『ノスフェラトゥ』(1979)ムルナウへのレスペクトのみでなく、自身の解釈を加えた意欲作。
もともとはブラム・ストーカーの原作小説があるにせよ、ヴァンパイア映画のオリジナルと言えば1922年に公開された『吸血鬼ノスフェラトゥ』です。
オリジナル版の『吸血鬼ノスフェラトゥ』はドイツ人監督で当時はタブーだったホモ・セクシャルがバレて、映画界での居場所を無くしてしまい、直後に交通事故で命を落としたF・W・ムルナウがサイレント映画全盛時代に撮ったモノクロ傑作ホラーです。
ムルナウの葬式は自分もホモセクシャルと思われたくないからか、映画界の功労者のそれとは思えないほどに閑散として寂しいものだったそうで、有名な映画人の参列者はグレタ・ガルボだけでした。
これを1979年にカラー版でリメイクしたのが同じドイツ人のヴェルナー・ヘルツォーク監督というのは興味深い。ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』は古典として素晴らしい出来映えで後発のユニバーサルやハマー・フィルムなど、多くのホラー映画の構図や独特の雰囲気に大きな影響を与え続けています。
時代を超えて、世界中の映画ファンを魅了するだけではなく、製作サイドのお手本にもなっているF・W・ムルナウの芸術的な映像美にどうやって、ヴェルナー・ヘルツォークが尊敬の念を抱きながら、彼なりにこの『ノスフェラトゥ』にアプローチするのかを注目して見ていけば、両者の作風をより楽しめます。
彼らの出来上がりの相違は撮られた時代の違いでテーマへの着目点が変わってくることから生まれるのか。それともストーリー構成と誰にスポットを当てるのかなどの個人的な興味で興味で変わってくるのか。
多くの映画人が踏襲してきたムルナウの古典的構図を遵守するのかなど注目すべきポイントは幾つもあります。しかしながら、実際にはこの作品は映画祭での上映後にお蔵入りしてしまい、買い手が付いて一般公開されたのは数年後でした。
ではこの作品の出来映えが悪かったから公開されなかったのでしょうか。決してそういうわけではなく、芸術性はムルナウのオリジナル版に勝るとも劣らない美しい映像がいくつも存在します。
馬車のギャロップを川越しに捉えた映像は実際に走っている馬車が川面に映し出されていて、画面の上下で逆さまに疾走する様子が写し取られています。なんとも幻想的でどこか薄気味悪く、この作品の主人公であるノスフェラトゥの恐怖の世界観を描いているようにも見えます。
ラスト・シーンでヴァンパイアと化したブルーノ・ガンツが砂嵐が吹き荒れる砂漠を騎馬で走り抜けていく様子は不吉な未来を暗示する。多くの映像からは凍りつくような寒々しい雰囲気を漂わせています。
こうした雰囲気はムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』よりも、むしろヴィクトル・シェストレムの『霊魂の不滅』を思い出させてくれます。ルイス・ブニュエル的な皮肉に満ちたシュールな表現もあちこちに見ることができ、ペストの犠牲者を教会前に運んでくるシーンと最後の晩餐のシーンは代表的に思えます。
あちこちの小路から幾つもの行列が数十もの棺を抱えて、街の中心部へ行進してくる様子は不気味であるが、どこか滑稽に映る。最後の晩餐を営んでいる紳士淑女の足元には数百匹のどぶねずみが蠢いている。どぶねずみは一般庶民の象徴なのでしょうか。
消費するだけで何も産み出さない特権階級と数は圧倒的だが文化とは程遠い労働者がどぶねずみという意味なのだろうか。特権階級が成り立つためには多くの労働者が必要なのだという意味だろうか。
ペストとは品が良いとは言いがたいファシズムを含めた大衆扇動や消費文化を表したかったのだろうかなどなど疑問は尽きません。ムルナウが撮影した時代ではペストは迫り来るナチスの台頭を予告していたようでした。
ヘルツォークの時代であれば、増殖し続けるどぶねずみは外国人労働者への脅威を表したかったのだろうか。何より一番シニカルな笑いを誘うのはクラウス・キンスキーが噛みついて起こす陰隠滅滅とした殺戮よりも、どぶねずみたちがばら蒔くペストによる犠牲者の数が圧倒的多数だということだろう。
彼らは迅速に人的被害を増大させ、おぞましい早さで増殖していく。これに比べるとクラウス・キンスキーはゆったりとイザベル・アジャーニの生き血を啜っている。貴族の楽しみとして、人妻を犯しているようです。
本来、もっとも恐ろしいはずの吸血シーンがゆったりと流れていくため、怖さよりもフェチシズムを感じる。さまざまな解釈を楽しめる作品ですが、実際には成功したとは言えない不幸な一本でした。
この映画でのイザベル・アジャーニの美しさはこの世に存在するとは思えないほどに透き通るようで、見る者に強い印象を与えます。悲劇を迎える薄幸のヒロインとして完璧でした。
作品自体の価値ではなく、興行的に地味すぎて回収が難しいと判断されてのお蔵入りだったのでしょう。『エクソシスト』や『オーメン』が全世界的に話題となり、数年後には『13日の金曜日』が控えている時期にこの映画で大ヒットを飛ばすのは困難です。
ヨーロッパ映画にショッキングな描写を求めるわけではありませんが、アメリカやその他の地域でこの作品が静かに湛えている狂気や寒々しさ、ブラック・ユーモアを予告編や宣伝で伝えるのは難しい。興行的に成功するのと芸術的な完成をどうやって折り合いをつけるのかは簡単な問題ではありません。
良い映画は公開当時に注目されなくとも後々映画ファンや関係者によって陽の目を浴びますが、それはじわじわ浸透してくるものであって、映画会社をすぐに儲けさせてはくれません。
結果としてはキャッチーな薄っぺらい作品にお金が集まり、本来行きべきところには常にスポンサーが集まらない悪循環にはまりこむ。
ストーリー構成は基本的に古典を踏襲しているものの登場人物への思い入れの深さからか、愛妻家でヒーロー役だったはずのブルーノ・ガンツが新たなヴァンパイアとして異国で害悪を撒き散らすためにギャロップしていったり、イザベル・アジャーニが捨て身でキンスキーを倒すものの愛する夫は吸血鬼と化してしまう不条理はアメリカ映画ではなかなか見られない。
そして見事にムルナウのノスフェラトゥを再現したクラウス・キンスキーはどこか物悲しく、怖いという感情は起こらず、哀れに思える。カラー版でもまるでモノクロのように撮られる彼の表情は基本的にハーフ・シャドウで映し出されるので、心情は見えにくい。
最大の洒落はヒーローだと皆が思っているヴァン・ヘルシング教授がこの映画ではとんだ道化役でしかなく、訳知り顔でキンスキーに止めを刺したところ、訴えられて逮捕されてしまう。笑ってはいけないクライマックスのシーンなのに思わずクスクス笑ってしまいます。
こういった洒落っ気も含めて楽しみたい映画です。オリジナルに敬意を払いながらも見せ方を変えた、新たなノスフェラトゥを見せたヘルツォーク監督は素晴らしいリメイクを世に送り出してくれました。
ハリウッドだとすぐにロマンスを無理やりぶちこんでしまうので、無意味な再生産を宣伝費たっぷりで夏休みに家族連れやカップルからお金を奪い取ろうとあの手この手でまるで感動大作のような仕掛けをしてきますが、だいたい出来上がりは大したことはない。
ヘルツォークの『ノスフェラトゥ』は恐くないし、ショッキングな驚きはない映画ですが、見終わってからの満足感はじわりじわりとやってきます。
個人的にもっとも恐怖を感じたシーンをひとつ。ノスフェラトゥであるクラウス・キンスキーがアパラチア山脈を棺桶に入ったままで水路を使ってブレーメンにやってくる際、夜な夜な乗組員を殺害したためについに無人になってしまう。
船をドラキュラの呪いの力で静かに朝靄の立ちこめるブレーメンの港に乗り付けて、どぶ鼠の大群とともに惨禍を運んでくるシーンでした。何気ないが、とても薄気味悪く、強く印象に残ります。ポポル・ヴーがつけた不気味な音楽も忘れがたい。ワーグナーの『ラインの黄金』がかかっていたような気がします。
総合評価 85点