良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『チート』(1915)日本人初のハリウッド・スター、早川雪洲が登場する貴重な作品。

 『THE CHEAT』は第一次大戦前の1915年に、後の巨匠、セシル・B・デミル監督が撮った傑作シネマ(劇映画)であるばかりではなく、日本人として初のハリウッド・スターとなった早川雪洲の代表作といってよい作品でもあいます。  ミステリアスな雰囲気を持つ雪洲ですが、彼の気味の悪いニヤリとした表情がなんとも言えない不思議な魅力を放っています。稀代の悪役の匂いを画面から静かに、ひたひたと迫ってくるように撒き散らしています。  コントラストをはっきりさせた照明や、早川の書斎セットにある調度類もオリエンタルなムードを醸し出し、彼の魅力と神秘性を高めている。画面全体で、彼のキャラクターを強化している感じがします。20世紀初頭に東洋文化をふんだんに取り入れていれば、神秘的なキャラクターを作り出すのはそんなに難しい事ではなかったのではなかろうか。  話は飛びますが、アメリカ人が日本人を理解しているかはかなり疑問があります。今では情報は何処にでも落ちていますが、80年代でもアメリカ人が日本文化を知っていたとは思えない。ニューヨークの自然博物館には各国の文化を紹介するパビリオンが存在していたのですが、ここで紹介されている日本はまさに漫画の世界なのです。  どのような展示かと言いますと、ひな壇のような座敷があり、男(主人)が上の壇のちゃぶ台の前に座り、妻は目を合わせることもなく、三つ指ついて下の壇に座っている。彼はちょんまげを結い、彼女は着物を着ている....。これが「今」の日本の姿として、堂々と紹介されていました。洒落ではなく、本当にそう思っているようでした。  今でもまだあるんだろうか?話を戻します。  彼自身が個性的なのに加えて、さらにデミル監督による劇的な演出が、その魅力を強めてくれているのですから、雪洲は素晴らしいタイミングで、素晴らしい人々に出会ったとしか言いようがありません。もちろん、当時の日本人で外国に行って、一旗挙げようとした彼のフロンティア・スピリットには尊敬の念を覚えます。  しかし成功するには、ある程度の運があれば、そこそこまではいけるでしょう。ただ大成功するには、適切な人との出会い、時との出会い、場所との出会いの全てが揃って、はじめて大成功するチャンスが生まれるのではないでしょうか。彼には必要な全ての要素が揃っていたのです。実力と運とを両方兼ね備えてこそ、本物なのです。  撮り方は当然ながら固定カメラで、場面転換もカットとアイリスイン・アウトを用いていて、時代を感じますが、無声であっても十分に映像で意味を語っているので、まったく音声が要りません。流石はデミル監督であると唸るシーンが多い。  サイレント映画の演技ではどうしても言葉が使えないために過剰とも思える演技を見受けますが、無音という制約の元で、ドラマを制作していき、出来るだけ字幕を入れない工夫をしていくと、行き着くのはジェスチャーによるあのスタイルしかなかったのでしょう。  しかしながらこの作品ではオーヴァーアクトとも言える演技はあまり多くはありません。というよりも必要なかったのです。なぜならばこの作品の監督をしたのはドラマを知るデミル監督だったからです。  彼の演出と編集を持ってすれば、言葉など必要ないほど映像によって、物語や感情の機微を語ることができるのです。最高の監督とは言い難いかもしれませんが、素晴らしい監督であることは間違いありません。  固定カメラとサイレントでも、観客の感情を誘導する事ができる。エイゼンシュテイン監督のようにモンタージュに代表される理論的な難しい事をデミル監督はあからさまには言いません。しかし方法論は一緒なのです。  きちんと構成されたショットの組み合わせと順番があれば、わざわざ主張しなくとも、劇的な効果を上げるのです。フィルムメーカーに徹するか、理論家的監督になるかの違いでしかない。カメラで語ってこそ、映画監督なのです。  プロパガンダのみが編集を理解しているのではないのです。劇映画でも監督の意図通りに観客の感情を操作できます。「ここで泣かそう」とか「不安がらせよう」とかを、カットのリズム、構図、光の当て方、撮影方法、アングルを駆使して、思いのままに操る事が出来るのが真の映画作家ではないでしょうか。  この作品で、最も興味深いのは『THE CHEAT』のタイトルが出てくるタイミングです。なんと上映後25分あまりも経ってから、いきなりタイトルが出てくるのです。裏切りを意味するチートですが、誰の誰に対する裏切りなのでしょうか。  悲劇のヒロイン、浪費家の妻を演じるファニー・ウォードは夫を裏切り、社会を裏切り(慈善パーティの募金を着服して、株の投機に流用)、色仕掛け(雪洲の部屋に一人で行ったり、抱き合いますが、昔の映画ではダンスやキスシーンはセックスの隠喩であり、不倫関係にあることを物語る)に励みながらも、結局は早川を裏切ります。  早川も慈善事業家の皮を被っていますが、金に困ったウォードに焼印を入れ(熱い棒ですから、激しいセックスの暗示でしょう)、手篭めにしようとして撃たれます。慈善事業家が世間のイメージを裏切り、地獄の使者(アOフル)のような取り立て屋に変わります。今の映画ならば、完全にレイプシーンという描写になるのでしょうが、当時ではそんなものは上映できません。  夫は一所懸命に働いたのに妻に裏切られ、潔白を証明する場所である裁判の場において、危うく司法からも裏切られかけますが、夫の深い愛情に気付いた妻の改心により救われます。ただ当時の価値観では妻が浮気をしているのを夫が気付いたならば、プライドに懸けて、ひた隠しにしたはずなので、妻の行動は世間体を考えると裏切りといえるかもしれません。  傷物の妻と彼女を寝取られただんなというのはゴシップのネタに最適ですから、社交界ともおさらばしなければいけない。パーティー好きの妻にとっては死刑宣告を受けたのと大差ない。またダンナにとっても、社交界での出入りがしにくくなるのはコミュニケーションの場を失いことになるので、商売に響いてくる。そう思うとこの作品には勝者は存在しない。  夫の妻への変わらぬ愛が救いではあります。裁判所を去るシーンで、彼らを温かく見守る群衆が道を空けて彼らを通す(『十戒』の海が開くシーンみたいで、笑いそうになりました)という描写もありますので、裏切りに打ち克つ「愛」こそが作品のテーマともいえるかもしれません。  それはさておき、多くの映画監督がいて、それぞれの才能を持ち、センスを持っています。デミル監督の素晴らしさはドラマをよりドラマチックに纏める手腕であろうか。彼本来の才能は長尺を必要としない。彼は短い時間でも十分に彼の持ち味を発揮できます。  のちに『十戒』などの長~い作品を撮ることの多くなるデミル監督ですが、一時間半くらいの作品を撮らせていれば、もっと評価の上がった監督かもしれません。このサイレント作品でも、音をはっきりと感じるモブシーンの巧みさは群を抜いていて、ダンスパーティや裁判シーンでの迫力は100年近く経った今でも失われてはいない。モブ・シーンを迫力ある映像に仕立て上げる才能があるからこそ、大作史劇を多く任されたのかもしれません。 総合評価 85点 十誡/チート
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