良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ダヴィンチ・コード』(2006)批評家にはブーイング、観客には拍手を浴びた作品とは?

 本日、観に行ってきました。平日という事もあり、500人程度収容されるスペースには150人くらいが収まっていました。結構新しい設備だったので、音も良く、席も後ろの方の真ん中を確保できたので、まあ上出来でした。

 不満だったのは最近というか、ここ何年かでよくあるのですが、大ヒット作品には必ずふだん映画をまったく観ない輩が来ることです。やりたい放題やって、館内の雰囲気を台無しにする彼らのマナーの最悪さには腹が立ちます。携帯は付けっぱなし、メールしたりする阿呆もいました。

<以下はネタバレもあります。ミステリー物なので、未見の方はご注意ください。>

  全世界で累計5000万部を超える、大ベストセラーとなった小説を映画化したのが、このロン・ハワード監督作品となる『ダヴィンチ・コード』です。原作の中で、何度も繰り返し出てくる言語パズルは小説を読んでいく時の楽しみの一つでしたが、映画化されるに当たり、重要度の比較的低いと思われるプロットとともに、謎解きの数自体もかなり激減していました。

 また小説では美術、宗教、占星術、西洋文字の象徴について多く言及されていて、興味深い内容が沢山ありましたが、それらのほとんどは映画化にとっては障害になったためか、ほぼ完全に欠落していました。

 読んでいて、楽しかったこれらのエピソードが無くなっていることは残念でしたが、映像でこれらの記号の面白さを語るのは難しいので仕方ありません。映画としては削除したのは賢明であったと思います。ごちゃごちゃし過ぎると、観客に伝わり難くなってしまうので、演出の判断としてそうせざるを得なかったのでしょう。

 監督として目指したのは、カトリック教会にとってはタブーともいえる、キリストの子孫についてのフィクションと聖杯伝説とを結びつけたユニークでセンセーショナルな仮説に加え、アクション映画の要素とミステリーの要素をブレンドした、芸術的にも知的にも楽しめる娯楽映画だったのではないでしょうか。

 多くの西洋美術作品を収蔵しているルーブル美術館を舞台に使って、アクション映画を撮ったのはかなり稀少で、撮影にもかなり気を使った様子が画面にも緊張感として出てきているように思えます。凛とした、張りつめたような空気を映像からでも見ることが出来る。

 ただ、もっとこの素晴らしい美術館の良さをアピール出来たとは思います。監督はじめ、スタッフが場の雰囲気に呑まれているのではないだろうか。効果的なシーンをもっと撮れたのではないかと思います。絵画に傷をつけてはならない、建物にも傷をつけてはならないのは分かりますので、これが限界だったのかもしれません。

 原作ではルネサンス期の絵画(10億円相当)を楯に使って、武装した警備員の銃撃から逃れるシーンがあり、この小説の中でもお気に入りのシーンだったのですが、このシーンは映画ではカットされていました。

 カメラも落ち着いていて、バタバタ動かなかったのは作品に威厳を与える意味でも評価してよい点でしょう。照明の重々しさも作品のテーマと合致していて、優れた映像の雰囲気を作り出しています。

 映像表現ではウィトルウィウス的人体図モナリザロンギヌスの槍(スピアという文字が表すもの)、林檎、クリプテックス(ダイヤル式の鍵で、自転車とかに使うナンバーを合わせて開錠する奴)、ダヴィデの星、最後の晩餐、岩窟の聖母、ガーゴイルテンプル騎士団、百合、薔薇、十字架、五ボウ(草かんむりに亡)星などのオカルト、ルネサンス、宗教的なイメージを作品に上手く取り込んでいます。

 台詞の中にもフリーメイソンシオン修道会(実在せず。)、シリス、魔女狩り13日の金曜日などオカルト的な想像を膨らませる言葉がちりばめられていて、作品の神秘性を高めていく。虚構と現実を巧みに取り込み、真実のように語っていく話法は詐欺師のそれではありますが、作品中において、とてもリアルに見せていくので、効果的なやり方と言えるのかもしれません。

 映像イメージという点では、法衣を纏う聖職者のすべてが悪役というのも大変珍しい作りです。偽善かつ独善的な魔女狩りや騎士団虐殺の映像に聖職者のイメージを重ねると、モンタージュにより、聖職者がすべて悪の象徴に思えてきます。カソリック教会にすれば、このような表現はある一面において当たっているだけに余計神経を尖らせて、この作品の批判に回ったのでしょう。

 この作品から受け取る教会のイメージは最悪で、荘厳な建築物や美術品とは反比例して、時代遅れな教義を押し付ける人々、裏切り、殺人、謀略、嫉妬に溢れたまさに7つの罪を背負った悪の権化として描かれています。

 『最後の誘惑』もキリストを人間の預言者として扱い、セックス・シーンを入れるなど人間臭さを強調した描写のために大問題になりましたが、あの作品では教会そのものをあからさまに批判していたわけではありません。

 しかしこの作品ではイメージとしても、台詞中でも頻繁に欺瞞に満ちた教会に対して批判を浴びせ続けます。原作でもかなり教会を批判していますが、映画ではより単純化され、デフォルメされ、さらに悪のイメージを強調していたように思えました。

 聖杯とはマグダラのマリアの子宮、突き詰めればキリストの子孫の秘密の事であるという話の展開はカソリック教会には受けいれる事など到底出来ない神への冒涜であり、1000年以上守り続けているキリストの神としての権威を失墜させる、言い換えれば自分達の地位をも脅かす危険思想なのです。

 キリストを単なるユダヤ人の預言者に過ぎないと言ってしまえば、自分達が仕えているのは2000年前に処刑された、死者の一人にランクが下がってしまいます。マリアの名誉回復も行われていて、彼女はキリストの妻であり、娼婦というのは後の男尊女卑の古い慣習にしがみついていた教会のでっち上げだという事を暴露します。

 生まれながらの神、処女生誕の伝説、三位一体の神など訳のわからない虚構がすべて崩れるのは権威失墜を招き、寄付金その他の減少を招きます。聖書に向かって、つばを吐きつけるような内容を持つこの作品を排斥したいのは分かりますが、21世紀の世の中で異端裁判は流石に出来ないでしょうから、信者に観るなと呼びかけるくらいが関の山なのでしょう。

 こういった映画がまがりなりにも全世界で一斉に公開されるというのは教会の権威がいよいよ失墜してきている事をはからずしも証明してしまったのではないでしょうか。たかが一フィクション映画に対して、信者に観るなとお触れを出すほどの狼狽振りがなんとも情けない限りです。

 でんと構えていれば、すぐに忘れ去られるのにわざわざ声高に排撃すれば、ただ単に映画の強力な宣伝をしているのと変わりがありません。キリスト教の精神のひとつに他者への寛容があったと記憶していますが、今の状態はまさにイントレランスです。

 演技のほうで目立っていたのはドラマ上の主役(「主」役か?)を務めたオドレイ・トトゥの素晴らしさに尽きます。どこか陰のある、魅力的な警察官を演じていました。彼女の出ていた作品というと、フランス語での演技しか記憶にないのですが、英語を使ってもしっかりとやれるのが証明されましたので、これからはハリウッドでの仕事が増えてくるかもしれません。

 彼女のフランス語はかなり可愛らしくて、出来ればこのままフランス語を使って女優業をし続けて欲しいのですが、多分オファーが増えるでしょうから、当分は英語の演技が続くかもしれません。その他、脇を固めるトム・ハンクス(ラングドン)、イアン・マッケランティービング)、ジャン・レノ(ファーシュ)、ポール・ベタニー(シラス)が皆印象に残るキャラクターを演じていました。

 賛否両論あるかもしれませんが、娯楽映画としては原作のテイストを損なうことなく、上手く描ききっているのではないでしょうか。カンヌでブーイングされたと聞きましたが、作品のテーマに対してのものだったのでしょうか。

 純粋に映画的に見た場合には、この作品は歴史に残るほどの優秀な映像美をもつ作品とは言えませんが、非難されるほど質の低い作品とも思えません。スキャンダラスな映画としてだけ記憶されるには惜しい映画です。

総合評価 74点