良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『結婚哲学』(1924)エルンスト・ルビッチ監督の素晴らしい一本。映画に台詞は要らない。

 ビリー・ワイルダー監督が師匠と仰ぐエルンスト・ルビッチ監督の渡米後の第二作目となったのがこの『結婚哲学』でした。なんてお洒落なセンスを持っていた人なのでしょう。彼の演出には脱帽するしかありません。  ドイツの監督というとすぐに思い出すのはフリッツ・ラング監督に代表されるどこかグロテスクな作風ですが、ルビッチ監督にはそういった部分は見られません。お洒落という言葉は彼のためにあるのではないかと思わせるカットと構図とアイデアの数々はまさに映画における芸術と娯楽を融合と呼ぶに相応しい内容と輝きを持っています。  とりわけ小道具のさりげない使用方法は今見ても新鮮な印象を観る者に与えてくれます。ビリー・ワイルダー監督はさらにそれを押し進め、リンクを貼るような段階まで推し進めましたが、そのアイデアのオリジナルは彼の師匠であるエルンスト・ルビッチ監督だったのでしょう。  物語設定は離婚間近で愛情が冷め切ったアドルフ・マンジュー教授(『巴里の女性』に出ていましたね)とマリー・プレヴォーの夫婦と医者であり理想の結婚生活を送っているように見えたモンテ・ブルーとフロレンス・ヴィドアの夫婦という二組の夫婦を軸に展開させていて、そこへ医者の共同経営者を務めているクレイトン・ヘイルが絡み、五者五様の思惑を複雑に入り組ませながら分かりやすく纏めるという構成をとっている。  アドルフはマリーと別れ、別の女性と結婚したい。マリーはアドルフを嫌っていて、孤独感を味わっているために、誘惑したモンテと新生活を始めたい。モンテが自分の親友であるフロレンスの夫であることが判明しても、彼女は誘惑し続ける悪女を演じる。フロレンスはモンテのみを愛していて、夫が自分を裏切るなどとは考えてもいない。そんな彼女をクレイトンは秘かに慕っている。  つまりマリーが動かなければ物語は進行しないのだ。アドルフにしても彼女を追い出したいのは山々ではあるが、自分から出て行けとは世間体もあり、なかなか言い出せない。そして彼は妻が浮気するように仕向ける。  寝室に置かれっぱなしになっていた二つのワイングラスをみて、妻の浮気を確信したアドルフはさらに決定的な証拠を探し始める。そうすれば彼は堂々と離婚できるのだ。証拠を握るために彼は探偵まで雇い、妻の身辺調査を始めさせる。  誤解が誤解を生み、フロレンスとモンテは危機的状況に陥るが、基本的に深い愛情があるので家庭崩壊までは至らない。しかしアドルフ夫婦はもともと脆さがあったために結局は離婚してしまう。横恋慕していたクレイトンは実らぬ恋を諦めたが、その代わり美しい令嬢との新たな恋が芽生える。この物語で敗北するのはマリーのみである。  物語を動かした原動力である彼女のみが敗北するという作りには納得できない部分もありますが、当時の価値観ではしかたないとも言えます。どちらにせよこのフィルムの最大の貢献者は彼女であることに違いはない。  次に特筆すべきなのはこの映画がサイレント映画であるということでしょう。全くの無音状態で全篇が進行していくサイレント映画には音と台詞に慣れきってしまっている現在の観客が付いていけない部分があるのは残念ながら事実です。しかしこの作品ではたしかに夫婦や不倫カップルがひそひそ話す会話や口論が聞こえてくるのです。  役者の演技は分かりやすく、しかもサイレント特有の大げさな演技はない。目線と体で感情を表現する彼らにはさらに大きな援護射撃が入る。それこそが構図作りであり、カットのつなぎの妙である。ばたばたカメラや役者が動き回っているわけではないのにドラマは激しく動き、緊張感を増していくのである。  また先ほども触れたように様々な小道具の使い方のセンスには驚かされます。花束が良い例でしょう。夫のオフィスを飾るために多くの薔薇の花を摘んだ可愛い妻であるフロレンスは彼にそれを渡すが、モンテはその花束を彼女を抱きしめた時に全部落としてしまい、しかも気付かない。これは彼が妻にたいして持っていた愛情が失われつつあることを物語る映像としても見逃せない。  このシーンのワンカット前にはフロレンスが一輪の花を家の外で待つクレイトンに二階から投げ渡すシーンがインサートされているのだ。またこのシーンはまるで『ロミオとジュリエット』のような舞台装置を髣髴とさせるのだ。  当然二階から降りてきて二人でクリニックに出かけていくときにはモンテは花を全く持っていない。部屋には溢れるほど多くの薔薇の花が残っているのである。しかしクレイトンからすれば、そんなことは分からないので、一輪の薔薇がフロレンスの彼への愛情ではないかと受け取ってしまう。  落とされて、部屋に散乱している薔薇の花を見たときのフロレンスの悲しそうな顔はこれから起こる不幸な事件を予感させるようであった。さらにこの花は彼女がクリニックに出かけたときにも感情を代弁する大切な道具として用いられる。クリニックではモンテとクレイトンは別の部屋で患者を診ている。  クリニックには患者が絶えなかったが、モンテの部屋に彼を誘惑するために詐病と偽名で診断を受けに来たマリーが来訪している真っ最中であった。クレイトンは用事があり、部屋には行ってみるとモンテとマリー(抱き合っているので顔は見えない)が抱き合っていた。ほのかな恋慕を抱いていたクレイトンもはっきりと見せ付けられると諦めざるを得ない。オフィスを出て行くクレイトンだが、次の瞬間に驚きの声をあげそうになる。  クリニックのオフィスにフロレンスが来ているのだ。では抱き合っていた彼女は誰だったのだ。クレイトンの部屋に導かれたフロレンスはそのときに彼の部屋で綺麗に咲いている一輪挿しの薔薇を見る。彼の気持ちが分かる瞬間である。そのときモンテの部屋にはマリーが誘惑に来ているのである。一つ屋根の下で同時に壁越しに展開する不倫劇。  なにかが激しく割れる音を夫の部屋から聞いたフロレンスは急いで夫のオフィスに入る。そこには割れて砕け散った花瓶と花が無残な姿を晒していた。花だけでここまでの感情を表現しているのです。  朝食風景の演出も見逃せない。穴の開いたまま修繕すらされていないアドルフの靴下。しわしわのままでハンガーにも掛けられていない背広。背中を背け合い、会話もギスギスしている。愛が冷め切ったアドルフとマリーのテーブルには何も並んではいない。二人で食事をするという習慣さえ失われてしまったということであろう。角砂糖をつまむアドルフの顔は砂漠の中に独りでいるような表情であった。  好対照で描かれているのがフロレンスとモンテのそれであった。テーブルがアップになっていて、彼らの表情は全く映らない。その代わり手元が映されているのだ。モンテの前には卵専用の食器にきちんと置いてあるゆで卵があり、それをリズミカルにスプーンで叩いている横ではカフェオーレをスプーンでかき混ぜるフロレンスの手元が映る。何気ない夫婦の愛情を表現した映像としては出色の出来栄えであろう。  さらに素晴らしいのは寄り添うような彼らの影をテーブルに映しこませ、その影が重なる様子、つまりキス・シーンを影だけで理解させるカメラと演出の上品さは見事の一言でした。思わずウットリさせる魅力が彼のフィルムにはあります。  妻に計略(わざとパーティを開き、家を開けて、彼女が浮気しやすいように仕向けていく。そのパーティには彼女らだけではなく、魅力的な令嬢も招かれている)を仕掛けたアドルフがチェスを指す場面をインサートしていくところも凄みを感じさせます。  しかも彼は優位に進めて、その場を立ち去っていく。彼は妻をお払い箱にする計画に勝とうとしているのだ。綺麗な映像ばかりではなく、ワイングラスが暗示する妻の浮気、浮気現場に忘れた(実際は浮気はしていないのであるが)帽子など小道具の面白みを味わえる。  そして極めつけともいえるのがホテルに二つ並んだエレヴェーターが与えてくれる効果であろう。お互いが決して交わることのないすれ違いを映像で表現しています。向かう方向が全く違い、使う手段も違ってくる。最初はエレベーターを使っていたモンテは下る時には階段を下りる。マリーは二回ともエレベーターを使う。結果二人は出会わない。出会わないほうが良かった二人なので、この演出は劇的でした。  マリーが諦めて部屋に再び戻ってきたところで、フロレンスと鉢合わせになる。誰と間違いを犯したのかと詰め寄るフロレンス。そこへ帰ってくるモンテ。すべてを理解した時に見せるフロレンスの表情は見ものである。  映画が台詞なしでも十分に成立していることを改めて確信させてくれる見事な一本でした。ラストシーンでの登場人物のフェイドアウトの仕方も舞台劇風で良い。まず夫をとっちめて意気揚々と下手に消えていくフロレンス。クレイトンを見送り、彼女を追うように消えていくモンテ。  最後に一人残されたクレイトンは愛する対象を失い、孤独な様子を見せながら、車道脇の歩道を黙々と歩き続ける。そこへ通りかかった令嬢が彼に声を掛ける。新たな恋物語の始まりを暗示して作品が閉じられる。ここも実はケレンミたっぷりな演出なのだ。  アドルフが仕向けたパーティで出会った令嬢が彼を車に乗せるのが第一点。第二はマリーとモンテが出会う最初のシーン、つまりオープニングではマリーの乗っていた車にモンテを同乗させるところから始まるのだ。物語は堂々巡りを繰り返すのか。楽しいですね。 総合評価 95点 結婚哲学
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