良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『エクソシスト』(1973)意外と少ない特撮シーンですが、当時は衝撃的映像でした。

 ウィリアム・フリードキン監督、1973年公開作品にして、当時はセンセーショナルな映像と内容により、話題になることの多い作品でした。のりおよしおの漫才のネタになっていたほど、有名だったのです。

 

 初めてこれを観たのはTV放送で、確か小学校三年のときで、しかも夏だったかなあ...。メチャメチャ怖くて、しばらく夜中にトイレに行くのが嫌でした。マイク・オールドフィールドの作曲した『チューブラー・ベルズ』を聴いただけで、当時の恐怖が蘇る、とんでもない作品です。

 

 かの黒澤明監督も娘さんとご一緒に観られた日には、心配でその日の夜に、何度も子供部屋にやって来て、首が回転していないか確認しにいらっしゃったそうです。あの黒澤監督にすら、それ程のインパクトを与えてしまうこの作品は、それだけでも、とても偉大な作品なのです。

 

 そしてその日から二十五年の歳月が過ぎ、覚悟を決めて二回目を見ました。『ゾンビ』と同じく、基本的にホラー系映画は恐いので、あまり観ません。恐さとおどろおどろしいイメージが大勢を占めていた当時と違い、その映像の陰がある美しさに初めて気がつきました。

 

 エクソシストとは、悪魔祓い師のことであって、悪魔のことではないということも十代になってから知りました。まるで、フランケンシュタインが博士の名前であり、怪物のことではないのと同じような感覚です。

 

 二人の悪魔祓い師が登場するこの物語では、メリン神父を演じたマックス・フォン・シドーが作品の格調を高め、カラス神父を演じたジェーソン・ミラーが作品に深みを与えています。彼らは二人で一人である。

 

 一人は知性・信心・経験を、もう一人は迷い・感情・意志を体現する。理性と情熱。悪魔を追い詰めるのは理性であり、決着をつけたのは情熱。

 

 どちらも素晴らしく、彼らがいてこそ、この作品が後世まで語り継がれる名作と成り得たのではないでしょうか。貢献度はかなり高い。物語のベースである芝居がしっかりしてこそ、はじめて特撮部分や奇妙な設定が、日常的な芝居との差異を生み、際立ってくるのではないかと思います。

 

 彼ら以外にもリー・J・コッブ(『十二人の怒れる男』での彼は素晴らしい)も出演していて、脇役として出ている人たちを見ているだけでも楽しい。マックス・フォン・シドーを使っているのも、おそらくフリードキン監督がベルイマン監督のファンだったのかもしれません。映画ファン的キャスティングがなされているように見えました。

 

 そして勿論、作品を引っ張ったのはリンダ・ブレアです。彼女の見せ付けた存在感の大きさは圧倒的でありました。彼女を支えきるためにも、このような重鎮達が絶対に必要だったのでしょう。

 

 主役が大きすぎても、脇が主役を支えられなければ、作品は崩壊してしまう。脇がいくら優れていても、主役の演技が軽すぎると、バランスがおかしくなってしまいます。キャスティングがよく考えられていると感心しました。

 

 キリスト教の悪魔祓いというデリケートな部分を作品として真面目に取り扱ったのは、着眼点としては個性的であり、反発も強かったのではなかろうか。アメリカといっても、大都市だけではなく、田舎の町も存在します。

 

 毎週日曜日に教会に行く、信心深い人たちが多い田舎町、その小さなコミュニティーで、このような作品を受け入れることは相当難しかったと想像します。

 

 映像的には、ショッキングなそれが目白押しでした。一回転する首、ポルター・ガイスト現象、ラップ現象、陰部に突き立てる十字架、首に突き刺す注射針、放尿しゲロを吐く少女、そして、衝撃的な結末。

 

 後のディレクター・カット版では有名な「スパイダー・ウォーク」のシーンなども追加されていますが、たいして必要あるとは思えませんので、劇場公開版で十分だと思います。

 

 当時、恐ろしかった映像でも、時代を経るとかえって噴飯物になってしまう映像もあるのだということを分からせてくれたのが、この「スパイダー・ウォーク」映像でした。 勿論、後年に見られるような、ただ血が噴き出るばかりのスプラッター物とは訳が違います。

 

 何事も順番で進化していくので、ホラー映画という分野に多大なる影響を与えたという意味でも、この作品が映画史に残したインパクトは軽視することは出来ません。

 

 タブーを扱う勇気を持っていて、実際に見事な作品に完成させたフリードキン監督は、当時のハリウッド・スタイルの低迷とアメリカン・ニューシネマの隆盛の歪みの中で、製作に没頭することが出来ました。

 

 自信を失くしかけていた、既成概念でしか判断できないメジャー会社の重役達にとっては、このような若い連中の感覚は理解しがたいものであったとは思いますが、算盤に合うのならば、なんでも商売に結び付けていく、彼らの金への嗅覚は流石です。切捨ての早さも。

 

 実際、ハッピー・エンドを迎えることの少ないニュー・シネマは数々の名作を残しているにもかかわらず徐々に衰退して、かつてのハリウッド・スタイルが復活して現在に至っています。

 

 日曜日にショッピング・センターで家族と共に見れる、子供でもわかる、CG全盛の単純な見世物に落ちぶれた今の作品には、ニュー・シネマ世代の持っていたプライドは微塵もない。ニュー・シネマの衰退はアメリカの文化の衰退でもあるのではなかろうか。

 

 昔はどうしても、ストーリーから映画に入ってしまう傾向が強かったのですが、今回のように一歩引いて見ていると、今まで見えていなかったもの(例えば特撮部分の意外な少なさ、結局のところ最後に勝つのは悪魔だったという引っかかるラストシーン、

 

 後年のスプラッターとはまるで違う脚本の重み、アップ映像よりもむしろ引いた位置にあるカメラがそのシーン全体を引き締めている等)を発見して、今までとは違う見方が出来ました。

 

 作品が公開された、1970年代というと、60年代の興奮と失望からか、厭世的な、そして刹那的な感覚が世界中を覆っていた時代でもあります。科学への失望もその中に含まれているかもしれません。

 

 悪魔祓いという現実の前では、最新の医療科学は、なんの解決方法も示せない。科学が万能ではないことへの恐怖、家族がコミュニケーション機能を失って崩壊していく恐怖(ブレアの家族とカラスの家族)を描いたのが、この作品の意義だったのではないでしょうか。

 

 ブレアが悪魔に憑かれて、スラングをわめき散らし、みんなの前で放尿したり、十字架を陰部に突き刺すのは、ロック音楽、低俗なTVショー、そして性モラルの崩壊などへの皮肉に満ちた隠喩でしょう。悪魔の名を借りた、現代人の倫理観の喪失をこの映画は表現したかったのだろうか。

 

 最近の映画を観ていると後々まで考えさせてくれる、言い換えると余韻を残す作品が非常に少なくなっているように感じます。ジャンルにかかわらず、よい作品は必ず何年もあとを引く(又は心に引っかかり続ける)ものなのではないでしょうか。そういう作品を観続けたいものです。

 

総合評価 93点 エクソシスト ディレクターズカット版

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