良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『吸血鬼(ヴァンパイア)』(1932)映画の本質と光と影の使い方を熟知していた名匠ドライアー。

 いまでは知る人も少なくなってしまっているのは残念ではありますが、デンマーク出身の名匠、カール・ドライアー監督の1932年の作品で、クロース・アップの多用で有名な『裁かるゝジャンヌ』と並ぶ彼の代表作品のひとつがこの『吸血鬼(ヴァンパイア)』である。  このフィルムには映画の見せ方として映画史上の最高峰に位置すると呼んでも過言ではないほどの映像美がある。映像で意味を伝え、感情を誘導するという映画の基本に忠実であり、映像の意味を言葉でなく、映像自身に語らせる手法と選択した技術の正確さには驚かされる。アヴァンギャルドという意味でもブニュエル監督の『アンダルシアの犬』に引けをとらないだけの大きな力と映像の凄みがある。  ドライアー監督という人は発想の転換と柔軟性が素晴らしく、彼がいかに真剣に、そして楽しんで映画に向き合っていたのかを見る者は知ることになります。そもそも、とかく吸血鬼というと黒マントに牙という大げさな姿形を想像してしまいますが、それはユニヴァーサル映画の影響が強すぎるためではないだろうか。つまりベラ・ルゴシインパクトがあまりにも強烈に印象に残っているのです。  しかしこの作品での吸血鬼は正体をなかなか現さずに、こそこそと動き回り、逃げ回る。まるで魔女狩りを恐れる魔女のように。このような展開は派手になっていく一方の、この手のホラー映画としては珍しく、むしろ新鮮に映るのではないだろうか。襲うのではなく、秘密裏に活動していくのである。吸血鬼が人間に対して持っている恐怖も同時に描かれている点でも興味深い。
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 図形の使い方も効果的で、エイゼンシュテイン監督作品的なギザギザした図形、囲い込んでいくような柵や檻のような構図、鋭利な道具類の形状そのものが潜在的な恐怖を見る者に与える。  とりわけ畑の草刈に使用される大鎌の鋭利で巨大な映像は悪魔か地獄の使者を連想させるほど恐ろしい。まるで首を刈るために持ってきたような印象を与える。映像のモンタージュのみで、恐怖はどんどん積み重ねられていく。捨てショットに用いられる天使の看板や農夫の影でこれほど身の毛がよだつのはなぜだろうか。  いくつものしゃれこうべ、大鎌、天使の看板、牧師、閉じ込められるような檻や柵のイメージを積み重ねていくことで、新たな意味を作り出していく。エイゼンシュテイン監督の言うモンタージュです。宗教関係者が怪しく見えるのは『戦艦ポチョムキン』が公開された20年代後半から30年代の作品に頻繁に出てきますが、これはそのころの宗教や旧来の観念への不信感が最新の娯楽であった映画にも表れていたのでしょうか。  目線の定まらない、不安定な主人公アランを見ていると、彼以外の者すべてが悪い人間のように映るが、彼自身も既に吸血鬼に犯されているとも思える。だれが悪なのか、誰が善なのかというのが非常に判り難いが、そもそも人間社会において、絶対的な悪も、絶対的な善も存在しないということをドライアー監督は明らかにしたかったのではないだろうか。  その狙いが全てをぼんやりと分かりにくいものにしているのかもしれない。終わりのない悪夢の迷宮に嵌まり込んだような居心地の悪さが特徴である。主人公の不安を表現する演技と不安定な立ち位置に混乱させられる観客。どちらが観客なのだろうか。  奇妙な作風と二元論で割り切れない価値観に投げ込まれて、戸惑うばかりの観客は相当数いるでしょう。しかし、この作品には吸血鬼映画に必要な要素はすべて詰め込まれている。そもそも吸血鬼ほど二元論で捉え易い対象も少ない。善と悪、生と死、夜と昼、男と女、獣性と理性、光と影、美と醜など数え切れません。反対にこれらを描けていないものは吸血鬼映画にはなりえない。  というかホラー映画でこれらをきちんと描けていないと、いくら特撮技術で誤魔化していても、底が浅く、二回以上の鑑賞には耐えられないし、見たいとも思わない。吸血鬼映画としてはムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』と並ぶ最高峰である。つまり吸血鬼映画は70年以上、全く進化していないとも言える。  ストーリーとしては幻想的でもあり、アヴァンギャルドでもあり、神話的とも言えるが、全ての境界線がはっきりと分かりづらいので、一般受けは期待しにくく、実際に興行はかなり不振だったようです。ドライアーもこのあとは1943年まで作品を発表していません。
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 しかしながら残された映像のクオリティの高さは尋常ではない。記憶に残るというか、悪夢を見るような映像が目白押しなのです。心理学的に見れば、かなり興味深い対象になりそうな映像が多い。  自分の死に驚愕するアラン・グレイ(ニコラス・ド・ギュンズベルグ男爵)と棺桶の中で目を見開いて横たわる彼の死体の対面シーンは当時では鮮烈だったのではないだろうか。死は再生なのであろうか。それではこれ以後のアランは吸血鬼の一味なのだろうか。見る者を混乱に陥れていくことで、恐怖はさらに増していく。  棺桶に乗せられて運ばれていく死者アランの視点で語られる一連の長いシーンの恐ろしさはこの映画の中でも屈指の名場面であろう。死者の影が踊り狂うカット、地面を這い回る影の得体の知れない気持ち悪さは見た者しか理解できない。なによりもこの作品でのドライアー監督は影使いの名手であり、影の恐ろしさを上映中、常に観客に見せ続ける。  またユニークなのは夜を演出するのにろうそくの灯を効果的に用いていることです。当時の照明技術と電力事情では夜のシーンを夜に撮影するのは相当厳しかったであろうというのは想像に難くない。  それを簡単に解決したのはろうそくの灯でした。これがあるために昼でも夜と言い張れるのは強引な力技ですが、彼は発想の転換で切り抜けました。また吸血鬼が主役なのだから、昼夜逆転していても問題ないとも言えなくもない。撮影では『海外特派員』や『ギルダ』で素晴らしい才能を見せたルドルフ・マテがこの作品でもセンスの良さを提示している。  ギュンズベルグ男爵の演技もこの映画の質を高めている。貴族らしい高貴さは吸血鬼映画に欠かせないセクシャルな魅力を振り撒いている。挙動不審な目の配りや頼りない佇まいにはのちの吸血鬼のような強さと恐さはないが、危うさと脆さを合わせ持つ、他とは違う吸血鬼像を見せてくれる。まあ、彼が吸血鬼かどうかはっきりとは分かりませんが、現実と非現実が曖昧なこの作品では誰がどうとかは無意味なのかもしれません。  セクシャルという意味では吸血鬼になりかけていく美人姉妹の姉が穢れのない妹の血を狙う時のレズビアンのような舌なめずりするような目、穢れない妹が囚われて、まさに吸血鬼に血を汚されそうになる時の切なげな様子。しかも彼女はSMのように呪縛されて、吸血鬼の隠れ家に捕えられている。  トーキーに入ってからの作品なのですが、この作品にはほとんど台詞がありません。字幕が入るのと吸血鬼本で説明されるというお約束シーンもありますが、基本的には映像を見るだけでも十分に恐い映画になっています。  しかしながらこの作品で重要なのはサウンドなのです。サウンドが作品世界に厚みを持たせることをドライアー監督は完全に理解しています。音の重要性を理解しながら、しかも不必要な音は使用しない。  なにかとブレッソン監督に批判されてしまったドライアー監督ですが、音の使い方を見る限り、それほど考え方に違いがあったとは思えない。感覚的にはむしろ近い部分があったからこそ、ブレッソン監督とドライアー監督では決定的に違う「ドラマ」に対する感覚を許すことが出来なかったのではないでしょうか。  撮影技法の使い方にもセンスを感じました。ドリーやパンは効果的に用いられていました。部屋から外に出るときや室内でのシーンなど動きの少ない場面ほどカットを割ったり、視点と視点の動きを変えていくことで変化をもたせる。  そして屋外や特殊撮影シーンでは奇を衒ったようなカメラワークを用いずに、オーソドックスに対象を分かりやすく捉えていく。場面転換に使われてリズムを作り出していく天使の看板や農夫の影のカットが素晴らしく、不気味な雰囲気を盛り上げていました。  なによりもまず、この映画を見た者は影の使い方に注目すべきでしょう。影は未知なるものであり、不確かなものであり、不気味なものであり、実体のないものを映像化して、意味づけを見る者に強いる。ただ恐いと感じるだけでも良いのですが、意味を探るのも一興です。  観客は想像力を掻き立てられて、恐怖心を煽られていく。これはホラー映画の基本です。主人公の目に映る世界ははたして現実世界の実像なのであろうか。哲学的な映画とも取れますし、ドライアー監督が観客を挑発しているようにも見える。  この映画でのカメラの目線は人間界と吸血鬼世界を行き来しているように見える。どちらが実で、どちらが虚なのか見ている者は徐々に分からなくなってくる。見ていく姿勢というか、見る者の決め付けがぼんやりと崩れてくる感じでした。  影と実体が乖離していくシークエンスは夢なのか、それとも内面と外面であるペルソナが離れていく様子を映像で語ったものなのであろうか。幽体離脱なのか。実体が現実なのか、影が本質なのか、見える部分が全てではないことを目に見える映像で語ったドライアー監督の凄みを見ました。
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 フィルム状態がかなり劣化しているのは少々残念ではありましたが、十分に鑑賞には耐えます。そして製作から70年以上を経た現在でもフィルムの力は全く衰えてはいません。馬車や吸血鬼本が必ず登場してくるのはすでにお約束のシーンであったのでしょうか。  作品には直接関係はありませんが、吸血鬼そのものについてのことを少々語っていきます。穿った見方かもしれませんが、夜な夜な吸血鬼が若い女を襲うというのは一般的な吸血鬼伝説の特徴ではありますが、この吸血鬼をプレイボーイに置き換えると物事が見えてくるように思えます。  夜な夜なプレイボーイが若い女性を求めて、不特定多数と乱交を重ねて、地域に性病を広めることへの戒めとして、使用されたのが吸血鬼伝説の広まった要因ではないでしょうか。つまり社会的秩序と宗教的秩序のためには必要な作り話だったのであろう。  首筋に噛まれた跡があると、吸血鬼に噛まれたに違いないとなってしまえば、当時の感覚では結婚する上で大きなハンデになったことでしょう。誤解を避けるためにも首筋へのキスは避けねばならない。モラルを保つために必要な伝説、それが吸血鬼伝説ではないでしょうか。  フランケンシュタイン、透明人間、狼男など他の怪物にはセクシャルな魅力はあまりありません。ただ吸血鬼のみに与えられた魅力、それがセクシャリティーとエロチシズムではないだろうか。誰にでも噛み付くわけではなく、選ばれた者(若い処女)のみに邪悪な牙を向けるというのも吸血鬼ファンに女性が多い原因かもしれません。  その他印象に残るのは材木の大鋸屑の中で生き埋めにされていく吸血鬼に魂を売った悪徳医師のもがき苦しむ様子、それとのクロスカッティングで描かれる主人公と囚われていた娘が深い霧の中でボートを使って逃げ出していく幻想的なシーン。  そのあとに続く、二人で寄り添うようにして歩いていくシーンは一見するとハッピーエンドではありますが、彼らは人間なのか、吸血鬼であるのか、生きているのか、死者なのかですら、もはや分からない。映像美の何たるか、映画とは何なのかを知るには格好の一本です。 総合評価 93点 ヴァンパイア
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