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他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『戦艦ポチョムキン』(1925)完璧なモンタージュと映像表現の巧みさ。映画ファンは必見。

  『戦艦ポチョムキン』は革命ロシア(ソ連ですね。)の最大の巨匠、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の残した作品の中でも、とりわけ人気が高く、東西陣営問わず、その後の映画人に与えた尋常ではない影響力の大きさにおいて、他に類を見ない怪物のようなフィルムの固まりです。

 彼の代名詞でもある、モンタージュによって、このフィルムに出演したグリゴリー・ワクリンチェクをはじめとするキャラクターたちは革命ロシアが崩壊した現在でも、力強く生き続けています。

 歴史に残る映画は沢山あります。そのなかでも『戦艦ポチョムキン』という名前を聞いたことはあるが、まだ見たことはないという方も多いかと思います。なぜだろう。サイレント映画だから?プロパガンダ映画だから?古い映画だから?非常にもったいない。

 時代を超えて生き続ける力が、確かにこの作品にはあります。この作品及び、オーソン・ウェルズ監督の不朽の名作『市民ケーン』はまさしく映画芸術の革命なのです。

 テーマと芸術性が完全に一致した、まさに完璧な映画こそが『戦艦ポチョムキン』です。プロパガンダ映画という側面があるため、左翼思想の臭いを嗅ぐのが嫌な方には耐えられない表現もあるかもしれません。しかし、そのような狭い考えをしばし捨てて、作品に没頭してみてください。敵を知る事がどれほど役に立つかを理解するためにも、この作品を見る必要がある。

 物語は二部構成で、第一部は第一次ロシア革命の、まさに革命前夜の戦艦ポチョムキン内で起こった兵士達の反乱の様子を、そして第二部は有名なオデッサ階段での大虐殺をエイゼンシュテイン監督の卓越した映画表現技術とモンタージュで、政治的に無知な大衆である観客を教化する為に一定の方向に導いていきます。

 映像の断片を作為的に編集して、観客の感情と精神をコントロールしようとするのがモンタージュ理論の凄みです。何故、一本の映画を観て感動するのか。考えさせられるのか。怒りが込み上げるのか。思い出に耽るのか。モンタージュ理論は回答を与えてくれる考え方のひとつと言えるのかもしれません。

 映像表現自体はかなり誇張された表現が用いられています。わざとらしいと感じる方もいるかとは思いますが、映画において分かりやすさというのは成功させるために、非常に重要な要素のひとつです。上官たちは常に意地悪そうな表情をしている。また兵士たちが概ね集団で映されるのに対して、常に一人で画面を占領している事が多い。

 帝政の圧迫と上官の圧迫を結びつけ、兵士に対してはバラバラにならずに、常に集団でいることの重要性を映像でも語っていきます。個よりも全体を重んじる共産主義思想に合致する映像の組み立てを行っています。ロシア軍が大勢で映る時には統一された運動(行動)を行わせる事により、没個性的で、かつ非人間的な印象を観る者に与えます。

 まあ実際には共産党政権こそ没個性的で、非人間的なのは明らかなのですが、共産党に有利な宣伝映画なので仕方ありません。ただ考えていただきたいのは左翼政権によって制作された、偏ったプロパガンダだから下らないかといえば、そうではないという事です。

 モノクロ映画ではありますが、キャラクターの色分けもはっきりとなされ、ボルシェビキの実動部隊となる下級兵士達には白の衣装を着せて、純真なイメージを刷り込んでいき、対照的に帝政ロシアの士官達には黒の衣装を着せて、威圧感と暴力的なイメージを持たせます。

 一つ一つをとれば、随分と単純なイメージなのですが、これらのイメージが何重にも重ねられていくととてつもなく強固になり、ボルシェビキに対する、大衆の感情移入を容易にしていきます。

 この作品で象徴的なのは図形や物体のイメージであり、円、大砲、十字、幾何学模様、左右対称形、腐った肉、動物(鴉やライオン)が繰り返し用いられています。とりわけ円が表すのはあるときは民衆の団結であり、あるときは後戻りできない変化(車輪や歯車)、大砲は怒りと生命力を表しているようです。

 十字と鴉は不吉な死、左右対称は緊張状態、腐った肉は帝政ロシア、ライオンは民衆の誇りと怒りを表しているようです。解釈が間違っていたら申し訳ない。あくまでも主観的にそう思っただけです。

 腐った肉は第一部のもっとも重要なイメージです。腐り切った肉には新鮮な精神は宿っていません。これはロシア軍であり、その上に位置する皇帝と帝国そのもののシステムを端的に表したのが、この蛆の湧いた腐った肉なのです。

 古いものを打破して、新しいものを作り出す、ロシア革命を起こすきっかけとなるポチョムキンでの暴動が、実は食べ物のトラブルが原因と思ってしまうといささかレベルの低さを感じますが、そうではなく、これが象徴しているのはロシアの現状そのものなのです。

 しかし一般大衆の感覚からすれば、人並みに喰わしてくれる政府が良い政府というのは当然です。そうした意味においては老後の面倒を見ようとしない、つまり喰わせられないわが国の政府与党には厳しい没落が待ち受けているだろう。

 餓死者が出だしたならば、そう遠くない未来に反乱が起こっても不思議ではない。西南戦争以来、内戦のないわが国ではありますが、これからもないとは誰も保障できない。

 また、ソ連も結局は国民を食わせられなくなったから滅んだのであって、民主主義とか自由は決定的な要因ではない。帝政ロシアソ連も今のロシアも国民にしろ政治家にしろ本質は何も変わっているようには思えない。 

 肉体を包み込むファッションが変わっただけで、たまたま革命ロシア・ファッション(マルクス主義)がロシア発のモードとして全世界で流行っただけに過ぎない。飽きると捨てられるのは当然です。

 それはさておき、この映画には暗号のように隠された図形イメージが山のように映像の中に秘められています。大砲は何度も挿入されるイメージですが、すべてが同じ意味に用いられているわけではない。

 ある時は団結を、ある時は怒りが爆発する前触れのように砲の角度を上げていきます。帝政ロシア軍の銃剣との比較では、より大きい大砲はロシア軍よりもボルシェビキが優れていると誘導していると受け取ることもできる。

 うがった見方をするならば、性的に見た場合に、腰から構えるロシア兵の銃剣は勃起してはいるが角度の低い、老人のような、か細いペニスのようでもあるのに対して、ポチョムキンの大砲は大きく勃起した巨大な男根のようでもある。現政権とこれから出来ようとする革命政府の生命力の強さの差を表すのが、この銃と大砲である。

 画面に占める登場人物たちの大きさにも注目すべきです。反乱前夜の兵士達は小さく、そして低く描かれ、上官は単独でロー・アングルもしくは画面一杯に登場する。一部の特権階級が権力を握ることへの大衆の怒りを誘導するようにモンタージュされていきます。

 この画面構図は作品全体で通して用いられ、ロシア軍の上官は常に孤独であり、ボルシェビキ兵士は常に皆と一緒に画面に登場します。このへんはかなり作為的で、独善的な映像のオンパレードになってきます。というか作品全体がかなり偏った見方を我々に強要してきます。モンタージュ恐るべし。

 十字架とマストのイメージが固定されていて、この作品ではこの二つは死を予告するイメージとして登場します。共産党政権が誕生すると、当然ですが、キリスト教は弾圧されますが、ここでも宗教は権力側に協力して、民衆の味方にはならない印象を植え付ける。神父はかなり醜く、魅力的な存在としては描かれてはいません。独善的な共産党らしい演出であります。

 そしてこれは二部で出てくるイメージなのですが、3頭のライオン像のモンタージュの凄みは作品中でも一二を争う素晴らしさです。寝ているライオン像、立ち上がろうとするライオン像、咆哮するライオン像を順番にモンタージュすることで、あたかもライオンが深い眠りから醒めて、怒りを込めてロシア軍に襲い掛かるように見えます。

 ロング・ショットで撮られる、ポチョムキン海上を進むシーンでは、喫水線を挟んで上に浮かぶ実際の戦艦と海面に鏡のように映るポチョムキンの映像は美しい。その他の水のシーンに関しても、美しさと力強さが同居する撮影がされていて、全篇通して見ていても驚くほど隙のない作品です。

 映像の中に、いわゆる遊びがまったくないので、息を抜けるシーンがない。共産党政権らしい無駄のなさ、抜け目のなさは流石である。短い割には疲労を感じます。

 構図も見事で、水兵の処刑シーンでは海、大砲、上官、武装した親衛隊によって、スクリーン内でも袋小路に閉じ込められる水兵たちの様子を映像で語ります。水兵ワクリンチェクが銃撃されて、宙吊りになるシーンはまさに生贄として神に捧げられるようでした。

 幾何学模様のイメージと図形の連続性や、卓越した構図を読み解いていくと、ただ見ているよりも楽しみは倍増する、まさに映像パズルのような作品です。モンタージュによって導き出される物語の劇的効果を一番味わえる映画が、1925年に既に制作されていました。

 彼がもし西側に生まれ、キャリアをフランス、イタリア、もしくはアメリカで始めていたならば、D・W・グリフィス、フリッツ・ラングジャン・ルノワールエリッヒ・フォン・シュトロハイム監督と並び賞されるだけの巨匠として語り継がれたに違いない。作品数ももっと増えていたに違いない。

 多くの美しい構図と卓越したモンタージュで、観客を自らの映像世界に引きずりこんでからいよいよ始まるのが、映画史上でもおそらく最も有名な「オデッサ階段の大虐殺」シークエンスです。映画の教科書ともいえる6分間に渡るシークエンスは驚異の映像が繋がり続ける、エイゼンシュテイン監督の一世一代のモンタージュでした。

 ここでのロシア兵たちは冷血な殺人マシンとして描かれ、人間としての存在感を極力出さないように集合体として機械的に動き、背中から撮られたり、軍靴を踏み鳴らす足元だけを強調して撮られたり、顔が映る時には光を当てず、影で顔が分からないように撮影するなど徹底して人間性を排除しています。

 虐殺される民衆達はドラマチックに描かれ、聖者が生贄として捧げられるような印象があります。ロー・アングル、クロース・アップ、スローモーション、クロス・カッティング、カット・バック、細かいカット割を駆使してモンタージュを形成したこのシークエンスは、これ以上ないほどに劇的に仕上げられました。

 しかもこの作品には一般の作品で当たり前のように用いられるカメラの動きであるパンもティルトも一切使われていません。固定されたカメラでもこれだけ劇的に観客の感情を誘導できるのです。

 無名の犠牲者達は大写しのクロース・アップで撮影され、彼らが迎える悲劇性もあり、観客が肩入れしやすいように構成している。このシーンの直前に来るのが3頭のライオンのモンタージュです。

 子供の死体を踏みつけて逃げ惑う大人達の狼狽振り、子供を殺された母親が死んだ子供を抱え、ロシアの兵隊達を非難するシーン(彼女もすぐ銃殺されます)は似たような映像を多くの映画で見かけます。

 そしてこの作品の中でも、特に有名な、最大の見所といっても良いのは乳母車を引いた母親が銃撃され、赤ん坊を乗せたまま階段を滑り落ちていくシーンです。このシーンは、のちにブライアン・デ・パルマ監督が『アンタッチャブル』で見事に再現しました。

 母親と子供を虐殺するのがロシア兵というのはあまりにも作為的で、共産党の独善ぶりに唾を吐きたくなるほどの映像ですが、大衆がどういう対象に好意的であるかを知り尽くして構成されたこのシークエンスはある意味で映画の何たるかを理解しているともいえます。モブ・シーンとしても優れていて、よくもあれだけの人数を演出しきったものだと感心します。

 兵士達が階段の上から威圧するように民衆に銃を向けるのも映画的でした。虐殺が行われる中、ついにポチョムキンはロシア軍に向けて、その怒りの大砲を発射します。蹴散らされるロシア軍と知らぬ間にそれを支持している観客の感情の動き。まんまとモンタージュにひっかけられます。

 大砲発砲後の戦闘シーンはあっさりと過ぎてしまい拍子抜けしますが、これ以上の濃度で構成された戦闘シーンにはついて行けなくなっています。緊張状態がひたすら続く展開には精神的にかなり疲れてしまいます。そういう意味ではこれ以上の戦闘は必要なかったのかもしれません。

 次のシーンでは航海中のポチョムキンを追走してくるロシア艦隊との一触即発の緊張状態に入っていきます。クロス・カッティングと緊張感溢れる乗組員達のクロース・アップの表情から、来るべき艦隊戦闘へのサスペンスが最大限に高まっていきますが、土壇場でロシア艦隊がボルシェビキに同調する動きを見せ、一気に大団円に向かいます。緊張と弛緩のバランスが絶妙でした。

 この作品は何回見ても楽しめる作品です。映像の連続性が目を刺激し、感情を誘導していきます。これぞモンタージュといえる典型的な作品なので、難しく感じるかもしれません。ロシアの歴史を知れば、さらに楽しみが増える作品だと思います。

 革命を成功させたのは共産党だけではなく、アナキストもいたはずですが、彼らの功績は完全に無視され、無かったことにされています。あくまでも共産党主観に基づくプロパガンダではありますが、映像表現の素晴らしさと編集の巧みさからは学ぶべき事が数多くあります。

総合評価 91点

戦艦ポチョムキン

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