良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『パフューム ある人殺しの物語』(2006)あのラストシークエンスはどうなんだろうか?

 「音楽に和音があるように、香水にもハーモニーがあり、慎重に選ばれた四つの香料(=音符)がハーモニーを生み出す。香水は頭(ヘッド)、心(ハート)、土台(ベース)の三つの和音からなるので、全部で12の音符(香料)が必要だ。」というダスティン・ホフマンの台詞が印象的な独特の香水の世界は新鮮でした。

 世界中でベストセラーになった、パトリック・ジュースキント原作『香水 ある人殺しの物語』を『ラン・ローラ・ラン』で有名なトム・ティクヴァ監督を起用して膨大な制作費とともに製作されたのがこの『パフューム ある人殺しの物語』です。

 この映像世界及び世界観はジャン・ジャック・アノー監督が中世のキリスト教文化の闇を描いた『薔薇の名前』を思い出させます。あの作品が好きな人ならば(もちろん、僕は大好き!)、かなり楽しめる映像になっています。実際に、この映画には製作にベルント・アイヒンガー、脚本にアンドリュー・バーキンという『薔薇の名前』でのメイン・スタッフが関わっています。

 映画のエッセンスが一杯詰まった作品です。一般受けするとは言えませんが、芸術的な価値はかなり高い。光と影の世界、明るさと暗闇の世界を大いに味わえる一品です。ストーリー的にはサイコ・ホラー、フェチシズム(究極の匂いフェチのために十数人の女性を殺し続ける)が全篇を暗いものにしている。

 演出もかなり凝っている。ヒッチコック監督やブライアン・デ・パルマ監督を強く意識したようなサスペンスフルな撮影と映像表現に満ちている。360度パン、殺されそうで殺されない焦らしの効果などに彼らの影響を見てとれる。

 ウリ・ハニッシュによる美術も素晴らしく、香水店に並ぶ香料や製品のアンティークな味わい、照明の仄暗さは時代と作品世界の暗さといかがわしさを上手く表していました。映像で特に覚えているのはセーヌ川?に掛けられた石橋の上に建てられた欠陥高層住宅群でした。

 汚い河の水を画面一番下に、中段に眼鏡橋のような形の橋桁を配置し、一番上に金持ちが暮らす高層住宅を乗せておく。金持ちの現状というのが如何に脆い基盤の上に成り立っているに過ぎないのかを映像で表した良い構図です。ベンが出払ったあとにこの住宅が崩れ落ちるのも作品の来るべき姿を現しているようで不気味でした。

 オープニングでの荒み切ったパリの魚市場は灰色とどす黒い世界が広がる。この魚市場シーンでの説明的なモンタージュはとても効果的で作品への導入としては見事でした。短いカットで挿入されていく様々なイメージの断片は徐々にはっきりとした世界を構築し、大きな塊になっていく。

 頭を切り落とされた腐った魚、ゴミ溜めに這い回るドブネズミ、肉に湧いている蛆虫(『戦艦ポチョムキン』みたいです)、遺棄された内臓、険しい表情の人々、不潔で臭ってくるような体臭と街そのものの悪臭、容赦なく貧民に打ちつけられる豪雨が怒涛のように攻めてきます。この一連のモンタージュで、この作品世界であるパリに住む貧民層の過酷な人生模様と主人公が巡るであろう運命の厳しさを理解できる。

 とりわけ赤ん坊を産み落としてから、へその緒を肉きり包丁で切り、すぐに腐った魚の中に投げ込み子供を殺そうとする母親の行動が凄まじい。それはこの物語の主人公ベン・ウィショーの母でした。赤ん坊を殺そうとした罪で彼女は絞首刑に遭う。彼を育てた人々はすべて彼を売りさばいた(人身売買が当たり前)あとに非業の死を遂げる。

 この緊迫感のあるカメラはフランク・グリーベによる撮影です。この作品ではカメラは基本的にゆったりと動いている。場面場面で結構スピーディに動いている部分もあるのですが、無駄なそれではなく、必要に迫られて、最適な映像を求めて動いているので、非常に観やすく仕上がっています。これはフランクの撮影とアレクサンダー・ベルナーによる編集の賜物でしょう。

 主な舞台となったのは18世紀のパリではあるが、現実的に現在のパリでは不可能なロケーションが多く、パリの街並みはスペインのバルセロナに、セットはミュンヘンに、そして一部はクロアチアで収録されたそうです。フランスの田舎であるプロヴァンスはさすがにかの地が使われたようですが、基本的にはほぼパリ以外の地で撮られたようです。

バルセロナという街に対して持っているイメージは温暖で明るい街、またはフランコ政権下での圧政に耐えた不屈の町というものですが、この作品ではその片鱗も無く、完全にパリの暗黒世界に変貌している。実際に魚市場シーンでは汚物を撒き散らして、撮影したそうなのですが、俳優達も皆一応にどこか表情が歪んでいるように見える。

 その反対に美しい山々で我々の眼を楽しませてくれるのがプロヴァンスジャスミン畑の風景です。連続凶悪犯罪の惨たらしさと美しいプロヴァンスの風景との対比は絶妙でした。美しいものが一方にあるからこそ、深く邪悪な暗闇が引き立つのです。

 そして今回特筆すべきは音楽でした。サー・サイモン・ラトル指揮によるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を招いて収録されたこの映画のサウンドトラックはそれ自体で芸術として成立している。そもそも、この作品を劇場で観ようと思ったもっとも大きな動機は香水という「嗅覚」が必要になる感覚をいったいどうやって映像と音で表現しようというのだろうということでした。

 その思いに答えたのはベルリン・フィルの孤高の演奏、主演俳優であるベン・ウィショーの風変わりだが力強い演技、そして産毛が見えるほどに接近した鼻へのクロース・アップや驚きを示す360度パンなどでした。これほど人体の中でも鼻に固執した作品も珍しいのではないだろうか。

 ホフマンがベンの作った香水の香りに驚く時の描写に用いられるテクニックが360度パンでした。ブライアン・デパルマ監督が好んで用いることで有名なこのテクニックはこの作品でも劇的な効果を上げています。それまで動き回らなかったカメラが水を得た魚のように気持ちよく動いています。

 ベンが究極の香りを作っていく過程での香水製造への確信を示すシーンも素晴らしい。ホフマンは嗅いだことのない香りを嗅がされるので、彼の驚愕を表現するために最も解り易い360度パンを用いた。しかしベンは自分が欲しい香りを既に知っているので、その香りを作り上げた時にある感情は達成感なのだ。そのため彼が究極に行きついた時には彼の自信に溢れたクロース・アップと音楽で香りが表現される。

  グロテスクなドイツ表現主義を嗅がせる演出と舞台装置、対照的に美の極致を追い求めるベルリン・フィルの音楽などがずば抜けたレベルに到達している。ではこの作品をさらに高みに持っていくにはどうしたらよいのだろうか?何が良ければ名作として語り継がれるのだろうか?あと残る主要要素は演技と脚本です。

 演技はどうだったのか。主役を務めたベン・ウィショーはこのような大役を物怖じせずに良く演じきったのではないでしょうか。素朴だが狂気を心の奥底に秘める難しい役どころを良く理解して演じていました。浮ついた部分が無いのはさすがにシェイクスピア舞台劇の俳優上がりだなあと感じさせました。

 

 ダスティン・ホフマンが演じたイタリア系の香水師のいかがわしさは彼にしか出せない。薄気味悪いグロテスクなメイクもまた良く似合っていました。彼がハンカチを振って、香水の香りを嗅ぎ分けようとする仕草は薄気味悪いが、強く印象に残っています。

 悲劇の父親を演じたアラン・リックマンの渋みは作品を締めている。またベンの犯罪の犠牲になる美しい赤毛の女を演じたレイチェル・ハード=ウッドのなんともいえない清楚な魅力が無ければ、この作品は完璧なものにはならなかったに違いない。

 そして最後にくるのが脚本とテーマである。前半を観ているとそのサイコ・サスペンスぶりは徹底されていて、異常犯罪心理を描いた作品としてはかなりのレベルに達していると思いながら見ていました。残念なのはナレーションがあまりにも多すぎることです。映像だけで十分に理解できるような回想シーンにまで何故このようなナレーションを被せてしまったのか。

 ベルリンフィルの音楽と映像表現だけで十分に各々の感情を表せているのに勿体無い。このナレーションは本当に無駄な付け足しであり、観客が展開を想像する自由を奪ってしまいました。ナレーターを務めたジョン・ハートに罪はありませんが、出来れば大幅にカットして欲しい部分でした。うるさい語りは必要ありません。

 何かと話題になるクライマックス・シークエンスでの狂乱シーンにしても、そのきっかけを作るのは彼の作り出した究極の香水の香りである。如何にその香りが偉大なものであるかを表現するために、嗅いだ者たちが地面に平伏し、涙を浮かべて彼の愛へ感謝するという演出を採っている。しかしこのあとには700人以上の全裸の男女によるセックス・シーンが控えているのだ。

 愛の香りを嗅いだ者には催淫作用が生じるようで、処刑場に駆けつけたすべての人々が一斉に狂うようにお互いを求め合う。映画館の大画面で『ソドムとゴモラ』のような狂宴を観るのは正直どうかと思う。

 マスコミ等で大騒ぎされているように、一連の映像が持つスキャンダラスな側面については別にたいしたことではないのではないかという見解です。そんなに汚らしい映像とも思えませんでした。

 しかしだからといってこの演出を肯定はしません。まず第一に彼の作った香水は決して愛の香水ではないのだ。己が究極の香りを保存し続けたいという欲望のためだけに、十二人もの死者に皮脂を塗りつけてから香りのエッセンスを取って、それを絞り上げて作ったものなのだ。

 怨念の香水でこそあれ、愛の香水ではない。なぜ処刑場の群集を熱狂させ、愛へと向かわせることが出来たのかというのがはなはだ疑問である。

 つまりあのクライマックス・シークエンスとそれまでの物語と映像表現の流れが映画的にも物語的にも繋がってこないのです。幻惑されたのであればそれは悪魔の香りである。ナレーションでも狂乱の宴のあとにその旨が伝えられるが、オーヴァーすぎて反対に、劇中で最も冷静になったシーンでした。

 そして第二に、このラストでの演出のために、これまで積み上げてきたシリアスな精神異常者による連続殺人とその行動に決着をつける処刑場での処刑という儀式を放棄してしまったことです。最後の最後でいきなり『イージー・ライダー』や『ウッドストック』での薬物汚染と同じようにフリーセックスに明け暮れるという描写を採ってしまったのかが大いに謎でした。

 しかも、この愛の香水のおかげで幻惑された司教(彼はカソリックのくせに姦淫していたので地獄の業火で焼かれるのだろうか、それとも彼は告白して、免罪符を手に入れるのだろうか)や裁判官はベンを無罪放免にしてしまう。彼はその後生まれ故郷であるパリの貧民街に帰り、愛の香水を全身に浴びて、自らの肉体を住民に喰らわせて生涯を閉じる。なんだこりゃ?

 勧善懲悪なストーリーにしろと言っている訳ではありません。無意味な描写などいらないといっているのです。処刑場で香水をばら撒いた時に一斉に倒れだす群衆を見たときに真っ先に思い出したのは吉本新喜劇でのボケに対する「コケ」でした。そして頭の中では欽ちゃんが「なんでそうなるのかな!」と絶叫しているようでした。

 グロテスクでフェチシズム趣味たっぷりのテイストとこの狂乱のクライマックス・シーンのおかげで、この作品は間違いなく、観る人を選ぶ作品になりました。映像世界は素晴らしい出来栄えになっています。音楽も抜群です。個人的には観終わった後もなかなかモヤモヤした感じがとれない作品ではありました。

 「自分には香りがない。生きている証が無いのと同じだ。」という悲痛な叫びが凶悪犯罪に拍車を掛けています。自分の存在理由がない。生きている証がないというのは恐怖です。

 香水を完成させるための最後に必要な12番目(香水には12の香料が必要なので、12人殺す必要があったのです)のピースであるハートウッドを殺しに行くシーンでの階段に犬が寝そべっているシーンがあります。

 このとき犬は全く吠えません。なぜならばベンには彼固有の臭いがないからです。このシーンは最初見たときには何故かと思いましたが、後から思い出すと既に触れられていたことに気付きました。

 センセーショナルなクライマックス・シーンばかりが話題になるのが残念ですが、しかし一般受けはしないでしょうね。DJオズマなんか目じゃないですね。

総合評価 84点

aisbn:4167661381香水―ある人殺しの物語