良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『メトロポリス』(1926)<第二部>デカダンス、混迷、不信…。ドイツの世相が凝縮されている。

 このSF映画の傑作『メトロポリス』で、もっとも重要な俳優である主演女優、ブリギッテ・ヘルムが一人二役で表現したのは対照的なマリアとアンドロイドではある。ヴィジュアルとしては二つの役は別物ではあるが、暗喩としては『ジギル博士とハイド氏』のように、ひとりの人間の二面性であるとも取れる。  扇動者(アンドロイド)と救世主(マリア)の差も僅かであり、支配者(高層地区に住んでいた頃)と労働者(地下に潜入後)も革命が起こると、180度引っくり返る。身分制も脆弱な決まり事にすぎないことがよく分かる。ファシストコミュニストアナキスト専制君主、メシアが同じ空間に配置されているのは混沌としか言いようがない。
画像
 マリアが扇動者(アンドロイド)と救世主の分離であるように、フレーリッヒも支配者(アーベル、つまり自分の将来の姿。)と理想家(今の自分)の分離なのではないだろうか。そう考えるとキャラクターは4人だが、じつは二人の人間の心中で起こっている葛藤を解りやすく表現した姿がアンドロイドであり、アーベルなのではなかろうか。  いみじくもラスト・シーンで頭と身体を繋ぐのは「ハート」つまり「心」であると宣言される。論理的な部分と感情的な部分のバランスをしっかりと取っていればこそ、はじめて人間世界の繁栄が築かれるという寓意ではないか。
画像
 資本家(フレーリッヒ)と労働者の精神的な支柱マリアの活躍によって、子供たち(未来)を救い出すシーンは以後の協調の重要性を示してくれる。過去はもちろん忘れてはならないが、それ以上に必要なのは未来をどう生きるかなのではなかろうか。  バベルの塔のエピソードやキリスト教世界の思想を説くマリア(思えばそのものズバリのネーミングです。)は旧世界の人間であり、扇動するアンドロイドはラジカルであり、前衛的である。どちらがいいか悪いかは分からない。多数派が「良い」のかどうかは実際かなり疑わしいからである。多数派が常に正しいとは限らないのはわが国の情勢を見ればすぐに分かる。
画像
 古いと感じる方も居られるであろうが、映画とはそのワン・カットの瞬間瞬間(1/24秒)をフィルムに焼き付けることで命を授けられる連続体の生きものである。繰り返し上映されるというだけではなく、観客に残したイメージ群はそれをもとにして新たなフィルムを生み出すDNAともなる。どこかで観たことのある映像が何気なく新作映画で観ることがある、というかほとんどの映像は既に誰かがいつの時代かに作り上げたものである。  一本の新作映画とは100年の歴史の中から色々な遺伝子を受け取って生まれた拡大再生産されたものであり、すべてのフィルムは歴史から逃れることは不可能である。クロース・アップや「繋ぎ」のない映画、ドラマの要素が全く無い商業映画、キネティック・パワー・ゼロの映画、感情を誘導しない無意志の映画は存在を許されない。
画像
 前衛映画にしても、新しいものを作り出そうという意図が働いているし、ドキュメンタリー映画にしても、誰かの視点が存在する以上、公平ではない。そもそも公平という視点そのものが単なる虚構である。  フィルムは製作者たちが行ったこともない場所で上映されて、また新たなる支持者を増やしていく。そして、フィルムは時間を越えて、遠い未来の観客へ永遠に語り継がれる稀有なツールである。1926年の公開から80年、つまり100年近く前から既に存在している『メトロポリス』が我々に伝えてくれるメッセージはどういうものであろう。  勘違いしてはならないことがある。映画は今では芸術であるが、当初はニッケル・オデオンの俗称でも明らかな通り、大衆の娯楽にしか過ぎなかったのだ。ともすれば忘れがちになってしまうが、基本は観客ありきであって、制作者ありきではなかった。エリートのために作られたものではなく、労働者が求めるチープな娯楽でしかなかったのだ。  それが変わったのはD・W・グリフィス監督が芸術への道を開き、チャーリー・チャップリン監督の才能とプライドであり、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の編集における功績であり、F・W・ムルナウ監督の美しい構図と映像言語であり、そしてフリッツ・ラング監督の類稀なるセンスと飽くなき芸術への追及の賜物である。
画像
 照明の暴力的な凄みをはじめて見せてくれたシーンがある。マリアがマッド・サイエンティストに追い込まれるときの彼の視線を表現した、恐ろしい光線はモノクロのために、より一層暴力的で偏執狂的な彼の意志を代弁する。科学者の執着ぶりと異常性をヴィジュアル的にもっとも分かり易く示したのがこの拉致シーンでしょう。マリアの恐れは誰が見ても理解できる。映像が世界言語のひとつになりえることを証明できるシーンである。  照明の当て方にも工夫がある。マリア(ブリギッテ)には神々しい光の当て方がされている。もう一方のアンドロイドにはどこか陰惨な黒光りしたような光が当たっている。服装も色分けがきちんとされていて、マリアやフレーリッヒら純真な心を持つ者には白い服が用意され、父親や科学者には黒い服やむさ苦しい服が割り当てられている。色だけに限らず、設定においても、基本的にすべてが二元論的に色分けされているのが分かるであろう。  ブリギッテの演技は作品の根幹ではある。しかし彼女だけで作品が成立するわけではない。グスタフ・フレーリッヒが演じた主人公のオーヴァージェスチャー気味の熱演をどう捉えるかでひどく印象が変わってしまう危険性はあります。  しかし当時の演技ではそれはごく当たり前のものなので、あまり身振り手振りに違和感を持たないで欲しい。本質を見誤らないためにも、演技にも時代性が現れることを理解すべきである。なにせ音の無い時代に感情や意志を表すには目や身体をフルに使って、表現しなければならなかったのである。
画像
 その苦しさを思えば、滑稽などという言葉が出せないはずである。もし仮に、今現在の映画がサウンドを奪われてしまったならば、つまりサイレントに戻ったとすれば、多くの映画監督や製作者が映像の難しさを改めて理解し、もがき苦しむであろう。アルフレッド・アーベルが演じた父親兼支配者の威風堂々とした演技は素晴らしく、フレーリッヒの熱演とは対照的な冷たい演技で現在の観客である我々をひきつける。  カメラの動きについても触れていくと、基本的にほぼすべてが固定カメラなのに動きがとてもスムーズで、流れるように映像でストーリーが語られていく。主体性はカメラではなく、人間の動きにある。1926年度の作品ではあるが、すでにクロース・アップ、クロス・カッティング、影の使い方、字幕の入れ方、構図、上手と下手、正面や後ろ向きからのショットなど、映像によって変わってくる意味の違いが堪能できるのだ。  つまりサイレント時代の最盛期を迎えようとしていた当時にはほぼすべての映像表現は出尽くしていたのだ。さらにいえば、映画芸術の進歩はこれまでのような驚異的な速度を失い、トーキー以降は音が足かせにすらなってくる場合もある。  トーキーで加えられたのは音声であったが、それは映像ではなく台詞で感情を語れるという禁断の果実でもあった。凡庸な監督にはさぞありがたかったに違いない。台詞で語らせれば、ロケやセット作りもたいそう楽になるし、良い映像でなくとも、良い台詞で人々を欺くことも可能になる。それが映画だろうか。  
画像
 アンドロイドの身体の線がくっきりと出てしまうボディ・ラインのセクシャルな曲線は扇情的であり、生物的であるともいえる。直線のみでアンドロイドがデザインされていたとしたら、何の魅力も感じないでしょう。曲線美があるからこそ、艶めかしいアンドロイドが誕生したのである。  
画像
   地獄門のようにそびえ立った動力部は犠牲者を何百何千飲み込んでも、まだ足りないかのように新たな生け贄を求める。大爆発が起こり、死者が運び出されると、補充人員が何事もなかったかのように通常業務をこなしていく。  労働者には夢も希望はなく、ただ苦痛でしかない作業が続いていく。仕事ではなく、作業なのだ。当時のドイツは第一次大戦に敗北し、領土と誇りと日常生活のすべてを失った頃である。神を信じる者、拝金主義者、コミュニストを想像させる人々を映画では描いている。  工場シーンでの労働者たちのせかせかしたパントマイム的な動きは滑稽であるが、滑稽であればあるほど、現実の下らなさや単調さを強調する。それは当事者以外が労働の様子を見るとより鮮明に間抜けにしか見えないという点において。それは現在も変わらない。会社内のみで通用するルールはすべて常識ではなく、習慣に過ぎないということを再認識すべきであろう。
画像
 当然ながら映画芸術には、それを作った人々の思いやその時代の雰囲気がモロに出てくる恐ろしい映写装置でもある。『メトロポリス』にも、製作当時の敗戦国ドイツの混乱を象徴するシーンがいくつかある。  第一はアンドロイド・マリアのストリップ・ダンスのシークエンスであるのは言うまでもない。退廃的、いかがわしい、猥雑、エロチックなダンスは今見ても猥褻である。ましてや二十年代後半なら、観客が受けた衝撃は計り知れない。
画像
   衣装及び髪型などのデザインの斬新さは『スター・ウォーズ ファントム・メナス』『スター・ウォーズ クローン大戦』でのナタリー・ポートマンの衣装やヘア・デザインに継承されているのは明らかである。しかしまあ、この衣装の露出度はいかがなものであろう。
画像
 ほとんどポルノに近いほどの見せ方には当時の観客はさぞ眼のやり場に困ったことであろう。暴力的かつ性的描写に溢れた、この映画の代表的なシークエンスの一つであるのは明らかである。観客の記憶にというよりも動物的に目に焼きついた映像であったに違いない。  褐色のダンサー、ジョセフィン・ベーカーのような躍動感ではなく、ひたすらに淫靡で退廃的な香りを撒き散らすブリギッテの姿はマリアの清楚さのイメージがあるからこそ、さらに際立って見える。周りを取り囲む男たちも彼女を性の捌け口としてしか見ていないのは明らかであり、彼らが暴発しそうな勢いはこの場面からも予想できる。
画像
 暴力に訴えるアンドロイドではあるが、それを作り出したのは体制側である。反乱を抑えるために差し向けた道具が自らに帰ってくる様はまさにナチを支援した財閥とダブってくる。アンドロイド・マリアが最後に火炙りにされる様子は中世の魔女狩りを思い起こさせるとともに、一度はドイツを再興した原動力であったはずのヒトラーを叩き落したことをも思い出させた。それは現在の人間も場当たり的な本質はまるで変わっていないという真実を抉り出す。
画像
 第二は扇動して、暴動を引き起こすシークエンス。時代の負のエネルギーと迫力をあれだけ捉えた映画がどれだけ多くあるだろう。まずはデザインの秀逸性については既に語った。付け加えるとすれば、それはモブ・シーンの素晴らしさである。  まるでニュース映像でも見るような、地下都市での暴動シーンの圧倒的な人数の捌き、洪水が引き起こすパニックを音もなしに表現した凄みを見て欲しい。これはCGではなく、すべて実写なのである。フリッツ・ラングという人は金と人件費を掛ければ掛けるほどに、驚異の映像作品をモノにできる人だったのであろう。それはなにも興行収益を上げるという意味ではないのをお断りしておく。
画像
 経済的に恵まれた環境と思想的に自由な雰囲気で映画制作に没頭することが芸術をより確実に豊かにするのだろうか。または抑圧された環境では芸術は停滞するのだろうか。  フリッツ・ラングのキャリアを眺めていると、いつもその疑問が頭に浮かび上がる。彼が映画史に残る仕事を手掛けていたのはすべてドイツ時代である。その頃のかの国は大戦で敗北したあとの夢も希望も何もない時代であった。不満と貧困が覆い尽くしていた時代であった。
画像
 前述したように、フリッツ・ラングが映画監督として華々しい活躍をしたのは混迷のなかでした。ドイツが再びナチス党のヒトラーを旗頭にプライドと国力を取り戻そうとしていた時にラングは故郷を離れた。  そして彼が辿り着いたのは自由の国アメリカだった。彼はそこで自由に映画を制作できるはずであったが、ハリウッドの様々な制約は彼の実績をもってしても、打ち破れるほど甘い壁ではなかった。  身内であるはずの映画業界内部からの制約は外部世界である政治家からの圧力よりも、一層ラングに無力感を与えたのではないだろうか。アメリカ以降の彼の作品には、ドイツ時代に確実にあった緊張感と切れ味が時間を重ねるごとに消え失せていった。  この作品『メトロポリス』での斬新さと莫大な予算を掛けてまで目指した芸術性、『ニーベルンゲン』での骨太さと民族としての誇り、『スピオーネ』のひねりが利いた設定とストーリー、『ドクトル・マブゼ』の預言者的言説が徐々に失われていき、ハリウッドの中の優秀な職人監督の一人になった。