当時はなかなかの話題作としてマスコミなどにも取り上げられていたのがこの『風が吹くとき』です。
核爆弾が落ちようとする寸前、イギリス(チャーチルやスターリン、ヒトラーのことを語る。ロシア人が攻めてくるかもという会話をしているのでイギリスだろう。)の田舎町に住む人たちは核爆弾に備えるようにという政府発表があっても、のんびりと日常生活を続けている。
政府自体もいい加減で、どう考えても効力がないと思われる放射能対策をラジオやテレビで放送する。当然、民衆はさらに情報が少ないので、生き残る確率は低くなる。
彼らは危機意識の低さが根源にあり、すぐにでも核戦争が始まるという恐怖に直面しても、きちんと効果的には動けない。これは核に限ったことではなく、天変地異すべての対応に必要とされる知識がないということがどれだけ致命的であるかをくどいほどに繰り返し思い知らせてくれます。
核爆弾が投下されようとしているとき、田舎のお爺ちゃんは政府の手引きを片手に素直に核シェルターを手作りすると言い出し、家中の扉を集める。
そして出来上がるのはただ木のドアを立て掛けて置いて、いざ衝撃波による爆風が来たら、いそいそとそこへ隠れるだけという、長崎県で暮らして、平和公園の記念館で原爆被害の凄まじい記録を見てきたぼくには信じられない対策を真面目な顔で実践する。
この映画で語られるのは無知の恐ろしさと国家の欺瞞です。有史以来、最大の被害を生んだ第二次大戦をも凌駕する規模での殲滅戦がいざ始まってしまえば、民間人だろうが軍属だろうが、核爆弾が着弾すれば、一瞬のうちに爆心地の人びとは死に絶えてしまう。
たとえそこから多少離れていても、爆風や黒い雨を浴びてしまえば、目には見えないが確実に身体を蝕んでいく放射能によって命を奪われてしまう。
国家が必ず助けに来てくれると信じて、自治体や警察が必ず助けに来てくれると信じて、牛乳屋や新聞の配達が来てくれると信じながら、体力の限界を超えて神に祈りを捧げながら倒れていくさまは悲惨です。
日常的で淡々とした生活描写がだらだらと最初から30分以上も続いたあとに核爆弾投下後の場面が始まる。呑気に構えていた老夫婦も飲用水や食べ物が尽きるとともに一気に衰弱していく様子はリアルでした。
彼らは電気がつかない、テレビやラジオが聴こえない、冷蔵庫の食べ物が傷んで困るとブツブツ言っている。放射能なんか見えないから、家の周りには来てないんだと決め込み、雨水を貯めて、腐っているとお腹に悪いからと念のために煮沸すれば大丈夫と思い込んで飲んでしまうという下りがあります。
無知を象徴する場面ではありますが、程度や現象の差はあったとしても誰も彼らを笑えない。こんな調子でずっと映画は続いていくので、どんどん陰鬱な気分に陥ってしまいます。この映画にはまったく救いはなく、ハッピーエンドには程遠い。
むしろアメリカン・ニュー・シネマ的な話の進め方です。好き嫌いはあるでしょうが、考えさせてくれる作品ではあります。音楽はピンク・フロイドのリーダーだったロジャー・ウォータースが務め、主題歌の『風が吹くとき』を歌っているのはデヴィッド・ボウイ、挿入歌にジェネシスなども参加しています。
日本語翻訳版では大島渚が監修を務め、吹き替えでは森繁久彌と加藤治子が声を当てていて、なかなかしっかりとした安定感があります。
総合評価 68点