良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ステレオ 均衡の遺失』(1969)学生時代に制作されたクローネンバーグの個性溢れる初期作品。

 新作『コズモポリス』の公開に合わせたのかどうかは分かりませんが、デヴィッド・クローネンバーグ監督の過去作品『シーバース』『ラビッド』がツイン・パックとなって、DVDが再リリースされています。  ヤフオクでは一時期、古びたビデオ・テープでさえも高額取引されていたことを考えると、これはこれでファンには嬉しいのですが、大方のマニアはすでに高い金額を出して、これらを手に入れていたでしょう。
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 彼らが本当にリリースして欲しいのはおそらくクローネンバーグが学生時代の1969年に制作した『ステレオ 均衡の遺失』であり、70年代初期の『クライム・オブ・ザ・フューチャー 未来犯罪の確立』であるに違いない。さらにマニアックな人ならば、60年代の短編の『Transfer』『From The Drain』を挙げるかもしれません。  上記の二作品はリリースされていませんが、幸いなことに『ステレオ 均衡の遺失』『クライム・オブ・ザ・フューチャー 未来犯罪の確立』は両作品ともにVHSビデオ時代にはレンタル・ビデオ屋さんの棚に並んでいました。
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 高校生だった頃に見た『スキャナーズ』や『ビデオ・ドローム』に大きなインパクトを受けていたぼくは素通りせずになんとかこれらの初期作品にたどり着く機会がありました。  その時に残していた鑑賞メモと当時の記憶、そして数年前にヤフオクで落としたビデオを見た感想を織り交ぜながら、今回は記事にしていきます。
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 『ステレオ 均衡の遺失』はクローネンバーグらしい、とても奇妙な中編で、何かが違う別世界に迷い込んだような気持ちになります。内容は違いますが、同じSFで地味であるがずっと記憶に残り続けるという意味で、感覚的にはウルトラセブンの『第四惑星の悪夢』を思い出す。  モノクロ、そしてほぼサイレントで派手な展開はまったくなく、内容自体もかなり難解で何度見返してもいまだによく解らない。実際の上映時間は60分を越える程度の短さですがかなりの長編に感じます。
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 作品はモノクロの実験映像のようで、しかもサイレント映像のため、登場人物たちの台詞はなく、被験者数人のナレーションが交互に入るのみです。作品テーマはデヴィッド・クローネンバーグらしく、科学技術への不信と孤立する主人公に焦点を当てています。  進みすぎる科学技術は必ずしも人類全体のための福音になるわけではなく、さまざまな問題を解決する魔法のツールではないことを訴える。
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 またセックスへの飢餓感というか、または強すぎる衝動と呼べば良いのか、セックスを通して生まれてくるコミュニケーションには信頼を置いている。  異性愛や同性愛の範疇を越えて、両性愛を経験してこそはじめてテレパシー能力が覚醒するのだというメッセージを提示してきます。つまり、学生時代の1969年にはクローネンバーグの不気味で独特な世界観やテクノロジーへの不信、セックスへの強すぎる興味という後々まで繰り返される作品テーマはすでに提示されているので、はじめてこれを見る人は驚くでしょう。
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 超能力、ここではテレパシーの実証実験と称して、人々へ医薬品を投与したり、神経を遮断する手術などを繰り返し行うことで、言語を奪われた人々が新たなコミュニケーション手段として何を使うのか、そして超能力が発現して、その後にどういう影響を及ぼすかを調査する。  当初は上手く行っていたように見えた実験が行き詰ってしまい、各々が孤立して行き、8人中で2人の被験者が自殺してしまう。テレパシーが通じていた者たちも再び自我の壁を作り出し、他者を拒絶するようになる。
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 人体実験という非人間的な環境を描いていきますので、科学批判的なメッセージも含まれているのでしょうか。ただこの作品に接するときには彼が描き出そうとするテーマを注意深く理解しようとするとかなり難解なので、何度見ても訳が分からなくなってしまう。  むしろ語られる内容よりも視覚的な刺激に注目するほうがこの作品をより楽しめます。とても奇抜で幾何学的だと見る者が勝手に勘繰ってしまう研究所のデザインはこの映画を構成する重要な要素です。
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 またカメラ・ワークの非凡さを表すカットが幾つも存在し、今の目で見てもかなり斬新な構図があります。例えばブライアン・デ=パルマで有名な360度パンの技術がもっとさりげなくラスト・シーンでスロー・テンポで試されています。  カップルが歩いているのに急にスローモーションになっていくカットや視点を次々に変えていって、見る者を不安に陥れるカット割りに至っては確信犯的です。
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 また何気ないのですが興味深いのが被験者の男女が対面してティータイムを楽しむシーンでした。被験者女性は対面する男性が置いているティーカップ越しにお茶を飲んでいるときに、相手の表情を伺う様子をカメラが捉えています。彼女のカップは映さずにしかも彼女がまるで大きなカップに顔を沈めるように飲んでいる。  他にも独特な個性を感じるカットが多く、逆光を上手く使うことで不安を煽り、何気なく幾何学的模様を頻出させて、意味ありげに非日常を強調しているようにも映る薄気味悪さが彼らしくもある。
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 本人はただ楽しく、感性の赴くままに実験的な映像を構築しているだけなのかもしれません。しかしながら見る者はそれらの中にデヴィッド・クローネンバーグの欠片を探そうとします。  全編通して感じたのは人類にとっては重要な言語によるコミュニケーション手段を外科的手術によって強制的に遮断されて奪われてしまった場合どうするのか。
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 その代替コミュニケーション手段となってくるのはセックスであるが、結局は反目しあって孤立化していくという結論の持って行き方はいかにもクローネンバーグらしい。  言語の代わりがセックスだとするとそれは生物的には単なる退行ではないか。ただしクローネンバーグにとってはセックスが重要なのでしょう。
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 『ラビッド』でも伝説的なポルノ・スターで『グリーン・ドア』に出演していたマリリン・チェンバースの腋からぺニスにしか見えない臓器が生えてきたり、『戦慄の絆』での女性器描写に引っくり返りそうになるのは天才バカボンの「これでいいのだ!」のナンセンスな世界観ですし、欽ちゃんならば「なんでそうなるのかな!?」とピート・タウンゼントのように飛び跳ねるに違いない。  彼の作品の源泉を辿っていくと1960年代に制作された短編『TRANSFER』『FROM THE DRAIN』に行き着く。残念ながら『TRANSFER』を見たことはありませんが、『FROM THE DRAIN』は動画サイトにアップされたりしているので、比較的容易に鑑賞できます。
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 商業映画ではなく、あくまでも習作程度の出来ですので特に見所はありません。これら二作品の次に制作されたのがこの『ステレオ 均衡の遺失』ですので格段の進歩を遂げていると言えます。
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 癖がかなり強い珍味のような作品群ですので好き嫌いははっきり分かれてしまうでしょうが、ハマると長く付き合える独特の映像センスは只者ではありませんし、性欲の衝動に正直すぎるオタク中学生がそのまま大人になってしまったような感覚を思い出します。  彼はどの映画にも影響を受けていないとの発言をしています。映画オタクの成れの果てではなく、理系学生がたまたま映画製作の才能を持っていて、その才能が開花したというのが真相なのでしょうか。
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総合評価 68点