良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『犯罪王リコ』(1930)ギャングスター映画のルーツといえる、不朽の名作。古典です。

 社会的に悪影響を与える組織犯罪であるギャングが魅力的に描かれている価値観の反転に世界大恐慌によってもたらされた混乱の余波を感じさせる。マーヴィン・ルロイ監督による1930年制作のこの映画は後に続くギャング映画の草分けであり、『民衆の敵』『暗黒街の顔役』と並ぶ犯罪者映画隆盛の火付け役でもある。  原題は「LITTLE CAESAR」。つまり小さなシーザー。タイトルを見るだけでも主人公の人柄とその後の運命を暗示している。邦題だけを見ていては分からないテーマを題名に付けた原題はかなりあり、出来るだけ古いものほど現代の意味を調べたほうがよい。  ギャングをヒーロー視するこれらの反モラルな映画と表現を規制するヘイズ・オフィスは既に存在していたが、これらのジャンルの映画の隆盛は世間の反感を招き、さらに厳しい表現の制約を課していかざるを得ませんでした。  要約すると、とってつけたような「犯罪を憎む」のようなテロップや「暴力を否定する」ような字幕が入ることも多いこの種の映画は、こういった表向きのアピールをしなければ検閲に引っ掛かったのでしょう。これらのテロップは時代の名残りなのです。ちなみにこの映画では冒頭で「剣を取りし者、剣に滅びる」というテロップが入ります。  衝撃的な夜の料金所での襲撃シーンから始まるこの作品はエドワード・G・ロビンソン出世作であり、ダグラス・フェアバンクス・Jrとの共演も効果的であった。小柄でコミカルな風体だが、悪の香りが身に染み付いているロビンソン。彼とは反対に背も高く、美男子でダンサーとしての才能に恵まれたダグラス・フェアバンクス・Jr。  幼馴染という設定でありながら、歩む道は全く違う方向に向かわざるを得ない二人。彼らの間に、ダグラスを暗黒街から抜けさせようとするグレンダ・ファレルが入り込むことで、風変わりな三角関係のような面白い関係が出来上がる。幼馴染のダグラスを信頼するロビンソンはなんとか彼女から彼を取り戻し、自分の一家に加えようとする。  ギャングよりもダンサーとしての自分に価値を見出すダグラスは徐々にロビンソンと距離を置き始める。しかしロビンソンの事も気になるのは確かで、彼に命の危機が迫ったときには彼を助けようとする。いろいろな秘密を知るダグラスを生かせておくのは危険ではあるが、幼馴染の彼を殺害するには忍びない。  この甘さが後にロビンソンにとって最悪な結末を用意するが、クライマックスでのダグラスとの別れの場面を含め、こうした人間らしい演出があればこそ他の凡庸な後続作品とは一線を画す、幅の広さと奥行きを獲得している。  演出面で後続作品に与えた影響は計り知れない。ネオンサインの使い方は『暗黒街の顔役』で、暗殺シーンの演出は『ゴッド・ファーザー』に数多く踏襲されている。記念写真を極端に嫌うパーティの出席者達、料金所での銃殺、教会前での車で乗り付けての暗殺、買い物している時に他のファミリーに襲撃されるボスという演出は『ゴッド・ファーザー』そのものである。  「Ⅰ」の形のネオンサインは数字の「1」なのか、私という「Ⅰ」なのか。頂点に立つのは一人で良いという意味での「1」、ひとりぼっちの「1」、手前勝手の「Ⅰ」イズムなど深読みするのも楽しい。「私」のクラブは狭い世界での権力争いを嘲笑しているようにも解することも出来る。「私」は「踊っている」というのは踊らされているとも読める。  『暗黒街の顔役』での「世界はあなたのもの」というネオンサインほど解り易いものではありませんが、明らかに何かを訴えかけてくる。まあ単なるリズムを刻むための捨てカットかもしれません。ただクライマックスシーンでのダグラスとグレンダの看板の使い方と彼らと対照的なロビンソンの運命の描き方を見ていると、このネオンサインも意図的なものであるのはほぼ間違いないのではなかろうか。  1930年制作というトーキー初期の作品ではあるが、であるからこその音に対する敏感な感性が印象に残る。大晦日の大宴会の場面での大騒ぎの喧騒とダグラスとグレンダだけの会話しかない二人の部屋の静けさとの対比は鋭敏な使い方ではないだろうか。  世界恐慌の不安な影がフィルムに焼きついています。第二次大戦の大きな不安がフィルムに影を落とすフィルム・ノワールと同じく、世界恐慌の影も30年代の一連のギャングスター映画に現れています。ハイコントラストと真っ黒な画面はまさにフィルム・ノワールの先駆けといえる。  より不吉でアナーキーな暗黒世界を描いた30年代のギャング映画の主人公達は40年代になると無頼の徒や探偵などに主役の座を譲る。これらの流れの中で生まれた最大のスターがハンフリー・ボカートである。  名前の付け方も興味深い。ロビンソンには「シーザー」、ダグラスには「アントニオ」。グレンダの名前が「クレオパトラ」だったら、もっと複雑に展開したかもしれない。アントニオはアントニーを連想させるが、観客は誰が「ブルータス」なのかを探し出そうとするであろう。アントニーとブルータスが同一人物であるのは仕掛けとして上手く機能しています。  最大の見せ場はロビンソンとダグラスの別れのシーンでの演出とクライマックスでの看板を利用した演出です。別れのシーンでは幼馴染にも裏切られて絶望するロビンソンの様子をサイレント的なクロース・アップと彼から引いていくカメラの動きで表現する。この距離感が素晴らしい。目の前にいるのに絶対に近づけない距離を見事に見せる。  派手な撃ち合いの多いこの映画でもっとも感情が動くのがこのサイレント演出というのもトーキー初期の映画黄金時代を知る人々の持っていた感情演出の共通言語のような感覚を味わえるのも嬉しい。  そしてクライマックスでの警官隊との銃撃戦。たった一人でダグラスとグレンダの看板に隠れて、彼らと戦おうとするロビンソン。だが看板は薄く、しかもただの板張りで、マシンガンの銃撃であっけない最期を遂げるロビンソン。看板に見下ろされ、看板にも守ってもらえない哀れなギャングの末路を映像で表現しました。  ギャングスター映画の先駆けではありますが、この映画が打ち立てたハードルは後続作品にとっては高く聳え続けている。であるからこそ、このジャンルはその後、数多くの傑作映画を生み出したのかもしれません。 総合評価 83点 犯罪王リコ 特別版
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