良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『日本沈没』(2006)沈没してないじゃねえか!沈没してしまったのはドラマ部分だ!

 主演俳優が草彅剛でヒロインが柴咲コウ、監督が樋口真嗣 と聞いた段階で劇場まで行って観る気が失せてしまい、DVDが出るまで待とうと思っていたのがこの平成版『日本沈没』でした。別に主演の二人が嫌いだというわけではなく、彼らのキャスティングを決めた人々の底意に胡散臭さを感じたからです。

 主演の知名度と人気で興行を押し切ろうとしたのは明らかであり、宣伝面ではある一定の成功を収めたのかもしれません。しかしその代償はリアリズムなど作品自体の質の低下と脚本の崩壊を招きました。

 純粋に、この未曾有のパニックを描いてくれたのであれば、支持しますが、全く必要ではないラブ・ロマンスを盛り込んでしまったこと、何故か日本全土で寸断されているはずの道路網のなか、どこにでも現れる草彅と柴咲に違和感を持ち出すと突き放した視線でその続きを見ていかざるを得ない。

 この作品に出ていた脇役の人々、吉田日出子柄本明國村隼豊川悦司大地真央石坂浩二加藤武六平直政長山藍子らがもしいなかったならば、ドラマ部分を描くのは不可能だったに違いない。 今は亡き丹波哲郎が写真のみではありましたが出演していたのは嬉しいところでした。彼らで何とか持たせていたような本編(ドラマ)でした。

 しかし脚本と演出の破綻を演技と特撮だけで持ち堪えさせるのは不可能なのです。無意味なラブロマンスは進行を遅らせる。演出のまずさは画面の不都合をスクリーンに嫌でも映し出してしまう。

 柴咲コウがレスキュー隊員として出てきた段階で、つまりオープニング開始後すぐに絶望感が覆ってしまいました。これは彼女の責任ではなく、こういう役柄で登場させてしまったキャスティングのミスです。また歴代小野寺の中でも、草彅の貧弱さはどうしようもない。これも彼が悪いのではなく、彼をキャスティングした連中が悪い。

 映画ファンでなく、彼ら二人が持つと思われる潜在的な客層(一般ファン)を引き込もうとしたのは興行上必要だったのかもしれませんが、評価として後世にどういう風に伝えられるかを分かっているとは思えない。

 彼ら二人がフィルム上で上滑りしているように見えるのは実は彼らの責任ではないのではないだろうか。実際かなり評判が悪かったこの映画ですが、個人的に見た所では彼ら二人には責任は無いと思います。特撮も精一杯やっているように見受けられました。

 オリジナルが持っていた深刻なテーマ、つまり移民問題と日本人としての尊厳という重たいテーマを全く語らずに、ラブロマンス重視、残酷シーンの割愛で進めてしまった製作陣は一体何のためにこの作品をわざわざリメイクしたのであろうか。

 まずは演出面での失敗から述べていきます。沈没していくこの国の映像には痛みがまるで感じられないこと、これが決定的に拙い。地震の後、火災の後、洪水の後ばかりの事後映像には何の意味もない。また決定的映像、つまり災害に見舞われる瞬間の映像の多くが、かなり上空からの俯瞰ショットであるために痛みと深刻さが伝わりにくいものに成り下がっている。

 監督本人は「残酷なシーンを極力抑えた。神戸の震災を受けた人々に配慮してのことだ。」というようなことをインタビュー等でしていたようですが、本当に配慮するのであれば、この企画自体に参加するべきではない。

 東海大地震とか大規模な災害が来たときに備えての予備知識になるような映像を含んだり、どういった行動を取るのが安全かというような必要な情報は全く提示せず、レスキュー隊の訓練法やらレスキューシーンをふんだんにカッコよく盛り込んできても全く無意味なのです。

 本当に震災被害者に配慮すると言うのならば、新たな被害者を出さないような教育的な視点を入れるべきではないだろうか。ここ何年かの日本には地震などの被害が毎年のように出ています。パニック映画の場合、彼らがもしこれを観ていれば、救えることもあるかもしれないという視点と情報を大規模興行で公開する作品は盛り込むべきではなかろうか。

 なにも死んで行くシーンを多くしろと言っているのではない。演出(つまり見せ方)で悲惨さと迫力とを同居させる作品に仕上げられないのを「配慮」などというごまかしのオブラートに包み込むのは許せない。騙されてはいけないと言っているだけです。

 ストーリーの根幹には崩壊していく日本と海外で新生活を始めなければならないユダヤ人化する邦人問題をどう扱うかというテーマが重要であって、一組のカップルにまで小さくして良いテーマではないのです。邦画離れしていた昭和版「沈没」の持っていたマクロ的スケールの大きさを簡単に捨て去り、もっとも矮小な単位にまで縮小してしまったミクロ版「沈没」にしてしまった製作陣には映画には携わって欲しくはありません。

 脚本の破綻は説明的台詞の多さ、映像として現れる事後場面の多さに集約されてきます。映像で見せきれない、肝心の瞬間を描けない腰砕けの姿勢には萎えてきます。骨太のテーマを描くのに軟弱な逃げ腰を製作サイドに感じます。

 見たいシーンを見せない、見たくもないシーンを延々と繋いだ映像の塊を二時間以上も映画館で観た人は堪ったものではない。せっかく特撮シーンは上手く制作されているにもかかわらず、物語の構成の拙さのために効果が減ぜられてしまうのはなんとも勿体無い。

 特撮の力技だけで二時間持たすのは難しいことではありますが、本編(ドラマ)との両輪がしっかりと稼動すれば、二時間は決して長くはない。予算を多く掛け、特殊効果も上手くいっているのに肝心のストーリー構成がグダグダではどうしようもない。

 ストーリーがしっかりしてれば、ある程度の演技や演出の不備は隠せるものですが、この背骨がぐらついていては積み重なるイメージも積み重なることはない。

 簡単に一国の首相を事故死させてしまい、あとのことは全て女性閣僚に丸投げしてしまう。最初から最後まで日本の危機を決定的に救うのは女性閣僚(大地真央)、レスキュー隊員(柴咲)、そして彼女達のお相手(豊川悦二と草彅)の四人だけというのはあまりにも杜撰で、陳腐で、ご都合主義なのではないだろうか。

 明日にも深海に向かって特攻をかけるという日の前に、わざわざ宿舎まで押しかけて来ながら、柴咲を抱かない草彅というのは噴飯物だ。明日をも知れない時なのだから結ばれて当然のシチュエーションだろう。

 『七人の侍』でも若侍と村娘が同じようなシチュエーションの中、結ばれるというシーンがあるが、あれこそが大人の演出であろう。拒む草彅は現実的ではない。ドロドロしている部分はすべて政府関係者任せ、主役二人は清い身体のままエンディングを迎えるというのは人間の描き方としてあまりにも甘っちょろい。

 今回の脚本が無視した部分も見逃せない。つまり事の重大さを何故隠すのであろう。国際社会の構図は冷戦真っ只中の昭和版の時代とは様相が違うのです。沈没というのは比喩的表現であって、経済的な沈没、政治的な沈没と見るほうが解り易い。

 そのとき日本人としてどう己と向き合うかという深刻なテーマから逃げた今回のリメイクは最悪としか言いようがない。自衛隊のPR、レスキュー隊のPR、自己犠牲の美化など胡散臭さが全編を覆っています。

 画面の見せ方で好感が持てるのは意図的に沈み行く過程では黄昏時の明るさで描いてストーリーと同調させ、危機が去った時になってはじめて太陽が差し込んでくるという照明についてでしょう。

 特撮はかなり頑張っていたと思います。液状化に伴い崩れ去る首都東京の様子は異様な光景でした。下町はもともと地盤が脆弱で、海抜の低いところが多かったので、地震とともに堤防が切れて、一気に浸水する様子はありそうで恐い。

 熊本市内の壊滅の様子、マグマが溢れ出ようとしている富士山、奈良大仏が海に浮かぶ様(奈良は内陸の盆地なので海水が陸地一面を覆っているだけでもショッキングな映像なのです)は県民としてはショッキングな映像です。

 これらを活かすのが脚本なのに活かせていない。ああ、もったいない。そもそも2000mしか潜れない深海底が4000m以上潜ってしまう時点で馬鹿馬鹿しくなってきます。それと音楽がかなりうるさく、必要ないシーンでも音が付けられていたのには閉口しました。芝居に自信なかったんでしょうね。

 最大の欠点をひとつ。『日本沈没』なのに、沈没してないじゃないか!中途半端な本作品を物語るように点在する元日本の島々。『日本ところどころ沈没』が正しいタイトルです。

総合評価 45点

日本沈没 スタンダード・エディション