良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『荒木又右ヱ門 決闘鍵屋の辻』(1952) 黒澤明監督の脚本による『七人の侍』のテストパターン。

 森一生監督による1952年製作の作品ではありますが、スタッフ、キャストともに黒澤組が大勢参加して、黒澤明監督が脚本を書き上げた知る人ぞ知る時代劇の名作です。ほとんど知られていないのがとても口惜しい作品であり、のちの『七人の侍』や『蜘蛛巣城』への布石もしくは予行練習としても意味を持ってきます。

 黒澤監督と、のちの『座頭市』シリーズで有名な森一生監督が、お互いの持ち味である立ち回りの激しさと映画的なリアリズムを存分に見せつけて、細かな美術や描写、そして撮影の部分まで彼らのリアリズムへの強い執着をはっきりと意識させる作品に仕上げました。

 出演している俳優陣も、主な役どころは全て黒澤組で占められていて、製作やスタッフにも本木荘二郎や松山崇の名前が出てきます。森監督にとってはもしかするとやりにくい辛い仕事だったかもしれません。しかし出来栄えは最高でした。

 まずオープニングの五分くらいの映像に驚かされました。いきなりの立ち回りで、しかも三船敏郎はじめ出演者が白塗りでチャンバラを始めたときには、いくら黒澤監督が脚本を書いても森監督がこのような最低の出来にしてしまうのかと思いましたが、それに被さってくるナレーションと、その後に映される現在の鍵屋の辻の映像を持ってこられた時に自分自身が抱いたことは全くの誤解であり、取り越し苦労に過ぎないことがわかり、最初から黒澤監督のペースに乗せられてしまった感がありました。時代劇に現在の様子を持ってくるのは反則です。

 時間の進行を実際の決闘の一時間前にあわせて、決闘までの一時間に三船、片山明彦、加東大介、そして小川虎之助の各々のそれまでの五年間の回想シーンを挿入しながら、不本意ながら敵味方に分かれてしまった志村喬との四人それぞれの、心のこもった細やかな交流をも同時に描いています。本人の視点ではなく他人の視点から志村の人格の素晴らしさを描いていくという方法論はとても芸の細かいやり方です。物語としての暖かさをこの復讐劇である「荒木又右ヱ門」物に入れていくのは革新的ではないでしょうか。

 講談で語られていた「荒木」はまさに「三十郎」のような凄まじい働きをしていますが、三十六人もの旗本衆を一人で二刀流の刀と手裏剣で倒していくというのは、あまりにも無理があり、それを嫌った黒澤監督が史実に基づき、講談よりもリアリティに富んだ本物の凄みを利かせた作品に仕上げました。

 震えたり、腰が抜けたり、肩で息をついたり、顔面蒼白で引きつったりする主人公側の武士達の姿には、正直に言うとみっともないと思うこともあるのですが、実際の殺しの現場に立って、人を斬るのですからこのように狼狽するのが当然であり、むしろ今までの時代劇での立ち回りの方が、この作品を見た後では不自然に思えるくらいでした。殺し合いを見守る群衆の一人が、血の臭いに酔ってしまい倒れるシーンが新鮮でした。

 見栄えが悪い立ち回りの連続であり、板妻などの時代劇スターを常に見てきた人からすると印象の悪い作品かもしれませんが、個人的には初めて本物のいわば実録物の時代劇を見た気がしました。ただあくまでも映画というものは、観客を楽しませるためのものであり、そのための映画的な表現も必要であり、特に時代劇の立ち回りというものは「華」でありますので、ここがあまりにもかっこ悪いと、いくらそれにより現実味が出てくるとしても作品としては実験作の域を出ないのではないでしょうか。

 黒澤組俳優がほとんど出演しているとても豪華な作品ですが、これは本木荘二郎と黒澤監督の計らいでしょう。当て馬として使われた森監督には口惜しい作品でしょうが、明らかにこの作品は『七人の侍』への布石です。この作品の俳優の中で、もっとも強いというか我々が持っている侍のイメージを体現しているのは三船と志村のみであり、後の人たちには人のよさは感じますが、武士としての強さは感じませんでした。

 半兵衛(徳大寺伸)も強い侍の部類に入るかもしれませんが、あまり重要な役として扱われてはいませんので除外します。あくまでも前者二人を際立たせるための演出なのでしょうが、ここでの三船と敵方の志村は単純に強いだけではなく、あらゆる知恵を絞り、少しでも勝つ可能性を高めていく努力をしています。その姿勢が現実的であり、彼らを応援したくなる気持ちが出てきます。こうしてみると、どっちが正しいのか判らなくなってきます。

 人間性も上手く描かれていて、志村との別れのシーンでのやりとりは私怨が無いのに戦わねばならない哀しさに満ちています。三船と志村は黒澤作品で何度も顔合わせをしているので、この作品の中においても旧知の間柄を自然に演じています。仇討ちということがメインテーマであるこの作品ですが、三船と志村の哀しい友情物語でもあります。

 脇を固める俳優陣の実力もまた見逃せません。左卜全の素晴らしさは表現するのが難しい。老体であるにもかかわらず、衰えることを知らない力強さを画面から放出しています。彼の歌う能(演目は『田村』)の謡(武士階級なので町人文化の歌舞伎ではなく能なのでしょう)はとても美しく、力強い男の歌でした。『どん底』でもよい味を出してくれていましたが、ここでも存分に活躍しています。加東大介の演じた従者も印象に残る役柄であり、普通の武士の弱さを普通に演じています。もっとも普通の人間らしい反応を全篇で示しています。

 そしてもっともこの作品の中で貢献度が高いのは高堂國典の演じた鍵屋の亭主です。緊迫感溢れる武士の行動に対して、常に腰を抜かしそうになりながら、しっかりと荒木の役に立つ彼の微笑ましさは左とともにこの作品での清涼剤です。ただし脇の俳優陣が素晴らしかった中で、本来の敵方の主役である千秋実がとても良い演技をしている割に、あまり目立っていないのが、もったいない印象を与えています。

 オープニングでのいきなりの立ち回りと現在の鍵屋の辻を見せる斬新さ、決闘までの時間を上映時間とあわせる撮り方、回想によって人物同士の相関関係を示していくやり方、あまりにも見栄えの悪いリアリズムに溢れる鍵屋の辻の立ち回りシーンなど、演出の宝庫と言うに相応しい素晴らしい作品です。

 特に時間という概念の、映画での使い方が見事で、時代劇に現在の様子まで持って来るというのは、本来反則なのではないでしょうか。当時の映画界でそれが嫌味にならずに斬新さとして受け取られる土壌はあったのかどうかは疑わしいところです。旧態依然のやり方を現在に至るまで継続している多くの時代劇からは進化しようという気概さえも見えてきません。自分自身としては、六十代以上の方が亡くなった後では、もうこういった古いタイプの時代劇は作られることもなくなるのではないか、といういわば絶滅危惧種のひとつとして時代劇を捉えていることにいささか寂しさを感じています。

 それはさておき、森監督の追及する立ち回りの激しさも徹底されていて、後に彼が勝新とともに何本も製作する『座頭市』シリーズ(森監督はシリーズのうち三作品を、そして森監督と勝新はその後、『兵隊ヤクザ』ほか合計八作品で監督と主演として活躍します)を髣髴とさせる撮影の仕方が随所に見られます。連続した短い「カット割り」に頼るのではなく、芝居の連続性から緊張感を高めていくという意味においてです。ただあまりにも弱すぎる武士達は少々見苦しく、いくらリアルに撮ろうとしているために、そうなったとしても、もう少し上手いやり方もあったはずです。

 またこの作品では、歌が大きなインパクトと意味を持っています。左の謡はとても力強く素晴らしいものですが、同じ歌を息子役の加東が歌うと調子はずれの緊張感丸出しの情けないものに変わります。しかしこの老いた父親への孝行から、あだ討ちのお供についた加東は父のイメージを常に持ちながら、辛さに耐えていきます。めげそうになる自分を叱咤してくれる父の歌を彼も歌います。鍵屋の辻の町並みを作ったオープン・セットの出来栄えが素晴らしく、この作品のためだけに、これを作ったのだとしたら、東宝という会社は当時よほど儲かっていたのではないかと思わせるほど質感の素晴らしいセットでした。

 この後に、大映での『座頭市』シリーズを、数多く勝新とともに作り上げていく森監督にとって、ここでの東宝での、言い換えれば黒澤監督との仕事は、俳優やスタッフのほとんどが黒澤組というやりにくい仕事場であったとしても有意義な時間を過ごせたのではないでしょうか。座頭市でのリアルで残酷な立ち回りもここで既に経験できたことは彼にとっても、勝新にとっても良い結果を生み出していきます。

 のちに森監督と数多く仕事をやってきた勝新が『影武者』で黒澤監督と衝突してしまい、一本も仕事が出来なかったことは日本映画にとってはとてつもなく大きな損失であり、皮肉でもあります。勝新を森監督が何度も使えた、もしくは使われたのに黒澤監督が一本も使えないというのはなんたる皮肉でしょうか。

 終戦後、七年を経過したあの時代において、現在放映されている時代劇よりも見応えがあり、テンポの良い作品を世に問うていることに、とても驚きました。俳優の演技も脚本もセットも演出も、全ての分野において今の作品よりも数段レベルが高いのが口惜しく、大変残念です。先人のレベルに全く追いついていないのは、まったくもって情けない限りです。この間『雄呂血』を見た時にも思ったことです。

総合評価 82点