良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ハイ・シエラ』(1941)ボギーの役者人生において、分岐点となった記念すべき作品。

 この作品、『ハイ・シエラ』に出会う前のボギーといえば、常に悪役ギャング・スターのイメージが強く、役柄も無口で無表情な、陰のある役柄ばかりでした。この作品でもギャングを演じているのですが、決定的な違いがあります。  それは人間としての暖かみやカッコ悪さをも同時に描き出している事です。新境地を開いたボギーは第二次大戦中というハードな時代の要請もあり、『マルタの鷹』、『カサブランカ』、『脱出』などに出演し、主役級の大スターとしてハリウッドで活躍し始めます。戦争というファクターがなければ、彼の下積み時代はもっと長かったかもしれません。  戦争など何処吹く風であった、甘ったるいハリウッドですら、いつまでもベビー・フェイスのスターだけでは作品が成り立たなくなっていたのでしょう。必然があって、ハンフリー・ボガートは大スターの階段を駆け上ったのです。  気高く聳え立つホイットニー山を、下から捉える神々しいエスタブリッシュ・ショットで幕を開けるこの作品は人間の醜い世界を描いた物語です。人間達の薄汚さと美しく気高い山々を対比する感覚は皮肉っぽいが、上手い表現でした。  足元から顔までを舐めるように這い上がってくるカメラはとてもセクシーです。ティルトやドリーも多く用いられていますが、見せびらかすような下世話な真似はせず、あくまでも作品を綺麗に分かりやすく見せるためにテクニックが存在しています。  ろくに意味や効果も分かっていないのに、無用なテクニックに走り、無駄に動き回るカメラや激しいカット割りを個性と勘違いする輩が増え、観辛くて醜い写真を平気な顔をして観客に晒す者がいる。ジャン=リュック・ゴダール監督のように、映画の文法を熟知していて、敢えて崩すのではなく、端から分かっていないのだ。  そして、そのような自慰を才能と囃し立てるマスコミやファンがいる。ますます映画が駄目になる。作品の本質、メッセージ、感情を映像で表現するためにあるのが撮影技法である。もとから崩れた映像は映画ではなく、映像でしかない。映画として成立していない。  ジャンル的に見れば、『ハイ・シェラ』のようなギャング映画はB級作品であり、芸術的なものではなく、娯楽映画だと蔑まれてきました。しかしもともと映画は大衆のものであり、インテリのものではない。分かりやすく、見やすい映画が良い映画なのではないでしょうか。そしてそれは映像の繋がりによって、表現されるべきものであって、台詞によってなされるべきではない。  カイエの人々がヒッチコック監督、ホークス監督、ジョン・フォード監督を褒めるまでは、彼らはただ単に、娯楽映画を撮る職人監督に過ぎませんでした。現在でもそうですが、蔑まれているジャンル映画、例えば特撮映画や日活ロマン・ポルノなどを正当に評価する人が出てくれば、日本の映画文化の成熟度と腐敗度も一気に上がってくるのだろうと思います。  映画は芸術を伴う娯楽であり、娯楽を伴う芸術でもある。これら二つの車の両輪がお互いに機能して、はじめてその映画は価値を持つ。  ではこの『ハイ・シェラ』はどうであろうか。ボギー演じる、ギャングのキャラクターは奥行きが深く、平気で人を殺す悪人としての顔と愛情に溢れた義理堅い善人の顔を交互に出してくる。残酷なエピソードも心温まる仮初めのエピソードもどちらもボギー演じるギャングが関わってくる。  人間の二面性を上手く演じたボギー、そして彼にその演技力があると知っていたラオール・ウォルシュ監督の慧眼、ジョン・ヒューストンによって巧みに練り上げられた脚本などすべてが良い方向に進んでいったのではないだろうか。  犬を不吉な象徴として使うのはアメリカ映画としては珍しい部類に入るであろうし、ギャング・スターに人間的な甘さを加味したキャラクター設定も当時では斬新だったのではなかろうか。観客はいくらボギーが犯罪者であったとしても、犬を愛し、障害者を援助する彼をけっして憎めないのは明らかだ。時代遅れの犯罪者を自然に演じられたのが、この作品の成功の要因でしょう。  薄幸の女(アイダ・ルピノ)と可愛い犬を連れた、愛されるギャング・スター、ボギーの誕生です。犬や女を車に乗せて、人殺しや金庫破りなどの大きな罪を犯すボギーの、ばつの悪い顔とカッコ悪さを自覚して、あらぬ方向へ向ける目はまるでコメディのようで、クスクスと笑えます。  また障害者の女性(ジョーン・レスリー)が最初はこの世の不幸をすべて背負い込んだようだったのが、ボギーの援助によって手術を受け、健常者として社会復帰するや否や、すぐにボギーの事など見向きもしなくなり、小金持ちの男と打算的で自堕落な生活を送るようになるのは見ていて悲しくなる展開でした。  罪人と一般人との恋愛は成就しない定めなのでしょう。最初善人として登場する彼女が本性を晒し始めると同時にボギーの人生の歯車も狂っていく。作品中でファム・ファタールになるのはアイダ・ルピノだと思っていましたが、まさかジョーン・レスリーだとは意外でした。  同情は愛情ではない。感謝も愛情ではない。人間は冷酷で、打算的で、そして非情である。助けてやっても人は平気な顔をして恩人を裏切る。ハードな状況でした。  これから先の彼はギャング・スターの枠を飛び出し、誰からも愛される不器用な男として、ハリウッドでの地位を築いていく。それは後のお話です。『俺たちは天使じゃない』などは1930年代の彼からは想像も付かない企画でした。  見所としてはなんといっても、味方やジョーンの裏切りから追い詰めらていく過程での、ホイットニー山へ登りつめていく迫力あるカー・チェイスに尽きます。ロー・アングルに据えられたカメラや車に搭載されたスピードと臨場感溢れるカメラは人生から振り落とされようとしているボギーの刹那的で荒々しい魅力を存分に伝えます。パンや引いたショットも効果的で、オフ・スクリーンを感じさせる音の使い方もあり、大変見応えのあるカー・チェイス・シーンでした。  命を削るようにホイットニー山をどんどん車で上っていく、このシーンが意味するのは生き急ぐ命への皮肉か、天国へ近づいていっているという比喩か。高さと速さの限界までボギーは突き進んでいきます。そして最後に頼るのは自分の足であり、己の相棒であるライフルでした。  皮肉にも最後は、犬と女へ示した愛情のために命を落とす結末を迎えますが、薄れゆく意識の中で、彼の心を支配した最後の感情は愛情だったのかもしれません。愛情です。死に様において、こういう風に感じる事はそれまでの彼の作品ではありませんでした。その点から見ても、彼の演技は秀でたものだったと言える。  アイダ・ルピーノが最後に言うように、死ぬことが自由なのだというメッセージは絶望的ではありますが、ボギーは愛する女性と犬に囲まれて死んだ訳で、果たしてそれが不孝と言えるのだろうか。 総合評価 86点 ハイ・シェラ 特別版
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