良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ザ・力道山』(1983)39歳で逝った、空手チョップで日本を救った昭和最大のヒーロー。

 1983年に高橋伴明監督、村松友視製作で公開されたこの作品が、まさにこの1983年に公開された意義は実に大きいものでした。しかし、それに気付いたのは残念ながらつい最近のことでした。『わたし、プロレスの味方です』の著書で知られた村松が、わざわざこれを製作した背景にあるのは、おそらく何事にもルーツがあり、その根源を探ることによってはじめて、未来に繋がっていくという思いがあったのではないでしょうか。

 1983年という、プロレス全盛期に公開されたこの作品は、当時それほど話題になった作品ではありませんでした。象徴的に挿入されるPWFの「ジャイアント馬場対スタン・ハンセン」の映像と、IWGPの「アントニオ猪木ハルク・ホーガン」の映像。力道山の弟子二人の生き様をもコラージュしてから、この作品はスタートします。

 格闘技ファン以外には、全く興味のないかもしれない、この作品及びプロレスを中心にした格闘技界の流れを、この20年間についてだけでも書くのも無意味ではないかと思い、書き綴ります。なんせ、野球と共に、昭和の多くの観客を魅了し続けた一方の雄であるプロレスについて、映画サイトで読まれることなど、おそらくあまりないと思われますので。

 1981年に、まず国際プロレス(スポンサーは東京12チャンネル)が崩壊し、ラッシャー木村アニマル浜口らが親日に活路を求め、拒否された後、前者はUWFを経て、阿修羅・原らと共に、馬場の主宰する全日本プロレス(スポンサーは日本テレビ)へ、後者は長州のパートナーとしてジャパン・プロレスを旗揚げしながら、全日の興行に参加しましたが、それは後の話。

  明けて、1983年になりましたが、なんといっても、この年の最大の話題は、アントニオ猪木の主宰した新日本プロレス(スポンサーはテレビ朝日)が大々的に興行を打った『IWGP』でした。各国のチャンピオンたちを集めて、真のチャンピオンを決めるという発想のもと、ハルク・ホーガンアンドレ・ザ・ジャイアントキラー・カーン前田日明などが参戦して、連日館内を大いに賑わせていました。

 新日はこのビッグ・イヴェント以外でも、1981年の対ダイナマイト・キッド戦でのデビュー以来、タイガー・マスク(初代、佐山聡)が子供を中心に大人気を呼び、長州力の台頭など話題には事欠きませんでした。

 この前後三年間は、まさにプロレス界の覇権を完全に掌握していたのが、新間社長とアントニオ猪木だったのです。肝心のIWGP決勝戦で見せた猪木の惨敗後、徐々に事態は180度の転換を見せ、選手やスポンサーの大量離脱を招き、TV局との関係や猪木個人も選手に専念するなど、わが世の春を謳歌していた人間達の生き様の変転に興味は尽きません。

 その後、革命児の異名をほしいままにした長州力は、アニマル浜口ら(他に小林邦明、後藤達俊ヒロ斉藤マサ斉藤、谷津嘉昭、保坂ら)を引き連れ全日本プロレスに参戦しました。一方で、前田日明佐山聡藤原喜明らはより格闘技色の濃いUWF(第一期UWFであり、参加選手は佐山、前田、高田伸彦山崎一夫、藤原、木戸修空中正三マッハ隼人剛竜馬ラッシャー木村!など)を旗揚げするなどしました。

 母体であった新日本プロレスは選手層が一気に薄くなり、TV放送自体も大変苦しい視聴率低下と、カードのマンネリ化を生みました。その後再び、親日が充実した選手層を回復するのは、彼らが復帰してくる1986年まで待たなくてはなりませんでした。

 興行やギャラの問題で行き詰ったUWFが1985年に崩壊し、前田、藤原、山崎、高田、木戸の五人がUWFの看板を掲げながら親日に復帰しました。1980年代の中盤以降、プロレスと格闘技を結び付けた、最大の功労者は前田日明であり、ドン・ナカヤ・ニールセンとの異種格闘技戦アンドレとのセメント・マッチなど1990年代中盤までのほぼ10年に渡り、常に話題になりました。

 親日に間借りしている時に実施されたこの二試合、親日追放後に立ち上げた新・UWF(WOWOWで放映が決まったが、崩壊のため実現せず)で人気沸騰し、現在のプライド(メイン・スポンサーはスカパー)やKー1(主なスポンサーはフジテレビ)の原型ともいえるスタイルで闘い、格闘技ブームに火をつけました。

 その新UWFの崩壊後、「RINGS」(前田つながりでスポンサーはWOWOW)、「UWF・インター」、「藤原組」から「パンクラス」と分かれていき、「PRIDE」に繋がっていく格闘派に比べ、長州が取った行動は親日での実権把握が主でした。まず、1987年に、強引に親日に戻った長州は格闘路線に異を唱え、自分が主張する世代間の闘争に変化させ、格闘技的プロレスを支持していたUWF系ファンからは全く支持されませんでした。

 結果として、格闘技系方向を模索する選手達は、徐々に非主流に追いやられていきました。その代わりに台頭したのが、闘魂三銃士と呼ばれた橋本真也蝶野正洋(NWO)、武藤敬司の三人でした。彼らは反目しながらも、親日を支え、更なる隆盛の基盤を作っていきました。

 格闘路線を継承したのは唯一橋本のみであり、小川直也との一連の抗争や、その後のハッスルでの協力など記憶に新しい。親日出身で、最後の格闘路線継承者は藤田和之選手であり、「PRIDE」で負け続きのプロレス選手たちの中で、桜庭選手(元UWFインター)と共に、勝つ可能性のある彼には常にファンの熱い視線が注がれています。

 ながながと書いてきましたが、これらプロレス団体の基盤を作り上げたのが力道山なのです。観客動員のための話題づくりと、当時マスメディアの寵児であったTVの効果をいち早く見抜き、徹底して利用しました。NHKでプロレスが中継されるなど、今では考えられません。

 試合を中継するカメラの視点も、既に研究し尽くされていたのが驚きで、今現在の中継画面と遜色ありません。スターにしたいレスラーをロー・アングルで撮る事で、力強さをより強調したり、プロレスの試合を、あたかも正義の使者・力道山が悪の外人レスラーを退治する、勧善懲悪の物語に仕立て上げたり、シリーズ最終戦に向けて、観客の興味を繋ぐ「遺恨」を仕立て上げるなど、いまのアメリカン・スタイルでも十分通用するショーマン・シップを発揮しているのが驚異的でした。

 初の日本人同士の対決である「力道山木村政彦」戦が与えたインパクトの大きさは絶大であり、その後20年近く経った「アントニオ猪木ストロング小林」まで主戦級レスラー同士の戦いは、タブー視されていました。注目度は絶大な日本人同士対決を、あえてその後に封印した力道山の興行センスの素晴らしさも興味深い。

 なぜならば、本当に興行が立ち行かなくなってきてからでも、十分に同門対決路線に変換できるからです。外人をやっつける路線が、人気絶頂だった時に、わざわざやる必要がない。

 ほとんどすべての興行手法と経営方法を編み出したくれていた彼がいたからこそ、彼の死後崩壊した「日本プロレス」のあと、すぐに猪木はテレビ朝日と手を結び、親日の母体となる東京プロレスを立ち上げ、馬場は日本テレビと放送確約を取ってから全日を立ち上げることが可能だったのです。

 弟子たちはプロレスをさらに進化させ、異種格闘技戦や日本人抗争など血生臭い格闘路線は猪木に引き継がれ、スター選手を多く来日させ、世界選手権を戦う外人路線は、ジャイアント馬場が引き継いでいきました。そしてそれぞれの欲望と夢を追い続けて、冒頭の1983年に繋がっていくのです。

 たしかに「空手チョップ」は今の目で見ると、お笑いの対象になってしまうかもしれません。しかし、敗戦で打ちひしがれて、夢も希望も失くしかけていた国民にとって、彼がシャープ兄弟ジェス・オルテガボボ・ブラジル、そしてフレッド・ブラッシーなど、バカでかい外人選手をバタバタと倒していく様は、外人コンプレックスを抱える国民には壮観であり、復興の象徴として果たした意味と意義を軽視することは出来ません。

 在日朝鮮人であるために、日本相撲協会の反対で、大関横綱に昇進できなかった力道山がもし今生まれていたならば、普通に横綱になっていたでしょうし、プロレス入りすることもなかったかもしれません。どちらが幸せだったのだろう。横綱はこれからも誕生していきますが、力道山のようなスーパーヒーローは二度と現れることはないでしょう。

総合評価 62点