良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『映画の何を観るべきか?』ストーリーを追うだけならば、小説を読んではどうでしょう?

 「映画」とはそもそもなんなのでしょう?それを「芸術」と呼ぶ方がいます。とりわけフランス、イタリア、ロシア、ドイツなどのヨーロッパ映画を構築してきた巨匠と俳優達への思い出を大切にしている方は映画に対してはこうした考えを強く持っているのではないだろうか。

 また娯楽であると言い切る方も多く存在するのも確かです。こうした娯楽としての映画として典型的なのは製作と宣伝に莫大な費用を惜しげもなく投入するハリウッド映画でしょう。映画そのものが投資の対象であります。

 しかしながら全世界的な興行と宣伝、公開後のDVD化やTVでの放映権、キャラクターグッズなどの再利用こそを内容そのものよりも重視するという行き過ぎでアコギなやり方が幅を利かせている。それを当然のこととして忠実に実行しているハリウッド映画業界にたいしては、ヨーロッパや批評家の間にはそのような動きを危惧する者も少なくはないでしょう。

 ひるがえって、盛況といわれているわが国の映画を取り巻く状況は本当に活気付いているのでしょうか。『ALWAYS 三丁目の夕日』『パッチギ!』『フラガール』など近年では優れた作品も多く存在します。

 しかし全体を通して見ていくと、プチ・ハリウッドともいえる宣伝を展開する広告代理店やTV局、主演しているアイドル俳優を持て囃す茶坊主のようなコメンテーターなどが盛り上がっているだけ、出演者たちのゴシップが話題になっているだけ、漫画の再利用をしているだけの中身を観てみるとがっかりさせられる作品の方が圧倒的に多いと言わざるを得ない。

 では一体何を持って、映画と呼ぶのでしょうか?映画館に足を運んで観るのが本来の形ではありますが、老人や体の不自由な方、そして時間のないサラリーマンや主婦にとっては地上波放送、DVD、WOWOW、スカパーが主体になっているというのも現実であります。TVなどで受信したものとレンタルしてきたソフトもまた「映画」である。

 暗い館内で映写されて、見ず知らずの人々に囲まれて、緊張しながら、そしてある種の開放感を味わいながら観る映画館独特の楽しみを残念ながら奪われてしまった方(地方転勤や映画館の廃業)、または忘れてしまった方にも現在の技術革新は恩恵を与えてくれている。

 20年前、レンタルビデオ屋があちこちに出来始めた頃の衝撃、NHK-BSやWOWOWがノーカットで字幕つきで放送しだした頃の衝撃は若い映画ファンには理解できないでしょう。名作ばかりをお手軽に楽しめる500円DVDまで飛び出している状況は異常と言ってもよいのではないでしょうか。

 でも一体「映画」ってなんだろう?と考える人は何人いるのだろうか?映写されずに受像されているものを受身で見るTV型映画ファンと映画館で「ライブ」で観た映画ファンは同じであろうか。絶対違うのではないか。

 映画館で観た映画は思い出となり、なかなか忘れるものではない。親に連れられ観に行ったり、友だちと観に行ったり、デートで行ったり、子供を連れて行ったり、妻や夫と観に行ったり、一人で観に行ったりと行く相手はそれぞれ違うものの映画館には必ず人との交流が存在する。隣の席に誰かが座るだけでもそれは交流なのです。他の観客の反応を観る楽しみもまた映画館にいってきた方のみが味わえる特権です。

 映画?たんなるデートのためのツールに過ぎないという方もいるでしょう。とりあえず彼女なり、彼を二時間拘束できるというのも映画の強みです。そう、映画は後戻りできない、そして終わるまでは基本的に時間を拘束できる強みを持っているのです。

 映画館で観る映画が他の見方と決定的に違う点はこの後戻りできないという点なのです。この点において映画館で観る映画には大きな責任があるといえます。つまり観客の二時間を無駄にしてはならないということです。

 二時間を掛けて、制作者は観客を作品に引き込まねばならない、そして飽きさせてはならないのです。これが出来なかった作品には脚本、演技、演出、編集のいずれかに問題があるといえます。

 では家で見る場合はどうであろうか。厳密に言わせていただくと、自宅でDVDを見ながら一時停止や早送りをした段階で、映画はその価値を大幅に失うのではないでしょうか。感情の起伏を二時間掛けて意図的に導いていく映画において、一時停止は「死」を意味するのではないだろうか。

 家事や子育てもありましょうし、飛ばし飛ばし見たり、何日も掛けて少しずつ一本を見るというのも有りとは思いますが、厳しく言うと、それは既に映画ではなく、TVドラマに過ぎない。作品本来の拘束時間の中で、それを見た者が何を感じるか。家で見る場合のもっとも大切なルールの第一でしょう。

 もちろん家で見る利点もあります。見終わった後に見たい場面に戻れるという芸当は劇場では出来ません。それをしたかったら、再度見るか、入れ替え時のどさくさに紛れて、こそっと入り込むしかない。新作記事を書く場合にはこの点が一番難しい点です。

 では実際に映画の何を観るか?一番奥の深い問題です。人々の興味は千差万別です。同じ映画を観たとしても、その時々の感情や精神状態でフィルムから伝わってくるものはまるで違ってきます。これは感情を開放してくれる映画の良さでもあり、反面で感情ばかりに囚われてしまい、冷静な見方がまるで出来なくなってしまう厄介な問題でもあります。

 感情に身を任せているだけで心地良い映画は多く存在します。何度も観る映画にはそういう要素が強い。たとえ名作と呼ばれる作品ではなくとも、映画ファン一人一人にとって、とても大切な作品というのは存在するのではないでしょうか。心の琴線に触れる作品を多く持つことは映画ファンの喜びのひとつでしょう。では何故心に触れたのか。

 そのときに必要となってくるのが観るためのモノサシでしょう。個人的には映画を観るために必要な諸要素としては脚本、演技、演出の「ジャンケンポン・トリオ」がもっとも重要だと考えております。これら三つは映画の「血」であり、「骨」であり、「内臓」なのです。

 これらがしっかりしていてこそ、はじめて映画はその基本を整えることが出来ます。これらがあってこそ、次に音楽、舞台装置(衣装や小道具も含む)を見ていくことができる。そのあとにはじめてその映画が面白かったのかが理解できる。

 何が面白かったのでしょうか。監督が表現したかったであろうテーマなのか、流れるような編集だったのか(編集によりかなり感じ方に差が出てくるのはエイゼンシュテイン監督作品を観れば明らかである)、ただストーリーのみだったのか、俳優の演技だったのか、衣装の素晴らしさだったのか、いろいろと出てくるのではないでしょうか。そのひとつひとつの感じたことを大切にしていって欲しいものです。必ず映画ファンとしての幅が広がってくるはずです。

 そして映画ファンから、筋金入りの映画マニアを目指すならば、「面白い」の理由をしっかりと考えて欲しい。「面白い」は初心者だけに許された免罪符であると理解すべきではないでしょうか。どの映画の感想を聞かれても、「面白かった」「つまらなかった」では大人の会話にはなりません。

 映画に限らず、何事に対しても適当にしか接しない人には適当な喜びと適当な苦しみしかないように思えます。せっかく生まれてきて、映画を好きになったのでしたら、徹底的に愉しみたいものです。楽しむための一助となれば幸いです。

 最後にひとこと。映画を観るときにもっとも必要なものは映画への愛情ではないでしょうか。厳しい表現をすることの多い自分ではありますが、基本的にはなんとかして一つ一つの映画から良い点を見つけていきたいと思っています。