良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ブラック・ダリア』(2006)パート2 ジェームズ・エルロイ原作の暗黒のLA四部作の第一作目。

 そして今日、劇場に足を運びました。いつものように一番後ろの真ん中近くの席を取り、ノワールの世界へ浸り込む前にいろいろと演出や音楽、そしてアングルやカット割りを予想していました。原作を読んだ後に観に行くときの楽しみは自分が想像していた演出と実際の演出との差異にあります。

 原作と違うと言って、映画に八つ当たりするのは間違ったものの見方です。映画は劇場で公開されて、多くのファンに足を運ばせてナンボの娯楽です。色々な客層に受け入れられる作品を作ってこそはじめて評価されるのが映画ビジネスなので、表現がソフトになるのは当然であり、残酷描写の部分でも、あえて見せない部分を自分で想像して、その事件の凄惨さに恐れおののくのもこういった作品に接した時の鑑賞態度ではないでしょうか。

 まずは演出について。ワッツ暴動を描いたオープニングでの俯瞰からのクレーン撮影、それに繋がってくる移動撮影の長回し撮影を観た時に何故か思い出したのは溝口健二監督の『新・平家物語』の市場シーンで使用されたクレーンと長回しの手法でした。

 クレーンはもう一度重要な場面で用いられます。ファイア(ジョシュ)とアイス(アーロン)が銃撃戦を展開するアパートメントの裏側で、この映画の主人公ブラック・ダリアが無残な姿で発見されるシーンに繋がっていく一連のシーンで使われるのです。

 この表通りの様子と裏通りで発見されるダリアの死体の様子を俯瞰ショットで捉えて位置関係を観客に伝え、一方の事件のクライマックスともう一方の事件のプロローグを一気に見せ切っているのです。見事な力技ではないでしょうか。死を予感させる黒い鴉の配置も見え見えではありますが効果的でした。ダリアを啄ばむ鴉のイメージは気味が悪い。

 デ・パルマ監督らしい移動撮影の妙味を期待していた向きには彼がこの作品で示した抑制の強さに驚かされるかもしれません。極力カメラを動かさないスタイルは普段の彼らしくはありませんが、かえってこれが焦らしの効果を高めていて、クライマックスで動き回るカメラを見たときに喜びに変わっていきます。もちろん少ないながらも取調室での360度回転は健在ですし、そこかしこに彼のケレンミは溢れています。

 そこに映る画像が象徴するイメージ(カラス、道化師など)で次の展開を予測させたり、映像イメージ(場所や人の配置)を繰り返し使用し、どこかデジャヴのような不思議な感覚を覚える画面つくりは見ていて楽しくなります。

 恐怖映画『笑ふ男』のセットを用いてポルノ映画『地獄の女奴隷』(劇中の架空の映画)を撮影し、後々の謎解きに使用する物語構成は原作者エルロイのセンスの素晴らしさを見せつける。ただのつまらないポルノ映画が事件解決のためにどれほど多くのヒントを与えるかという

構成はエルロイならではと言えます。

 光と影の使い方が美しく、光が灯っていてもどこか暗さのある室内シーン、LAのわりにはどことなく澱んだ青空(ロケ場所はブルガリアだったそうです。納得!)、そして夜の暗闇シーンといい、ノワールならではの暗い西海岸という独特の世界を表現していました。

 光といえば、アーロン暗殺シーンでの逆光を使って姿を見せないように撮られた暗殺者の姿と暗闇の中で不気味に鈍い光を放つナイフのクロース・アップは映画芸術ならではの様式美を味わえます。

 対比の妙を感じさせる作品でもあります。元ボクサーで警官同士であるが渾名も含めて全く違うジョシュ・ハートネット(ミスター・アイス)とアーロン・エッカート(ミスター・ファイア)の描き方は昔の芝居のようでもあります。善玉と悪玉が解り易いくらいに意識されているようでした。アイスは氷、ファイアは炎です。単純といえば単純ですが、こうした人物の描き方は見えにくい暗闇に包まれたノワール世界では必要です。

 とりわけ印象に強く残っているのはバッキー役を演じたジョシュ・ハートネットでした。自らの内にある善性と現実の厳しさの間で揺れ動く悩める男を見事に演じていました。フィルム・ノワールにはうるさいボギー・ファンが観ても、十分に納得がいく主演俳優でした。

 自身の規律が揺るがなかった40年代のボギーのフィルムを知る者が観ると、グラグラと自己の規律が崩れようとするこの作品でのジョシュには情けなさを感じてしまいますが、時代は21世紀なので、その点は差し引いて考えていかねばならない。

 ヒロインも個性的でした。男も女も悪の世界で真っ黒に塗れています。違いはどちらがより黒いかの差でしかない。つまり両者とも犯罪に深く関わっているが、ジョシュに抱かれる二人の女スカーレットとスワンクの性格と二人が置かれた立場の相違点はどこにあるというのか。

 ノワールといえば、すぐに思い出さねばならない要素にファム・ファタールの存在があります。つまり悪のヒロインが機能するかしないかで作品の出来栄え、特に締りの強さが全く違ったものになってしまうのです。

 古くはリタ・ヘイワーズ、ローレン・バコール、アン・バクスターなどが妖艶に演じた悪女の役割をこの作品で演じた三人の女優、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンク、そしてミア・カーシュナーの出来はどうだったろうか。映画的にファム・ファタールの位置に置かれていたのはヒラリーでした。彼女は過不足なく役柄をこなしていました。

 40年代を切り取った作品であることもあり、出てくる名前も懐かしの名前が多い。ピーター・ローレ、リタ・ヘイワーズ、セルズニック、ミッキー・コーエン、マック・セネットなどハリウッドの黄金時代に関わりのある名前がずらりと並ぶ。

 ミア・カーシュナーについては死体であり、無名女優役ということ、そして死後有名になっただけであるということを合わせて考えるとファム・ファタールの称号は相応しいものではない。

 完璧な悪女ではないが、もっとも得をした役回りを演じたのはスカーレットではないだろうか。自分に危害を加える人物達が全て死に絶え、自分の秘密を知る者もコントロールしやすいジョシュだけという状況からはその後に待ち受けるジョシュのマデリン殺しによる逮捕を考え合わせてもかなり有利である。

 出来れば最後のシーンで、玄関の扉を閉めるスカーレットの謎の微笑を入れて欲しかった。原作とは大分と違ってしまいますが、映画のエンディングとしてはこの方が後々までも余韻を残すエンディングになっていたのではなかろうか。

 対比ではその他ブラック・ダリア(ミア・カーシュナー)がポルノ映画とスクリーン・テストに残した生前の無名時代の姿と全米中が知る有名な死後の姿、スワンクとレイチェル・マイナー姉妹の性格・容姿の違いとその理由など多くを作品中にちりばめています。

 原作では死後の様子ばかりがクロースアップされていたブラック・ダリアでしたが、映画化されるに当たり、生前のシーンが大幅に増加されました。ミア・カーシュナーはとても難しい役どころを上手く演じていました。

 彼女に魅力がなければ、全米中で熱狂するほどの大事件にはならなかったはずなので、若さと美しいルックスを持つ彼女の起用は成功でした。スクリーン・テストのシーンでのオフ・スクリーンの「声」の出演はブライアン・デ・パルマ監督自身によるものなのもファンには嬉しい。

 音楽も映像にマッチしています。とりわけレズビアン・バーでのショー・シーンで、k.d.ラングが歌う『Love for Sale』は本物のレズである彼女の起用のためか、異様な迫力がありました。ショー・ガールの衣装も退廃的で、日陰者扱いだった当時の同性愛者の悲哀を感じます。いまではそんなに厳しい扱いを受けなくなりましたが、第二次大戦後すぐのマッチョな時代にあっては、人前で告白できるような秘密ではなかったと思います。

 原作を読んだ者の不満点としてはあまりにも話が駆け足すぎて、丁寧さに欠けると思いました。とくに前半は比較的しっかりと描いていたのに比べ、後半があまりにもバタバタしすぎていたのではなかろうか。「死のメキシコ行き」「警官の腐敗」「権力闘争」などの男の壮絶で醜い争いの部分が完全に作品から欠落していたのは残念でした。

 映画化する以上、どうしても主要5人物(ジョシュ、アーロン、スカーレット、ヒラリー、ミア)に焦点を当てて単純化しないと観ている者が混乱してしまうという演出上の意図があるために、こうなってしまったのは止むを得ないのは理解していますが、作品の重厚さが薄れてしまったのも事実なので、とても残念でした。

 またジョシュによるフラッシュバック・スタイルを採ったために、どうしても説明的な台詞が増えてしまったのもマイナス要因に挙げねばなりません。ハリウッドの暗部を深く抉り出した原作でのエピソードがことごとく綺麗に洗い流され、葬り去られているのも意図的で、製作サイドの隠蔽を見せられるようでした。

 ハリー・コーンで有名なキャスティング・カウチ、いかがわしいエージェントによる女優志願者への性的関係の強要などのハリウッドの暗部とこの作品で描かれる狂気には共鳴し合う部分が多いので、きちんと暗部は暗部として描くべきであったのではないか。

 暴力描写ならびに性的描写に関しても大幅にカットされていましたが、この部分については

過激に何でも見せようとする下劣な演出を採らずに、できるだけ見せない演出を貫いたデ・パルマ監督及び製作会社の意図に拍手を送りたい。

 まあ、エルロイの小説の記述どおりにこの作品を映像化してしまうと、R-18どころか世界中のほとんどの国で上映禁止処置を受けるのは間違いありません。それほど過激な記述が多いのがこの『ブラック・ダリア』でした。

 アーロンの死に様、ジョージーの死に様、ヒラリーの末路、スカーレットと助手の関係など原作とは全く違う展開を映画館で観ることになりますが、映画と小説はまったく別物なので、その点を考慮に入れて作品に接しなければなりません。

 個人的にはデ・パルマ監督は難しいこの作品をセンス良く纏め上げたと思います。ただ121分という上映時間はこの作品にとって適切だったかと問われれば、「否。」と答えざるを得ない。もっと丁寧に、そしてフィンチャー監督がもともと企画していたようにモノクロ3時間バージョンで撮っても良かったかもしれません。

 エルロイ本人は2時間30分くらいの尺で、黒澤明監督にこの作品を撮ってもらいたかったとインタビューで答えていたそうです。

総合評価 79点aisbn:4167254042ブラック・ダリア