良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ゴルゴダの丘』(1935)一般的な解釈に基づいていますが、映像テクニックに優れています。

 『ゴルゴダの丘』は1935年のジュリアン・デュヴィヴィエ監督作品で、カトリック信者の寄付を得て、5年の歳月をかけて作られた、聖書に忠実な映画です。解釈も一般的なものであり、物議を醸すような奇抜な演出はありません。まあ、スポンサーに一般人の浄財をいただきながら、彼らの信仰を傷つけるようなものを撮るわけにはいきません。

 キリスト役にロベール・ル・ヴィギャン、ピラト役にジャン・ギャバンを招聘したため、しっかりした作品として仕上げられています。エルサレムの町のミニチュアと人々が同じ画面上に描かれているのはおそらく特撮なので、マット合成か、リア・プロテクションでしょう。

 1935年にはすでにあったのでしょうか?しかしこれ以外にはやれるとしたら、ミニチュアを遠くに配置しながら、カメラの遠近感を利用して手前で芝居させるぐらいしかありません。

 この作品でとりわけ優れているのはモブ・シーンでの迫力です。キリストを迫害する場面、讒言する場面、十字架を担いでゴルゴダへ向かう場面、そしてゴルゴダの丘の場面、その他集団の雑踏を臨場感に溢れる素晴らしい場面として描き切っています。

 これらの場面に貢献したのは撮影のジュール・クリュージュであり、音楽・音響のジャック・アイバートです。この二人の貢献度は非常に高く、今見ていても迫力のある音と映像の融合を実践しています。

 撮り方にも工夫が凝らされ、キリストを他の人間と区別する時にはハレーション気味に光を当て、眩さを演出しています。苦悩する時には顔に影を当てて、感情の曇りを表しています。支配者層が映る時にはロー・アングルを用い、民衆は蔑まれるように画面の下で蠢いている映像が多い。

 クレーン、もしくは建物の上から見下すように、突き放すように捉えるロング・ショットがとても効果的で、人間の愚かさをより強調していました。ロングの絵とクロース・アップの絵が上手く編集して、感情を表そうとしているのはモンタージュ理論やグリフィスの作風から取られているのでしょう。

 ドリー、パン、クロース・アップ、ドリーにより対象に近づいていってズーム効果を上げようとするカメラの動きなどは見ていて、彼らスタッフの撮影への熱意を感じました。これら撮影テクニックの組み合わせを最も駆使していたのが、ユダが変節する場面でした。

 ユダを誘惑する前にまずは民衆によるモブ・シーンがあり、パンとドリーを繰り返し用いて、徐々にユダヤ教のラビ達と善からぬ相談をしている暗い路地裏にカメラが移動してくるシーンに繋がっていくのですが、この時のカメラワークと群集のエキストラの演技が素晴らしく、見応え十分でした。

 引きのショットで撮られていて、パンとドリーの組み合わせを使うので、100M以上もの道を群集で埋め尽くさなければならなかったのではなかろうか。このシーンにこれだけの緊張感があるのは、演出するデュヴィヴィエと監督が、何処のシーンが一番のポイントなのかを知っていたからこその演出だったのではないでしょうか。

 キリストの苦難はもちろん絵になるシーンではありますが、それのきっかけを作ったのはユダの裏切りである。そう映像で語っているように思えました。雑踏からユダのクロース・アップまでの連続した映像が最も記憶に残りました。『最後の晩餐』を映像化したシーンも印象に残っています。

 映像の意図的な演出としては、キリストや十二使徒が若々しい役者によって、背筋を伸ばして演じられているのに対して、ユダヤ教のラビ達や司祭はすべて腰が曲がっているか、姿勢が悪い年寄りばかりという映像があります。これは旧態依然とした古い宗教であるユダヤ教と、新興宗教であるキリスト教の明るい未来を対比して見せる効果を生んでいます。

 また音のオンとオフの感覚が素晴らしく、何でもかんでもトーキーだから、音をぶち込んでいけという乱暴な感覚ではなく、繊細な音への意識をうかがうことが出来ます。フランス人の音や映像の感覚なのでしょうか。作品をより効果的に演出しています。

 特に素晴らしいのが先ほどもちらりと触れた群集シーンでの音の使い方です。活気や混雑が必要な場面ではそれらの雑踏の様子を強調し、会話が始まれば、音のレベルを下げ、会話音の大きさを上げていく。

 細かく、そしてありふれたテクニックですが、題材がシンプルなものには、妙にわざとらしい音を使うより、何気ない現実音の使い方を工夫していった方が良い効果を生む事があるようです。

 映画はその後、民衆を目前にしたピラトによる裁き、鞭打ちの刑、荊の冠をかぶったキリストが十字架を担いで街中を抜けていくシーン、いよいよゴルゴダに着いて磔に処されるシーンと繋がっていきます。

 一般的な史実どおりに進んでいきました。丘を登っていく途中で、大衆が丘を埋め尽くす場面があり、彼らは画面下に位置づけられて、自分達の価値が低い事を決定される。

 彼ら大衆の上に、キリストをはじめとして、3本の十字架が位置する。さらに十字架の上には暗雲立ち込める不穏な雲が現れていて、これからのユダヤの民の将来を予測させています。

 このシーンには、映像として、とても圧倒的な力強さを感じます。民衆と十字架の上に来る雲はおそらくマット合成だと思いますが、迫力が出ていました。キリストがまさに死なんとする時、平和の象徴である鳩が大量にエルサレムの地から羽ばたく様子はユダヤの地には平和はもはやなくなったという暗示でしょう。

 キリストの最後を映画化した作品を観た時に、いつも思うことなのですが、ユダは確かに金目当てにキリストを裏切りましたが、自分がした事の罪の大きさを知り、一人で首吊り自殺して果てます。

 ペテロはキリストが追い詰められている時、何もせず、「キリストなど知らない」と3度も言って逃げる始末でした。特に3回目はキリストを目の前にして知らないと言ってのけます。どちらが罪深いのでしょうか。どちらが卑怯者でしょうか。

総合評価 74点