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他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『クレオパトラ』(1934)豪華絢爛な衣装と舞台装置。デミル映画らしさが楽しめる!

 クレオパトラの映画化作品というと、一般的には20世紀フォックスを破滅させる寸前まで追いやったエリザベス・テイラー主演の『クレオパトラ』(1963)が有名であり、1934年度版のこの作品を知る人は少ないかもしれません。  しかし映画としての出来栄えではこちらの方がはるかに素晴らしく、1963年度版と同じく映画としての大きさと豪華さを味わえるものに仕上げられています。モノクロであることからカラフルさに欠けるなどヴィジュアル的には制約が多いのは事実ではありますが、スケールの大きさと開放感に優れたこの作品には、カラーで撮られた1963年度版にはない緊張感とまとまりがある。  素晴らしく仕上がったデミル監督版と全てがちぐはぐなマンキーウィッツ監督版ですが、同じ題材を撮りながらも、こうも作品自体の魅力と出来栄えに違いがあるのはいったい何故なのだろうか。  おそらく、それは出演者をまとめて服従させ、製作会社にも睨みを利かせられるほどの力を持っていたのが前者であるのに対して、後者は、というよりもハリウッドの会社自体がすでにそのような力を急速に失いつつあったからではないだろうか。  セシル・B・デミルという名前は絶対的であり、D・W・グリフィス以降の大物監督として映画界に君臨した大監督でした。また彼の上に立つパラマウントという製作会社の代表もアドルフ・ズーカーもタイクーンとしてその名を刻まれるほどの大物でした。  この映画でも誰よりも先に製作者アドルフ・ズーカーの名前が誇示されています。「ワシの映画やー!」とでも言わんばかりのこのクレジットには笑ってしまいますが、プロデューサーが全ての権力を握っているという現在でも続くスタイルがすでに出てくるのも映画史的に見ても興味深い。  このような黄金時代のハリウッド・スタジオ・システムによる全てを統制していた製作環境の下では俳優は集客のための駒に過ぎませんでした。  このスタジオ・システムが崩壊したあとに製作された1963年版『クレオパトラ』撮影当時に、エリザベス・テーラーが何度も愚行を繰り返し、時間と予算を散々浪費させ、20世紀フォックスを滅ぼしかけたのは有名でした。  年代は多少違いますが、お金に余裕がなくなったフォックス社の金銭的状況は黒澤明監督版『トラ・トラ・トラ!』製作中止にも少なからず影響を与えたのではないだろうか。  そして出来上がった1963年度版は豪華さと大きさでは群を抜くほどの作品にはなりましたが、四時間という上映時間(もともとは3時間作品を2本撮って、二部構成の6時間バージョンとして分けて世に送り出すつもりだったそうです)は残念ながらマンキーウィッツ監督の手に負えなかったようです。  上手く編集すれば、十分に見れる作品になったはずでしたが、もともと纏まりがないものを切り詰めても、さらに訳が分からない作品になっていたかもしれません。まるでビートルズの『レット・イット・ビー』がそうであったように。  熱意と纏まりに欠ける作品が名作に生まれ変わるわけもなく、1963年度版『クレオパトラ』はただ舞台装置が豪華で大きいだけの無意味な映画になりました。たしかに大きいこの作品は威圧的ではあります。  誰もが知る戦争映画の傑作『史上最大の作戦』が大ヒットしたために、それに味を占めて大金を投じる大作主義に走ったフォックスがはまり込んだのは泥沼だったのです。エリザベス・テーラーにもこのような作品をヒットさせるだけの動員力はなかったのでしょう。  ただ全ての権限を握っていたのは製作会社フォックスだったはずなので、製作責任決定者に金銭感覚というか経済センスが無くなっていたのは明らかである。全ての責任をエリザベス・テーラーや監督に押し付けるのは不合理であろう。20世紀フォックスというスポンサーが一番の責任を負うべきである。  そしてこの失敗は大量宣伝及び多数館による一斉上映を基本ルールにして大金を投じる大作主義が幅を利かせるハリウッドの現状とどこか似ているようで恐怖を感じます。どちらも正常な感覚が麻痺していった究極にあるものを見せつける。  これまでは1963年度版について述べてきました。では1934年度版はどうだったのだろうか。先ほど述べたようにこの作品を仕切るのはセシル・B・デミル監督です。グロリア・スワンソンでも使い切った彼にとってはクローゼット・コルベールなどは敵ではない。  1934年度版のオープニングはエジプトらしいピラミッドやら宮殿のモンタージュに異国情緒溢れる、豊かな胸を強調した民族衣装を身にまとったエジプト女性のダンスとともに幕を開ける。当時の人々のエジプトへの憧れや好奇心は現在のそれなどは足元にも及ばないほどだったのは想像に難くありませんし、異国文化への興味としては目新しい流行だったのではないだろうか。   クレオパトラはクローデット・コルデール、ジュリアス・シーザーはウォーレン・ウィリアムス、アントニーにはヘンリー・ウィルコクソンがそれぞれ役に当てはめられました。  コルデールは開放的で肉感的ではありましたが、品位という点ではクレオパトラには相応しいかどうか疑問に思いました。しかし小悪魔のような可愛らしさを持つ彼女を使ったのは魅力的なクレオパトラ像を新しく描くにはうってつけだったかもしれません。  最後を迎えるときの荘厳な彼女とのギャップを楽しめる。ウィリアムス、ウィルコクソンについては上手く演じていたように思います。  人物を捉える撮り方にバスト・ショットが多いのは歴史映画らしく、人物中心に描いていこうという姿勢の現れでしょう。また豪華絢爛な舞台装置には後年セルゲイ・エイゼンシュテイン監督が『イワン雷帝』で見せたように大画面のスクリーンで作品を観た時に、最も効果を上げるような細部へのこだわりが見てとれる。  つまりデミル作品にはエイゼンシュテイン作品と合い通じる作風を見るのです。方や民主主義、方や社会主義という体制の違った両者ではありますが、それぞれが『クレオパトラ』『イワン雷帝』での作風に共鳴するものを見つける思いでした。  デミルの画面には本物が持つ質感とダイナミックさ、そしてそれと同居する繊細さを同時に合わせ持つ大いなる才能を感じます。豪華さで観客を圧倒し、衣装で観客を酔わす。そんな才能を持つ監督は現在おりません。  また壮大、豪華な舞台装置の中でも人間の行為は愚劣であり、さもしい。舞台装置が豪華であればあるほど、荘厳であればあるほど対位法的効果はより大きくなっている。  金の衣装を身に纏うクレオパトラを捉えた光り輝くショット、アントニーと閨を共にするときに何十人ものエキストラが出てきて寝室を作っていく幻想的なシーン、花びらがスクリーン上を覆いつくす宴のシーンなどには目を奪われます。  シーザーとクレオパトラがローマに凱旋してくる時のクレオパトラの御輿の豪華さ、アントニーに会いに来るために乗ってくる船の内部の豪華さ、エジプト宮殿内部の荘厳な様子を見ると、まるでデミル監督が「スペクタクルとはこういう風にやるのだ!」と得意げに撮っている様子が目に浮かぶようです。  豪華絢爛な生活をする一方で、徐々に追い詰められていくエジプト、そしてクレオパトラはローマに宣戦布告される。戦闘シーンの迫力も三十年代とは思えないほど素晴らしく、ローマ軍とエジプト軍の画面上での進行方向もきちんと統一されていて、観客に解り易くするなど配慮がされています。  カットの繋ぎも細かく、それらの細かく刻んだカットを積み重ねていくことで戦闘の激しさと兵器の優劣を観客に示し、緊張感と無常観をも同時に伝えていく。ローマ軍が海戦でエジプト船団を倒す兵器は、皮肉なことにシーザーが暗殺される前に制作させていた兵器なのです。  絨毯を転がすと彼女が出てくるというコミカルなシーザーとの会見シーンとは全く反対の、コブラに豊かな胸を咬ませて死を迎えるシーン、玉座に座したまま、エジプトの女王として荘厳な死を迎えた彼女を眩いばかりの光とともに引きの画で捉えるショットで作品は閉じられる。見終わった後には無常観と豪華のギャップに戸惑う。  セシル・B・デミル監督の作品はおそらく劇場で観てこそ、はじめてその真価が分かるという作品群なのではなかろうか。大きなスケールの映画は大きなスクリーンで観ねばなるまい。そう思わせる稀な映画作家がセシル・B・デミル監督その人でしょう。たしかにこの人はスペクタクルの巨匠と呼ぶに相応しい。 総合評価 80点
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