良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『黄金狂時代』(1925)見れば分かる映画がある。しかも最高の映画である。

 1925年という、サイレント映画黄金期に制作された、チャーリー・チャップリン監督の最高傑作であるばかりではなく、映画芸術そのものの到達点のひとつがこの『黄金狂時代』である。

 帽子にステッキ、ちょび髭にぶかぶかのズボンと靴、という浮浪者スタイルがトレードマークだった頃のチャップリン監督、不朽の名作となった作品であり、喜劇といってもスラップスティックのように、ただ笑わせるだけではない。

 哀しさ、欲望、貧困、飢え、野垂れ死になど人生の暗い面にスポットを当てて、人間の醜さと酷さ、そしてそれでも人間を愛せずにはいられないチャップリン監督の苦悩と喜びをブレンドしたこの作品は映画史上、もっとも重要な作品のひとつであり、喜劇の最高峰である。

 彼の動き、表情、パントマイムなどは非常に分かりやすく、世界言語としての映画の本質を知り尽くしている。言葉は壁を作り、音楽はイメージを固定してしまう。サイレントの良さは自分で自由に想像して、作品にのめり込める所です。

 どういう声でしゃべっているのだろう、どういう音が響いているのだろう、というクリエイティブな参加を受け入れてきたのがサイレント映画であり、トーキー以降では徐々に観客は想像する立場を失い、現在では完全に与えられる側に成り下がってしまっている。このような隷属的関係は不幸だと思います。

 その中で、この作品の占める位置はサイレント映画の範疇においてもずば抜けて高いところにある。無駄な動き(演技、カメラとも)は一切なく、無駄に流れる時間がない隙のない完璧な喜劇だ。

 捨てショットといえるアラスカの山(実際はネヴァダの山)を仰角で捉えたショットにも自然の脅威という意味が込められており、酒場シーンを見れば明らかなように、画面の手前だけでなく、奥の方でもきちんと演出が加えられている。光も当てられている。

 アラスカの山に黄金を求めて無言で登っていくオープニングを見れば、チャップリン監督がどれほどの意気込みと熱意をこの作品に懸けているかがわかる。ふもとから山頂へひたすらに登っていく開拓者達は全て本物の人間であり、エキストラ達である。彼らの顔は全く映る事はない。しかし彼らは必死で開拓者を演じているのだ。

 迫力あるオープニングであり、冬の映画としても屈指の作品ではないでしょうか。なんせ全篇ひたすら雪が降り積もったアラスカが舞台なのです。苦労する時も、笑う時も、哀しむ時もすべて雪と一緒の映画でした。

 人生の教訓を笑いとともに教えてくれた偉大なる映画人、それがチャップリン監督でした。有名なシーンのひとつに熊との遭遇シーンがあります。狭く足元もおぼつかない雪山で、一人とぼとぼ歩いてゆくチャーリー。彼は前しか見ていないが、後ろには獰猛な熊が彼を食べようと狙っている。結局、チャーリーを食うのを諦める熊ですが、前しか見ていないチャーリーはそんなことは全く知りもしない。

 危険は前から、つまり待ち構えているところからだけ来るのではない、思いもよらない方向から襲ってくるのだ、というのがひとつ。そして、すべての危険が自分を必ず襲ってくるわけでもなく、場合によっては気付かないうちに危険の方から去っていく事もあるのだということが二つ目。

 深いのは二つ目の方です。日頃どうしても人間は不満ばかりで生きていますが、実際には多くの危険を回避しながら暮らしているかもしれないのです。他人によって、知らず知らずのうちに救われていることもあるのです。全く気付かなくとも、後になってみるとよくあの時助かったという事もあるかもしれません。

 私事ですが、あの9・11テロのあった日、僕はちょうどアフガニスタン上空を飛行機で飛んでいました。アメリカ資本か日本の会社だったかは覚えていませんが、打ち落とされる可能性もゼロではありませんでした。

 こんなこともありました。自転車で仕事場に向かっていた時に、かごから急に物が落ち、慌ててブレーキを踏みました。すると目の前、3メートル先を横から車が猛スピードで突っ切っていきました。

 不満ばかり抱えていても、幸せにはなりません。どうせ思い通りに行かないのが人生なのだから、笑いだけは忘れたくはないものです。100のうち、楽しい事は一つか二つかもしれませんが、そのひとつか二つがあれば、生きていけるのも人生ではないか。チャーリーのように前を向いて生きていれば、良いことに出会えるチャンスは残っているのです。

 まあ、チャーリーの場合、あまりにもカッコがみすぼらしかったので、熊が食欲をそそられなかったのかもしれません。おっさんなんて、美味しくなさそうですものね。

 小屋でのシーンにも記憶に残るシーンが数多くあります。格闘するとき、銃口から逃げようとするチャーリーの方向ばかりに恐ろしい銃口が向いてきて、どうやっても逃れられないという演出。飢餓状態に陥ったチャーリーとマック・スウェインが牛革の靴をシチューにして食べるシーン。靴の革や靴紐を何故か上品に食べるチャーリーには笑えます。

 靴を食べてもノイローゼ気味になったマックが幻覚を見て、チャーリーを鶏肉と思い、追いかけて食べようとするシーンなどにも明らかな通り、チャップリン監督にとっては「食べる」ということはかなり重要なモチーフだったようで、『キッド』でもホットケーキを平等に分けるシーンがあるように、食への強い執念を持っているように感じます。

 食が十分に与えられない時に人間がどういう状態に陥り、どれだけ浅ましく醜い存在に成り下がるかを笑い飛ばす、食に関する一連のシークエンスは皮肉っぽいイギリス人を感じます。またそれでも相手への敬意を失わないチャップリン監督には国籍を超えた人間への愛情を感じます。

 小屋でのシーンはどれもこれも素晴らしく、いわばすべてが見所といえる出来栄えです。疑心暗鬼を表す小道具の使い方、音は聞こえないもののたしかに感じる風の強さと豪雪の寒さからは果たして映画に音は必要だったのかという疑問すら出てきます。

 氷が割れて、地割れを起こし、悪人を自然がさばくシーンは秀逸で、特撮効果も迫力がありました。ミニチュアも多用されていて、作り物じみているのは仕方ない部分ではありますが、十分に鑑賞に耐えられるようになっていました。

 ヒロイン(ジョージア・へール)との出会いの場として重要な位置を占める酒場のシーンでの演出は見事でした。喧騒、不健康、嫉妬、欲望、絶望など人間の負の面を力強く描き、自然の厳しさだけではなく、人間世界そのものの厳しさも表現していました。

 またこのシーンでの芝居の演出にもチャップリン監督の強いこだわりを見ることが出来ます。美しく、楽しく、哀しく、騒がしい酒場の奥行きと画面外の拡がりは20年代の作品とは思えない。

 二階奥で演技をしている人々が出す煙草の煙がゆらゆら上がる様とそれを照らし出すランプの光はとても美しい。普通パン・フォーカスというと、オーソン・ウェルズが有名ですが、この酒場のシーンの光量もかなり多いように見受けられます。

 チャーリーが失恋をして、恨めしそうに酒場を覗き込むシーンでの光の使い方は綺麗で、記憶に残ります。窓の格子がまるで彼の失恋を意味する十字架にも見える。

 ボロは着ていても、綺麗な心を持つ男を主人公に据えて、見てくれではない人間の本質とは何かを鋭い洞察力で描き出すチャップリン監督の作品群だが、彼の素晴らしいところは悲惨な状況に置かれていても、それを笑い飛ばす大きな度量と尽きる事のない人間への愛情である。

 フィルムの繋ぎ方がさらに素晴らしいのが、この作品の特徴でもあります。モンタージュというと、ついエイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』などに代表されるように理論的な難しいものを想像します。

 しかしチャップリン監督やグリフィス監督の切れ味は彼にひけをとるものではない。むしろ観客の心に、いかに作品が染み込んでいったかという視点で物を見るならば、エイゼンシュテイン作品はチャップリン作品には敵わないのではないでしょうか。

 笑いと笑いの繋ぎ目に、哀しさと愛情を残していった彼の技、これをモンタージュと呼ぶのではないだろうか。感情を一定方向に持っていくために使われる編集手法をモンタージュと呼ぶのならば、チャップリン監督はその代表と呼ぶべきであろう。

 人間という生き物が、それぞれの人生の中で、いかに危ういバランスとタイミングの上に立って生きているのかを笑いのオブラートで包みながら表現したのが、この『黄金狂時代』だったのではないでしょうか。

 倒壊する小屋、熊との接近遭遇、嵐が来るタイミング(マックがあの小屋に避難してこなければ、チャーリーとは出会わなかっただろうし、罪人の手で殺されていたかもしれない)、金を手に入れてもアイスバーンに落ちてしまう間の悪さなどバランスとタイミングにまつわるさまざまな人間模様が笑いとともにフィルムで語られる。

 最高の演技、演出、脚本に支えられた永遠に輝きを失わない映画です。

総合評価 100点黄金狂時代

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