良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『失われた週末』(1945)アルコール中毒症患者の苦しみを見事に捉えた映画。

 これはアルコール中毒症患者のどうしようもない苦しみと弱さを描いた社会派映画である。それはそれでシリアスで素晴らしい作品に仕上がっているのですが、ビリー・ワイルダー監督が本当に描きたかったのはドラッグ中毒患者の禁断症状(コールド・ターキー)の恐ろしさはもとより、さらに身体に害を及ぼす麻薬などの薬物摂取への警告だったのではないだろうか。  第二次大戦が終結した1945年度公開という時代性を考えると、さすがにドラッグ中毒の苦しみを描くのは当時のハリウッドの映画会社には出来なかったのであろう。無理もない。そのためのギリギリの妥協点として、薬物をアルコールに置き換えたのかもしれません。  ワイルダー監督にとっては当時の世相の中で、アルコール中毒症を扱うのもかなりの勇気と熱意が必要だったに違いない。まだ酒は大人の「男」を象徴する飲み物であり、酒に対してあからさまに批判的な作品はまだ無かったのではないか。またこの企画にオーケーを出した映画会社もある種の賭けとして、このセンセーショナルな企画を通したのであろう。  考えすぎかもしれませんが、『彼奴は顔役だ』でも描かれていた通り、英雄として戦地から戻ってきてみると、ただの失業者になってしまう兵隊は沢山いたのではないかと思います。彼らのやり場のない怒りと苦しみの捌け口となり、受け皿になってしまったのがアルコールやドラッグではないだろうか。  この映画が公開されたのは1945年なのですが、これが戦後なのか戦中なのかで多くの者が薬物に溺れていった意味もまるで変わってくるのではないか。戦後ならば、燃え尽きた帰還兵達の苦しみや疎外感かもしれない。  戦中ならば、いつ終わるとも分からない太平洋戦争の戦況が精神構造に暗く、大きく影を落とし、生命の危機を感じていて、その恐怖を忘れたい衝動であろうか。帰還兵士を主人公にするのは言語道断な風潮だったでしょうから、「作家」という登場人物と逃げるための道具としての「酒」を用いて映画にしたのではないかとも思います。  酒にしろ、薬物にしろ自己逃避の道具であるのは誰にでも分かる。しかしそれに頼らねば生きて行けないという感覚を理解する必要もあるのではないか。何をやっても上手く行かない、世間は自分を除け者にしている。  そういう精神的に追い詰められていった人間にとっての最後の逃げ道がこれらを使用することなのではないか。もちろん過度の飲酒や薬物は最低の行為であり、身も心も社会生活もすべてを奪い去る。  これはアルコールを含めたすべての薬物を過度に摂取するとどうなるかを描いた作品として、とても意義のある映画なのである。そしてこの作品で重度のアルコール中毒症患者を演じたレイ・ミランドは見事にアカデミー賞の主演男優賞を受賞する。素晴らしい脚本と演出があれば、冴えなかった役者でもホームランを打つことがあるという良い見本であろう。  音楽のミクロス・ローザ、脚本のチャールズ・ブラケットの貢献も見逃せない。彼らの職人気質、芸術性の高さ、そして娯楽への理解があってこそ、ワイルダー監督も思う存分に演出に没頭出来たのではないだろうか。  アル中のレイを献身的に支える恋人役ジェーン・ワイマンも魅力的な女性を演じていました。コールド・ターキーで発狂しそうなレイの頭の中で展開される地獄絵図といった趣があります。禁断症状の真っ只中にあるレイにとっては彼のためを思ってこそ、酒瓶を取り上げ、アルコールから引き離そうとするジェーンですらノワールの悪女ファム・ファタールとなんら変わりがなかったのかもしれません。  これはミランドの内面を描いたフィルム・ノワールである。アルコールに対してのどうしようもない意地汚さと敗残者の位置から抜け出せない袋小路に嵌まり込んでいくもどかしさがノワールとの共通点であるように思えます。  厳格な兄フィリップ・テリーも邪魔者にしか見えない。自分のことを真剣に考えてくれる人がいるのに彼らを邪魔な存在に思えてしまうのはなんと不幸な境遇でしょう。酒がないと苦しく、死にそうになると思っている禁断症状中の彼にとっては酒を取り上げることこそが悪であり、彼を殺そうとしているのと同じである。  物語的なことはさておき、アルコール中毒の苦しみをいかに映像で表現できるのであろうか。『イージー・ライダー』のようにトリップするのではなく、禁断症状の苦しみを映像で表現しなければいけないのである。快感ではなく、苦悶をどう表現できるのか。シリアスで見応えのある映画にするにはまさにこの一点に掛かってくる。  当時のカラーでは苦悶の凄みは描きにくかったのかもしれません。あまりにもどぎつく、生々しすぎて見るに堪えない作品に成り下がる可能性があったためか、はたまた予算の都合か、最適な選択と言えるモノクロで撮影されました。人間の精神の闇を描くにはむしろ好都合だったと言えるでしょう。  まずは冒頭。紐にぶら下げて窓から吊るしてまでして酒瓶を親類から隠し通そうというミランドの行動を見た者は彼のアルコール中毒症がいかに重篤な状態に来ているかを見せ付けられる。独りになったときに人間はその本性を現すとはよく言われますが、アパートの部屋でアルコールを探し回る姿は底辺の人間、ジャンキーの悲惨さを物語る。  間違いなく、これは単なるアル中の苦しみではなく、薬物中毒の苦しみである。グラス底の跡で、彼が何杯飲み干していったのかを表現した演出は素晴らしい。液体に溺れていくイメージを一瞬で観客に伝える、まさに映画的な表現であった。この跡が次第に増えていく様は恐ろしくもある。飲酒する時に掛かる音楽(ライトモチーフと言っても良いのだろうか?)が実に効果的である。  また小説家にとっては命の次に大切な商売道具であるはずのタイプライターでさえ、見得も外聞も捨てて、一本の酒を買い求めるために売りさばこうとするミランドの行動を追いかけるカメラには迫力があります。休日のために売ることすら出来なかった彼が見せる情けない表情を見て、身につまされる者もいたであろう。  小説家ミランドが作り出す空想シーンが挿入されるが、ここからはどこまでが真実で、どこからが空想なのか境界がぼやけてくる。まるで彼の精神状態を物語るかのように。  観劇するシーンでもミランドの酒への異常な執着が表現される。オペラが上演されているにもかかわらず、その舞台内容よりも小道具として出てくる酒が注がれたグラスの方が気にかかるというのはいかに重度の症状であるのかをあらためて観客に見せる。繰り返しこうした視点を演出したワイルダー監督はさすが天才映画作家に相応しいと言える。  この観劇の場で出会ったふたり、ミランドとワイマンの奇遇な関係、そして彼らのその後を早くも暗示する粉々に割れたウィスキー瓶もまたワイルダー監督らしい小道具である。さまざまな小道具が各々何らかの役割を与えられていることが多いのもワイルダー監督作品の特徴である。今の言葉でいうと「リンク」、つまり伏線の張り方が抜群なのである。  登場人物の撮り方や画面の作り方も興味深い。厳格な兄は常にミランドを見下ろすように位置している。彼に酒を飲ますバーテンも親しげに話しながらも常にカウンターという道具を用いて、彼と一線を画している。カメラはそれも映し出す。ロビーで電話を掛けるシーンでの奥行きを意識した構図もセンスの良さを見せた。  音の処理も巧みで、バーで飲んでいる時は店内の会話のみが聞こえるが、扉を開けて、一歩外に出てみれば、街の雑踏が大きな音で聞こえてくるところはゾクゾクしました。オンとオフの使い方の好例でしょう。  アル中専門病棟での幻覚が生み出す地獄絵図は正視できる代物ではありません。一本の酒のために、女を騙し、置き引きをし、スリをし、強盗に押し入る。周りに人間すべてに迷惑を掛け続けるミランドと彼を地獄から引き戻そうとするワイマン。善の意思が勝つか、悪の意思がそれを上回るのか。  ラストでこの恐怖の体験を執筆するように促され、タイプライターに向かう主人公ミランド。ミランドは弱い心に打ち克ったのか。それとも、所詮一時的な小康状態に過ぎないのか。見て楽しい作品ではないかもしれません。  しかしこの年代で既にこれだけ深刻な作品を送り出していた当時のハリウッドの懐の深さと完全に才能が開花したビリー・ワイルダー監督のアカデミー賞初受賞作品を見ないのは映画人生の損ではないかと思います。 総合評価 86点 失われた週末
失われた週末 [DVD] FRT-139